13 化け物
「助かった」
タイオスは繰り返し正直に言うと、息を吐いた。
「さすがにもう駄目かと思ったと言うか」
(これもご加護かね?)
かすかに聞こえたように思った、面白がるような笑い声。エククシアの嘲笑ではなかった。あれは、もしや。
(助け手がすぐそこまできていることを知って……それとも、やってこさせておいて、余裕ぶっこいて見てたんじゃねえだろうな?)
「どこか、傷を?」
タイオスが表情を険しくしたので、クインダンは心配そうに言った。
「いやいや」
大丈夫だとタイオスは手を振った。
「しかしどうしてお前さんがここへ? 下じゃあれに」
と彼は空を指す。
「騒ぎは起きてないのか?」
「ソディエからの守りにと配った祈り札が支えにもなっているようです」
クインダンはざっと説明した。
「私は、フィレン殿を探しています」
彼はつけ加えた。
「彼女らしき姿が峠に向かったようだとの声がありましたので……」
騎士は辺りを見回した。
「誤りだったのでしょうか」
「……いや」
タイオスは首を振った。
「正しい」
彼は黒い柱を指した。クインダンは眉をひそめた。
「あれは、いったい」
「奴らは〈杭〉なんて言ってた。このお天道さんをこのまんまにしとくためのもん、らしいが」
彼が何となく理解できたのはその程度であった。
「よく判らんが、杭と言って、力でつなぎ止めてるんだ」
さっぱり理解できないことを説明する言葉は、あまり意味をなさなかった。
「よく判りませんが、杭と言うからには抜けるのでしょうか」
「無理そうな気がするが」
タイオスはうなった。
「フィレンはな……あの杭に、食われちまった」
その説明にクインダンはぎょっとしたような顔を見せた。
「いや、口を開けて牙をひん剥いたって訳じゃあないんだが」
タイオスは、フィレンがエククシアを追いかけてきたことと、ライサイに殺され、〈杭〉のなかに吸い込まれるように消えていったことを話した。クインダンは呆然として、それからきゅっと拳を握り締めた。
「何という……ことだ」
「〈杭〉をぶっ壊して助けることでもできるなら助けてやりたい気持ちもあるが」
戦士は首を振った。
「難しそうだな」
「エルレール様が、哀しまれるだろう」
騎士は呟き、追悼の仕草をした。
「死人が多すぎるな」
タイオスも呟いた。大事な人間をふたり亡くした戦士に、青年は気遣わしげな表情を浮かべた。タイオスは笑って手を振った。
「俺のことは気にするな。それよりお姫様を慰める言葉でも考えておくんだな」
「は、いえ、その」
クインダンはやはり困ったような顔をした。
「とにかく、連中の話の雰囲気からすると、この杭が諸悪の根源になりそうだ。どうにかせにゃならんが……」
タイオスは〈杭〉に近づいた。
それは炎を放っているようであるのに手をかざしても熱くはなく、戦士は警戒しながら触れようとした。おそるおそる手を伸ばし、一瞬だけ触ってすぐに引っ込めるつもりでいた。
「な」
考えていたように彼はすぐ手を引っ込めたが、それは熱かったとか冷たかったとかそういった理由ではなかった。
「どうしたんです、タイオス」
「触れん」
彼はうなった。
「はい?」
「こういうことだ」
正直、少し怖い気持ちがあったが、戦士は手刀を斬るような動作で〈杭〉を切った。彼の手は、何もない空間を横切るかのように〈杭〉を通過した。
「それは、いったい」
クインダンも目を見開く。
「判らん」
タイオスはまたうなった。
「イズランでもいりゃあ、何か判るのかもしれんが……いや」
そうでもないなと彼は呟いた。どうせあの魔術師は、自分だけが判るような意味不明な言葉を並べ立ててひとりで納得するだけだ。
(もっとも、俺が理解できるかどうかは重要じゃない)
(魔術師がどうにかできることなら、腹は立つが、頭を下げてでも見てもらってどうにかしてもらわなきゃならん)
「放っておいていいものかどうか判らんが、見ていてもどうしようもない」
戦士は肩をすくめた。
「ここは一旦、町に下りて……」
振り向いたタイオスは、そこで目を見開いた。
「クインダン! 後ろだ!」
驚愕するよりも早く彼は警告を発した。騎士は剣を握り直して素早く振り向いたが、遅かった。
死んだとしか見えなかった半魔は、まさしく人間離れした速度でクインダンの懐に潜り込み、その首に手をかけた。
「くっ……」
怖ろしい力で絞め上げられて、クインダンは苦しげな声を発した。
「化け物め」
タイオスはクインダンを助けるべく足を踏み出そうとしたが、その動きは再度、不可思議な術でとめられた。
「ちっ」
罵りの言葉が浮かんだものの、罵ったところで役に立たない。奇怪な術を何とか解こうと、全力を尽くすしかなかった。
全身の力を込めても、足の動く気配はない。戦士が脂汗を流している間にも騎士は戦おうとしていたが、右手で首を、左手で右手を押さえられて思うように身動きが取れずにいた。
「――……」
エククシアが何か言ったようだった。タイオスに聞き取れなかったのは、それが何か彼の知らない言葉だったためではなく、穴の空いたのどが言葉をまともな音に作らなかったためだった。
魔物の首から血はだらだらと流れ続けている。その様子は幻夜の光景と相まって、歴戦の戦士をもぞっとさせた。
(クインダンの剣が)
青年騎士が、薄れかける意識と懸命に戦っているのが判った。タイオスは唇を噛んでそれを見ているしかなかった。
(落ちる)
人外の力で締めつけられる右手首は、もう少しで折れて――砕けてしまいそうだった。骨のきしむ音がする。剣を握っているのは不可能だった。
やがて細剣の地に落ちる音がすれば、金髪の魔物はにいっと笑った。これまでにも酷薄な雰囲気はあったが、この笑みはそれとも違った。
半魔は浮かべているのは、獲物の苦しみを悦ぶ、残虐な。
どんっと音がして、エククシアがクインダンを倒した。背中を打ちつけて青年は大きく息を吐き、ますます苦しんだ。
「クインダン!」
〈白鷲〉の叫び声が、虚しく響く。
夕暮れならぬ夕暮れ。薄闇を照らす黒い太陽の下で、〈峠〉の神はその騎士たちの苦難にじっと黙っていた。