12 かすかに浮かんだ色は
「土地神に見込まれたとは言え、たかが人間の割には、楽しませてくれた。礼代わりに、苦しませないよう死なせてやろう」
エククシアが剣を引いた。一気に、タイオスを貫くつもりだ。
(避けるか)
(避けられるか)
(動きの鈍くなった身体で、どこまで)
中途半端に避けたところで、意味はない。有難くもないエククシアの気遣いを無駄にして、苦しんで死ぬだけだろう。
(急所を狙おうって訳だ)
(狙われてるところが判ってるってのに、よける自信もないなんざ)
情けない。彼は悔しさを覚えた。
まだだと、負けた訳ではないと思いながらも、ではどうすれば勝てるのか、どうすればせめて「まだ負けない」ことができるのか、それが判らなかった。
(――悔しいが)
(最初から判ってたことでもある)
(俺より、こいつの方が巧いんだ)
(勝ち目の薄い戦いにわざわざ首を突っ込むこたあないと、アンエスカには偉そうに言ったくせに)
(結局俺は、ここで)
(死ぬのか)
(いや、まだだ)
(ここは〈峠〉の神にいちばん近いところだと言う)
(神様が助けてくれるかどうかじゃねえ)
(仮にも〈白鷲〉と呼ばれた男が、こんなところで死ねるか)
負けん気と諦観が一瞬の内に何度も彼の胸を行き交った。
(そうだ、まだだ)
彼の気持ちはそちらに傾いた。
(剣を失っても、俺にはまだ手も足もあるじゃないか)
その瞬間のタイオスは、まさに神がかっていたと言えよう。
目にもとまらぬ速さで繰り出されたエククシアの突きを指一本入るか入らないかという距離でかわし、左手で相手の右手を絡め取りながら身を反転させると、エククシアと並ぶような状態になった。
残った柄で半魔の手の甲を叩きつけ、剣を落とさせる。それと同時に左肘で敵の顎を強く殴った。普通の人間なら歯の砕けるくらいに。
化け物にも、衝撃は与えられたようだった。エククシアはぐらりとよろめき、一瞬とは言え金目銀目の焦点を失わせた。
そのままタイオスは腕を持ち替えるとエククシアの足を払い、半ば強引に地面に叩きつけた。並んだまま落とす形となったので、彼自身、横向きに倒れることとなったが、相手を下敷きにしたこともあって衝撃はほとんどない。
一連の動きは、もしも彼が傍からそれを見る立場にあったなら、彼がルー=フィンを見たときのように「こいつは天才か」と思ったかもしれない。それほど、彼の動きは僅少の可能性を拾い上げて運よく――それとも神の加護で――成功していた。
エククシアの表情が、変わった。
「人間ごとき」に倒され、無様にのしかかられていることは、半魔の肉体よりも自尊心を痛めつけたと見えた。
モウルがいれば、言っただろう。邪魔なだけと思っていた羽虫にちくりとやられたら、怖れたりするよりも憤りを覚えるんじゃないか、などと。
〈青竜の騎士〉と呼ばれる魔物の瞳に映ったのは、まさしくそうした、理不尽なことへの憤りであった。
絞め殺してやるべくタイオスが首に手をかけて力を込めていると言うのに、それを払おうともせず、金目銀目を不気味に燃やして――。
「な」
次の瞬間、形成は逆転していた。
タイオスの手はとまり、それ以上の力を入れられなくなった。
そうなればエククシアはやすやすと彼の手を払って、今度は逆に彼の首を掴んできた。
細い指がのどを締め付ける。タイオスの息は止まった。
払おうとするが、力が入らない。それどころではなかった。悪戯な子供を調子に乗せるのはここまでだとでも言うように、今度はエククシアがタイオスを下にしたのだ。
「く」
戦士はうめき声を洩らした。優位に立ったエククシアは彼にまたがるようにしながら、薄ら笑いでも浮かべているかと思いきや、そうではなかった。
長い金髪が乱れ、いつもは腹立たしいほどの涼しげな表情が崩れている。
それは「下等なニンゲン」に噛み付かれたことによって引き起こされた怒り。憎しみ。
「遊びは終わりだ」
魔物は言った。
「死ね」
左手でタイオスの首を押さえ、右手に細剣を取り戻したエククシアは、頬を紅潮させ、目を血走らせていた。
半魔のその様子は、これまでタイオスが目にした内でいちばん――人間めいていた。
振り上げられた刃の上に、黒い太陽が燃えている。
(こうして見ると、案外)
(このお日さんも)
(きれいじゃねえか)
彼がそんなことを思ったとき、誰かが笑った気がした。
もう今度こそ、避ける術はない。タイオスは剣の切っ先が自分の胸を貫くか、或いは魔物の腕力がのどをつぶすかするのを待つしかなかった。
(ずいぶん、足掻いたよなあ)
(もう、仕方ねえか……)
自分は充分やったさと、タイオスは瞳を閉じた。
(なあ神様)
(俺は頑張ったろ?)
望みもしなかったご指名に対してなかなか立派な努力をしたじゃないかと、タイオスは自画自賛した。しようとした。悔しい最期を迎えたくなくて。
(だがやっぱり)
(悔しいなあ)
そうは思うものの、それはどうにも諦めに似ていた。
剣を失っても手足はあると思った。だが手足の力も奪われた。あとには、もう何も。
(もう、終わりだ――)
『――ヴォース』
『お前のやるべきことは?』
『〈白鷲〉の名に相応しい、行いを』
ふたつの声が同時に聞こえた。
「俺は」
歯の間から彼は声を出した。
もう、休みたい。終わらせたい。
充分だと。仕方ないと。目を閉ざせと。お前は頑張ったと。
自分を慰める自分の声がする。
このまま刺し貫かれれば、楽になるのだ。
もう、何も考えなくてもいい。
死んでしまえば、このあと世界がどうなろうと知ったことでは――。
『ヴォース』
「くそ」
彼は、目を開けた。景色がにじんだ。
「まだなんだよッ」
必死で張り上げた声は、まるで泣いているかのようだった。
誰かが、また笑った。
黒い太陽を映し込む細剣が、幻夜に閃く。刃は狙い過たず、彼ののどを突いた。
ぎゅうう、というような音、それとも声がする。
容赦なく剣を引き抜かれた首からは、掘り当てられた井戸のように、勢いよく血が飛び出した。
瞳から光が消えてゆく。
かすかに浮かんだ色は驚愕か、それとも賞賛か。
黄色と青と、違う色をしたふたつの目は、まっすぐに正面から飛び込んできた青年騎士に合わされて、そして光を失った。
ぐらりと身体が揺れ、金髪の半魔はそのままタイオスの上に倒れ込んだ。
「は」
返り血を浴びながら、中年戦士は呆然としながら上を見た。
「クインダン」
〈峠〉にやってきたクインダン・ヘズオートは、〈白鷲〉の苦境を知ると躊躇なく剣を抜いた。タイオスが逆の立場にあったなら、必ずエククシアの後ろに回っただろう。確実な一撃を与えるために、当たり前のことだ。
だが〈シリンディンの騎士〉はそうしなかった。
彼は正面からエククシアの両眼を見据え、自らの存在を明らかにした上で、エククシアに挑んだ。エククシアもクインダンを認めたが、タイオスを仕留めようとしていたために反応しきれなかった。
浮かんだように見えた賞賛は、クインダンの剣技についてか、はたまたあくまでも正面からやってきたことにだったろうか。
「――騎士に相応しくない行いをしてしまいました」
しかし青年騎士はそう呟いた。
「あぁ?」
タイオスはゆっくりと起き上がりながら――動かなくなったエククシアをどかしながら――顔面にかかった鮮血を拭い、片眉を上げた。
「何、言ってんだ」
「二対一で剣を向けてしまいましたから」
少しうつむいてクインダンは言い、タイオスは少し笑った。
「そう言うな。背後から襲いかからなかっただけ大したもんだ」
彼は思っていた通りのことを言った。
「何より、助かった」
ぽん、と青年の肩に手を置く。
「命の恩人だな」
言えばクインダンは戸惑ったような表情を見せた。神の騎士にそのようなことを言われるとは思ってもいなかったのだろう。