05 もう二度と
誓いの言葉を口にしたとき、彼の記憶は正常ではなかったが、判断力までそうだった訳ではない。
ハルディール王に忠誠を誓い、〈峠〉の神の名のもとに国と民とを守ること。その気持ちは騎士としての誓いを立てる前から彼の内に存在した。ただ、自分が〈シリンディンの騎士〉を名乗る資格はないと考えていた。
そのわだかまりを取り払ったのは、ライサイの魔力であったかもしれない。騎士として王に、王家に、神殿に近くあり、魔物の都合のいいように働かせるために。
その可能性はルー=フィン・シリンドラスに騎士位の辞退を考えさせたが、タイオスと、そしてユーソアに却下された。彼の騎士の資格はないと言い切った、ユーソア・ジュゼにまでだ。
それはこの状況を慮ってのことであるやもしれなかった。
彼は騎士の位なくとも同じ働きをするつもりでいるが、「騎士」の名を冠せなくなることは現状、好ましくないと。
実際、そうだ。彼が〈シリンディンの騎士〉であるということは、僧兵にも力を与える。ヨアフォードに従ったことでは罰せられなかったものの、心の奥底ではうしろめたさを拭いきれずにいただろう。だがそれも、ルー=フィンが騎士であることで解消される。
義務や罪悪感からではなく、誇りに思うことができる。
神のため、国のため、民のために戦うことを。
「ラドル! 右だ!」
正確に一体のソディエののどを突いて、ルー=フィンは警告を発した。呼ばれた僧兵ははっとして、大急ぎで移動した。
実戦慣れしているとは言えない僧兵たちは、いささか浮き足立っていた。個々の能力はそれなりに高く、怖れを捨てることもできていた彼らだが、訓練時と同じ動きはなかなかできないものだ。ルー=フィンの警告でことなきを得た者も多かった。
しかし少しすると、状況も見えてくる。ソディエの術が一定の距離をおいてこそ威力を発揮するものだと気づくと、乱戦に持ち込めば彼ら「人間」に有利と思われた。
青年騎士の活躍もあって、彼らは次第に「ソディエ何するものぞ」と感じはじめた。勝てると、思ったのだ。
そのときまで。
夕暮れのような辺りの風景は変わらなかった。つまり、空を見上げて黒い太陽を確認する必要はなかった。
視線をさまよわせるのは危険だ。ただし、状況を完全に把握し、そして視線を動かす先を定めていれば問題はまずない。
ルー=フィンは見た。
見上げた。
彼は空を見ようとしたのではなかった。
黒き太陽と黒き〈杭〉の間。
全身をローブで覆い、鱗状の顔をあらわにしたソディの宗主、ライサイが浮いているのを。
「そこまでだ、銀の鳥」
ライサイは笑った。
「五体のソディエを消し去ったか。人間にしておくのは惜しいものよ」
相手をするのは危険だ。ライサイに気を取られる内に、ほかのソディエの標的になることは十二分に有り得る。
そう考えたルー=フィンであったが、次の瞬間、彼は困惑した。把握していた魔物たちの気配が、一気に消えたからだ。
彼はタイオスが繰り返し繰り返すように、天才的な感性を持っている。魔術師たちが「波動」と呼ぶものを知らず知らずのうちに感じ取ってはいたが、やはり魔術師とは違う。
彼は「気配」を探るとき、かすかな息遣いや風の動き、普通の人間には感じにくい視線の力、そうしたものにも頼っている。距離を取られれば、それは自然、判りにくくなった。
結果として彼と、そして僧兵たちもまた消えたソディエを目で探し、自分たちが囲まれたことを知った。
「児戯につき合うてやるのは仕舞いだ。守り札は少しばかり術の効き目を遅らせようが、それ以上の効力は持たぬ」
魔物の首領は何か指示を発した。十数体のソディエは一斉にひとりの僧兵を指し、彼は瞬く間に凍りついた。人間たちが驚愕する暇もなく、ライサイが手を振り、像は粉々となった。押し殺した悲鳴のような声が低く響く。
「――下りてこい!」
ルー=フィンはライサイに叫んだ。
「これ以上の暴虐は、許さぬ」
「身の程をわきまえぬその物言いにも、もう飽いたわ」
ライサイは口の端を上げた。
「気概に免じて我が手としてやったが、土地神ごときにすがって術を打ち消すなど、面白うない真似も見せた鳥に相応しき罰は何か?」
「ごたくは要らぬ」
ルー=フィンはライサイとの距離を目測した。
その結果は昨夜のタイオスと同じ。剣を振り上げて飛びかかってみたところで、足先に切りつけられるかどうかというところだ。
礼拝堂の長椅子や、いつぞやの〈第二十二境界〉の岩のような足がかりもない。飛び道具で対抗するしかないが、ただの弓矢ではライサイに損傷を与えることはできない。
「わざわざ〈杭〉に命を捧げるために集まったニンゲンども」
魔物は文字通り彼らを見下した。
「望み通り、死なせてやろう。幻夜を囲う柵となるがいい」
ライサイは片手を上げ、ルー=フィンらは緊張した。
「だがその前に、訊いておくとしよう」
魔物はいくらかわざとらしく言った。
「銀の鳥よ。我に許しを乞い、我にひざまずくと誓うのであれば、その雑兵どもの命は救ってやると言えばどうする」
「何を」
銀髪の若者は緑の目を怒りに揺らした。
「ミヴェルごとき価値のない女を救おうとしたお前だ。同じ志を抱き、ともに戦った僧を死なせるのは忍びなかろう」
さあ、とライサイは言った。
「もう一度機会をやろう、銀の鳥。お前の」
「否」
彼はすぐに返事をした。
「繰り返し、誓いを翻してきた私だ。もう二度と――」
騎士は魔物に向かって剣を突きつけるように差し上げた。
「誓いは破らぬ」
「左様か」
判っていたというように、魔物は少し笑った。
「では、死ね」
はっと気づくと、ソディエたちは二重三重に彼らを取り巻いていた。僧兵は剣や槌を握り締めてそれらを睨んだが、突っ込んでいけば氷像にされるだけだと判っている。
「さらばだ、銀の鳥。そして愚かなるシリンディンの信者たちよ」
ライサイは手を上げた。それを合図に、三十四十体のソディエもゆっくりと手を上げ出す。
「〈杭〉の命となれ」
次の合図は、風を切る矢の音だった。
それは昨夜のようにライサイの胸に突き刺さった。
「な」
ルー=フィンは驚いた。無論、矢を放ったのは彼ではない。
「調子に乗るのもそこまでだ、ライサイとやら!」
放たれた矢のように鋭い声が、辺りに走った。
「シリンドルをこれ以上荒らそうと言うのであれば、〈峠〉の神シリンディンの名において、このハルディール・イアス・シリンドルと〈シリンディンの騎士〉がただちにお前たちを成敗する!」
少年王ハルディールは愛馬〈コラーレ〉号にまたがって朗々と叫んだ。
「ハルディール様」
「王陛下!」
「ユーソア様に」
「レヴシー様も」
途方に暮れ、絶望に近いものを覚えていた兵たちはわっと歓声を上げた。
残りの僧兵を率いて、王と騎士がやってきたのだ。これ以上頼もしいこともない。
「祈れ!」
ハルディールが叫んだとき、ユーソアが二本目の矢を放った。
「神は」
少年王は何かを掲げた。
「我らとともにある!」
〈白鷲〉の護符は不可思議な夕闇のなかでかすかに光っているようだった。
うおお、と兵士たちはときの声を上げると、誰からともなく魔物たちに再度挑んでいった。