03 賞賛に値する
一斉に指を差されたとき、何も知らないミュレンが絶望することはなかった。ただ彼は、見つかったかと思い、舌打ちをしただけだ。
それから数秒の時間は、彼に驚きを与えるに充分だったが、恐怖や絶望にはまだ遠かった。
〈縞々鼠〉亭の護衛戦士は、剣を持つ指先が急激に冷えていくことに驚愕し、自分はどうしてしまったのかと混乱した。
何ごともないままものの数秒も経過すれば、その場にはミュレンという名の氷像が出来上がったことだろう。
しかし幸いなことに――彼自身はその幸運を知らぬまま――、戦士はその危機を回避することになる。
パァンと何かが割れるような音がした。
ミュレンはびくっとして、慌てて周囲を見回した。
「こっちだ、馬鹿!」
「何だ、戻ってきちまったのか」
聞き覚えのある声に、彼は唇を歪めた。
「イリエード」
同僚の姿にミュレンは少しがっかりした。
「あとで手柄を自慢してやろうと思ったのに」
「呑気なこと言いやがって」
ナイシェイア・キルヴンからレフリープ・ロスム両伯爵、ひいてはカル・ディアル国を動かしてきた戦士は顔をしかめた。
「見て判らんのか、そいつらは化け物なんだ」
「そりゃあ、見れば判るけどよ」
呼ばれるままにイリエードのもとへ駆け寄ったミュレンは肩をすくめた。
「いったい、何ごとだ? いまの音は?」
「見れば判るだろう」
イリエードはまた言った。
「あいつらだ」
「魔術師か」
数体の黒ローブがミュレンの目に入った。彼は首をひねる。
「協会が出張ってくるってことは、奴らは魔術師なのか?」
「魔術師ってのは、人間だろ」
イリエードは指摘した。
「奴らは化け物さ。俺やおやっさんは、あいつらから世界を守るために奔走してたんだよ」
「へえ」
ミュレンは面白がるような表情を浮かべた。もっとも、イリエードも本気で言ったのではない。イズランに言われ、キルヴンに伝えてきても、「世界」がどうのというのは話が大きすぎて冗談のように感じていた。
「そう言えば、おやっさんは?」
きょろきょろとミュレンは周囲を見回した。
「いない」
「いない?」
「ああ、弟子に会いに行くと言ってな」
「弟子?」
繰り返し、ミュレンは聞き返した。
「そうだ。その弟子のひとりは俺の知人だった。世の中、狭いもんだ」
肩をすくめてイリエードは言い、それから何かを取り出した。
「何だ?」
「魔除けだ、つけておけ」
にゅっと差し出された緑色の飾り玉に、ミュレンは顔をしかめた。
「俺は、そういうのはあまり、好きじゃないんだが」
「つまらん好き嫌いをして命を捨てたけりゃ、かまわんがな」
「大げさな」
「うるさい奴だな」
半ば無理矢理、イリエードはミュレンに飾り玉を押しつけた。
「隠しにでも入れておけ。大して邪魔にならんだろ」
「あ、ああ」
勢いに押されてミュレンはうなずいた。
「さて、俺たちも行くぞ」
イリエードは口の端を上げた。
「魔術師にばっかり任せてるようじゃ、護衛戦士の名がすたるだろ?」
〈杭〉は、いくつもの街町で、黒い本体から白い光を放っていた。
あらかじめ魔物の存在を把握しており、指示をすぐさま国中に伝えられる国王の君臨するアル・フェイド国はともかく、そうはいかない隣国カル・ディアルでは、混乱が続くことは必至だった。各領主や、場所によっては町長という程度の権力で判断、命令を下さねばならないにもかかわらず、賢明に立ち回れる指導者は稀だったからである。
素早く町憲兵隊が動いたコミンなどはよい例であったが、なかにはソディエに戦いを挑んで多くの者が氷像にされたところもあれば、逆に彼らに降伏し、どうか太陽を戻してくれと懇願するところもあった。
もちろんソディエたちは「ニンゲンども」の要望に耳など貸さず、ただ〈杭〉を守りながら彼らの恐怖を食らっていた。
「いってぇ」
少女は呟いた。
突き飛ばされて転んだ彼女はとっさに手をつこうとしたものの巧くいかず、両手のどちらも手首から肘にかけてすりむいた。見れば、血がにじんでいた。
「痛え」
シィナはまた言った。
痛いのは腕だけではなかった。
悔しい。自分が子供でなければ、名のある人物なら、もう少し話を聞いてもらえるかもしれないのに。いや、話だけ聞いてもらったって何にもならない。タイオスのように戦士であったなら。リダールに聞いた〈シリンディンの騎士〉のように強かったなら。
「ちくしょう!」
シィナは叫んで起き上がった。
「落ち着いて、家に戻れっ。協会や神殿に任すんだ、おかしなことは、考えるなよっ」
涙声になりながら、誰かひとりでも聞いてくれたらと、シィナは繰り返した。
「ほう、詳しいのだな」
落ち着いた声が、不意に彼女の耳に届いた。くるりと振り返れば、見覚えのない人物がいた。
それは、二十歳前ほどの若者と見えた。だが、年代よりも彼女の注意を引いたのは、何らかの公的な行事のときに彼女が見るリダールよりもずっと、立派な格好。
純白のマントはしみひとつなく、青い衣服には飾りがたくさんついていて、シィナは目がちかちかしそうだった。
もしもその辺の若者が同じ格好をすれば、奇妙奇天烈に見えたことだろう。しかし、彼はそれをごく自然に着こなしていた。
(町憲兵の制服と、ちょっと似てる)
彼女は思った。
(でももっと、何て言うか)
(大げさだ)
「町びとの混乱を収めようとする努力は賞賛に値する」
若者はうなずいた。
「まだ声が出るようなら、先の言葉を繰り返すといい」
「で、でも」
シィナは目をしばたたいた。
「誰も……聞かないんだ」
「そうか?」
若者は片眉を上げると、ぱちんと指を鳴らした。すっと人影が前に進み出て、シィナはびっくりする。二十代後半ほどの男が、若者に付き従うようにしていたことに気づかなかったのだ。
「キルヴンの町民よ、案ずることはない!」
男は声を張り上げた。
「カル・ディアルが第三王子殿下、ラヴェイン・カル・ディアル様がここにいらっしゃる!」
「うえっ!?」
まず驚愕したのは、シィナだった。
「ラヴェイン?」
「カル・ディアルの……」
「王子殿下だって!?」
「皆の者、私がラヴェイン・カル・ディアルだ」
ラヴェイン王子は、それほど声を大きくした訳ではなかった。よく通る声と、生まれながらに他者を従える権利を持った者の自信は驚くほど――シィナには悔しいほど――簡単に、人々の注意を引いた。
「王子様だって」
「まさか」
「いや、だが……」
キルヴンは決して田舎ではないが、とても栄えているというほどでもない。国王はもとより、王族がやってきたこともなかった。名前くらいは一般的な知識として知られているものの、ラヴェイン王子を名乗る若者が確かに王子であると証言できる者はいなかった。
しかし、それでも、騙りだと言い立てる声は上がらなかった。
ラヴェインの持つ雰囲気は、詐欺師の作り出せるものではなかった。