01 闇へ帰れ
それは不思議な時間だった。
朝に飛び立ったばかりの鳥たちは夜がやってくるものと巣に帰り、夜に鳴く虫の音がかすかに聞こえはじめる。
黒く塗りつぶされた太陽はそれでも光を放ち、いつもとは似ても似つかぬ姿を見せながら、いつもと変わらず堂々と空に在った。
(おい、神様よ)
タイオスは知らず、祈っていた。
(いくら何でも、おとなしくしすぎだろ? いい加減、不埒な連中にばちのひとつやふたつ)
浮かぶ言葉は祈りと言うより苦情であったが、それは彼の気質と言えた。
〈青竜の騎士〉と呼ばれた生き物の様相は、これまでとずいぶん異なった。顔立ちなどの見た目に変化が生じた訳ではなく、ソディエ族の特徴が顕現したというようなこともなかったが、これが「人間と似ていても決して人間ではない」ということは事情を何ひとつ知らない者でもすぐに理解しただろう。
金色の頭髪を乱し、獣人のように意味を成さない言葉を発しながら〈シリンディンの騎士〉にのしかかる生き物は、明らかに大きな負傷をしているにもかかわらず、一瞬たりとも速度も力も緩めなかった。
騎士として充分な実力を持つクインダンの抵抗はことごとく防がれ、なぶられた。普通の人間なら――戦い慣れた戦士でも――絶望を覚え、死の覚悟をするところだ。先ほどのタイオスはそれに近かった。
だがクインダンは諦めなかった。エククシアが彼をいたぶる気でいるのならば、そこに挽回の機会を見つけられるはずだと考えた。
殺されるまでに時間があるならば、必ず。
青年騎士の意識は飛ぶ寸前だったが、持ち前の頑固さと日々の訓練の成果が、彼を絶望に追いやらなかった。
必ず。
だが――。
その不屈の精神に反して、機会はなかなかやってこなかった。
のどに穴を開けられた化け物は、そのような真似をした「羽虫」にいたく腹を立てていたが、氷のような冷静さを失っても力の差は圧倒的だった。正面から剣と剣と戦わせれば互角だったかもしれないが、人外の持つ異常な腕力と敏捷性に人間は敵わない。野犬と素手で取っ組み合ったらまず勝てないようなものだ。
そう、クインダン・ヘズオートは一瞬たりとも諦めなかった。
しかし、どうにもならなかった。
それが事実だった。
求めてきたものは何だったのか。
地位とか栄光とか、そうしたものではなかったように思う。
子供の頃はただ憧れた。成長し、「彼ら」のことを学べば、雲の上の存在とも感じられた。神と国を守る騎士たちは、神話に登場する英雄のように力強く崇高で、頼もしかった。
〈シリンディンの騎士〉になりたいというのは、シリンドルに生まれ育った男の子なら誰でも一度は口にする台詞だ。
いつの日か、英雄のように。
もっともそれは「シリンドルの子供」でなくとも抱く夢であった。
シリンドルという国の存在を長いこと知らなかったヴォース・タイオスもまた、そんな夢を見たことがあった。イリエードやミュレンも。モウルもそうだったかもしれない。
剣を振るう彼らは、少しだけ、その夢に近いところにあった。力が全てではないが、やはり「剣を取って戦うことのできる者」は、そうでない者よりも英雄の条件を満たしていたと言えるだろう。
彼もまた、そうして剣を取った子供のひとりだった。
タイオスらがそうした憧憬を子供の夢、若者の夢想として切り捨ててきたのに対し、もしかしたら彼らは変わらず、その夢を追っているのかもしれなかった。
称えられたいと言うのではない。
ただ、かく在りたい。
やがて努力と研鑽の末にその称号を得ても、かつて強く憧れ、尊敬した者たちに、自分はまだ遠く及ばない。
少しでも、少しでも近づけたらと。
「クインダン――ヘズオート」
人の形をした化け物が、声にならぬ声で彼を呼んだようだった。
それにはどす黒い恨みや憎しみのようなものがこもっていて、詩人でもいたならば「獄界から呼ぶような声」と表現したかもしれなかった。
ぎりぎりと締め付けられる手首はもはや砕けんというところまできている。首が絞められると言うよりものどがつぶされようとしているかのようだったが、酷く苦しいことに変わりはなかった。
クインダンは必死で考えた。いや、考えたというより、無我夢中だった。もう意識はほとんど白くなっていて、まるで駄々をこねる子供のように自由になる手足をばたつかせるしかできなかった。
そこに、何かが、見えた。
彼にとってそれは、まさしく、光明となった。
ドスッと鈍い音がして、エククシアの身体がわずかに揺れた。何か考えるよりも、クインダンはそこに手を伸ばしていた。
魔物の右肩に刺さった短剣を引き抜き、下から突き上げるようにその首を刺し貫き、横に強く引いた。
力の入る体勢ではない。普通であれば、刺すだけでも困難だっただろう。
しかし極限状態に訪れるという〈火神の手助け〉か、或いはやはり、それは〈峠〉の神の加護なのか。クインダンの力は、大地を踏みしめて切れ味のよい剣を思い切り振るったときと同じかそれ以上のものとなった。
金髪の半魔の、金目銀目が彼を睨む。
身体から切り落とされて、地上に落ちた首の上から。
その口が、動いた。
「ヘーズオー……ト……」
クインダンはぞっとした。
それは、まだ動こうとした。
倒れた身体は失った頭部を求めるように手を伸ばし、引っ張られるかのように頭も動いた。
クインダンは短剣を握り締めたが、全力を使い切った徒労感もあれば、これ以上どうしていいか判らないという冷静な混乱を感じて、ただその怖ろしい光景に目を見開いた。
よろよろと立ち上がろうとし、足をふらつかせた。支える手がなければ、彼はその場に尻餅をついてしまったかもしれなかった。
「この、化け物め」
歯を食いしばり、気味の悪さをこらえて罵ったのはタイオスだった。エククシアの頭部が切断されたときから動くことができるようになった彼は、やはりふらつくようにその場に駆け寄り、地上に落ちていたエククシアの細剣を拾い上げた。
「いい加減に、獄界に落ちやがれ!」
戦士は両手で剣を掴んだ。叫び声とともに真上から剣を振るうとそのうごめく頭部を顔面から突き刺し、地面に縫いつけた。
「つっ」
妙な痺れがタイオスの両手を襲った。それはソディエに指を差されたときの感覚に似ていた。
「タァイ……オ……」
恨みの声か、はたまた呪いの声か。
囁くようなかすれるような、悪夢に出てきそうなその声はタイオスの名を呼ぼうとして途切れた。
「しぶとい、奴だな」
タイオスは肌に粟が立つのを感じながら、それをごまかすようにどすの利いた声を出した。
「もう諦めて」
彼は息を吸った。
「闇へ帰れ!」
その瞬間、さあっと光が射したかのように感じたのは、彼の気のせいだったろうか。
昔語りに、魔物の話が存在する。たいていは、人間を騙して食らおうとする化け物の話だ。食われておしまいというものもあるが、何とか生き延びるものもある。時間を稼ぎ、逃げて逃げている内に朝が訪れ、太陽の光に当たった魔物は消えてしまうというような流れだ。
倒したソディエたちが、遺体を保たず何百年も風化したかのように粉々になったとき、その物語を連想した者も多かった。タイオスもそのひとりだ。
ああした形になることが、「魔物が死んだ」ということなのだと、タイオスは理解した。
エククシアと呼ばれた化け物は、まるで時がきたというように、ひと息に――灰となった。
頭も。切り離された身体も。
ほかのソディエと同じように。
残された衣服と剣だけが、それが幻でなかったことを示していた。
タイオスの手から、痺れは消えた。
静かに、風が吹いた。
しばらくそのまま、誰も言葉を発さなかった。
夕映えのようでそうではない空の下、気味の悪い戯画を見てしまった嫌な気持ちをどうやって振り払おうかと考えるように。
「――立てるか」
十秒ほども経ったろうか。沈黙を破って、声がした。
「はい、団長」
クインダンは答えた。
「有難う、ございます」
青年が礼を言ったのは、ふらつく身体を支えてもらったためだけではなかった。
「宴に、遅れたからな」
シャーリス・アンエスカは口の端を上げた。
「招かれながら遅れた詫びくらいは、しなければならなかったろう」
〈峠〉の入り口から青年騎士の窮地を見た騎士団長は、自分よりも速く到達できる短剣を投げつけ、見事、魔物に当てた。クインダンはその助力を逃さなかったが、あの体勢から短剣で首を切り落とせるとは思ってもいなかった。そうしようとした訳ですらなかった。
青年騎士はそっと祈りを捧げた。
彼を救った、彼の神に。
「想像以上の、化け物だったな」
戦士は息を吐いて首を振った。
「見た目ばっかしは、小ぎれいだったってのに」
心臓を貫かれても、首を切り落とされても、死ななかった。
遂に灰となったのは、タイオスの一撃のためだったのか、それとも――。
〈白鷲〉はもう一度首を振った。
「アンエスカ。下は」
気持ちを切り替えるように、彼は麓の状況を尋ねた。
「ソディエが増えているようだ」
アンエスカは答えた。
「二十名程度では利かなくなっている」