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幻夜の影―シリンディンの白鷲・3―  作者: 一枝 唯
第4話 神の影 第3章
174/206

09 行ってしまった

 ぐらりとエルレールの身体が揺れた。

 彼女自身驚いて、まばたきをすると目眩を振り払うようにした。

「巫女姫様、お休みになっては」

 使用人はアンエスカがハルディールに言ったようなことを言ったが、やはり王の姉は弟と同じように首を振った。

「みな、戦っているわ。私だけ休む訳にいくものですか」

 彼女の言う「戦い」とは剣を振るうものに限らなかった。祈りを捧げる神官も、死の影を払うべく呼吸するリダールも、戦っているのだ。

「みな、どうか無事でいて」

 弟王も、騎士たちも、〈白鷲〉も。神官も僧兵も、民の誰も。

(――フィレンも)

 エルレールは祈った。

 するとそのとき、彼女の目のなかに怖ろしい光景が飛び込んできた。それは彼女が目にするはずもない、〈峠〉の上での出来事。

「フィレン!」

 彼女は友と思った少女の名を呼んだ。だがその呼び声はフィレンに届くこともないまま霧散した。

「何て……こと」

 目にしたものが幻覚ではなく、現実に起きたことであると巫女姫は疑いもしなかった。今日は、いや、昨夜のあのときから、これまでになく何かを感じる。これが「神を感じる」ことなのか、それはまだ確信できない。だが何かが絶えず、自分に触れている感じがしていた。

 それはもしかしたら、たとえば戦士が「今日は勘が研ぎ澄まされているようだ」などと思うのと変わらなかったかもしれない。使うべきときに発揮された集中力が、緊張によって持続している状態。

「〈杭〉が」

 巫女姫は呟いた。

「彼らの結界を完成させてしまう」

 彼女は顔を上げ、知らず、リダールの手を強く握っていた。

「それ以上、その〈杭〉に力を与えては駄目。お願い、タイオス――」

 祈りは〈白鷲〉に向けられたが、受け取った者はそれ以外に存在した。

 何より、直接的にエルレールに近くあったリダールがそれであった。

 彼の肉体はかろうじて生を保っていたが、意識の方は深い闇に沈んだままだった。

 それは神官の言うところの狭間の世界であったかもしれない。即ち、冥界との境界部分。彼が――彼らが「墨色の王国」と呼んだ場所よりもそこは暗く、何もなかった。

 だが彼は何も感じなかった。恐怖や不安も、そこにはなかった。

 「彼」は自分が「リダール・キルヴン」である――であった?――こともよく判らないまま、そこにただじっとしていた。ラファランと呼ばれる精霊がこの場所の向こうにある冥界の大河ラ・ムールへと「彼」を導くことはなかった。

 さっきまで、誰かが一緒にいたような気がする。「彼」はそのことだけを考えていた。

 あれは誰だったのか。

 墨色の世界でも、「彼」は思索をした。だがそのときといまの状態は、似ていながら異なっていた。

 もっとも当人は、「似ている」とも「違うようだ」とも思わなかった。何も考えることはなく、思い悩むこともなかった。

 そこには、何もなかった。

 しかし、何もないところに突然届いた一条の光は、闇のなか「彼」を不意に照らし出した。

『お願い』

『助けて』

『タイオス』

 「彼」はふっと意識を集める。それは彼に向けられた言葉ではない。彼を表す名前ではない。だが何かを刺激する音だ。記憶。思い出。心。

 「彼」が「リダール・キルヴン」であった間の、大きな出来事。

 大事な友にまつわる、奇妙で悲しい――。

『助けて』

『その杭を壊して』

 その声は「彼」の心に届いたが、揺さぶるほど強いものではなかった。

 ただ彼は、射し込んできた光に、光というものがあることを思い出した。

(眩しい)

(何だっけ、これは)

(知っている気がする)

(こんなことが)

(ほんの少し前にもあった)

 「彼」は思った。

(誰かに呼ばれて……そう)

(そして帰ることが、できたんだ)

 光のなかで、彼は思い出した。

(あれは)

(誰?)

 何かが見える。「彼」は目をこらした。

「――だ」

「気をつけろ! あの黒い柱に近づくと死ぬぞ」

「あの黒い光が太陽(リィキア)を食っちまったんだ!」

 恐怖に彩られた金切り声が蔓延した。

「びびるなよ! いい大人が! ちくしょう、オレの話を聞けよっ」

 少女は地団駄を踏んだ。

 「黒い柱」のことについてシィナは知らなかったが、「昔にもあって、そして世界は滅亡などしていないのだから、今回も大丈夫だ」という自信があった。

「ああもう、魔術師とかは何やってんだよっ。神官もっ。対策するとか、言ってたじゃんかっ」

 悔しいが、自分のような子供の話はろくに聞いてもらえないのだ。いや、大人でも名もなき人物ではきっと駄目だ。

(キルヴン閣下とか)

(リダールでも行けるかも)

 彼女は友人を思った。

(オレと同じことを言っても、リダールなら、閣下の息子だって言えばちゃんと聞いてもらえるかもしれない)

(クソっ、何でリダールはいま、いないんだよ!)

 シィナは両の拳を握り締めた。

 力のなさを痛感した。

 威勢のいいことばかり言っていたって、いざというときには、何の役にも立たない。

「おい! みんな」

 それでもめげずに、シィナは繰り返そうとした。

 黒い太陽や黒い柱が危険なものだとしても、落ち着いて対処すれば、きっと何ということはないのだ。彼女はそう信じた。

「だらしねえぞ! みっともねえっ。落ち着いて――」

「邪魔だ、どけっ」

 道の真ん中に立って叫んでいた少女は、怖れをなした男に乱暴に押しのけられた。あっと声を上げて彼女は地面に倒れる。

「――シィナ!」

 リダールは叫んだ。エルレールははっとした。

「気がついたのね。ああ、神よ」

 巫女姫は感謝の祈りを捧げた。

「え……」

 少年は目をぱちぱちとさせた。

「あれ……」

「もう大丈夫よ。安心して、ゆっくりお休みなさい」

 優しい声に、リダールはしかし混乱した。

「僕、いま」

「覚えていないの? あなたは、その……怪我をしたの」

「――ああ」

 彼は息を吐いた。

「覚えて、います」

 リダールはそっと、胸の辺りに手をやった。

 魔術師の技は極端な痛みを抑えていたが、酷い違和感を覚えるし、身体はとんでもなく重い。息も苦しかった。

「でも、どういう、ことなのか、よく……」

 とぎれとぎれに彼は言った。

「あまり喋っては駄目。生きているのが奇跡のようなものだもの」

 気遣わしげにエルレールは言って、それからはたと気がついた。

「私はエルレール・シアル・シリンドル。シリンドル国王ハルディールの姉にして〈峠〉の神の巫女です」

「あ……」

 リダールは目を見開いた。

「ぼ、僕は」

 慌てて自己紹介を返そうとして、彼は咳き込んだ。すると痛みが生じ、涙が出そうになった。

「いいのよ、何も言わないで。リダール殿のことは聞いています。いまはとにかく、休んで」

「フェルナーは」

 だがその言葉に従わず、彼はかすれた声を出した。

「どうして……僕は、本当に……彼と身体を共有したらいいと思ったのに……」

 薄れ行く意識のなかで、彼はラシャに騙されたことに気づいた。神官は最初からフェルナーごとリダールを殺すつもりだった。聖陣を描き、「悪霊」がどこにも逃げ出すことができない状態を作って、フェルナーをハルディールからリダールに移し――。

 リダールはそっと息を吐いた。

 それしかなかったとラシャが判断したのなら、彼を責める気にはなれない。自分が殺されそうになったことも、ハルディールを救うためにそれしかなかったのなら、仕方がないと思えた。

(だけど、フェルナーは)

(フェルナーは、僕が彼を騙したと思ったろうか)

(ううん、僕がどう思われたってかまわない。でも)

(でも彼はあのとき、僕を信じてくれたのに)

 友人を信じて、フェルナーはリダールの手を取った。リダールはそう感じていた。

(それなのに、僕に騙されたんだと思いながら行ってしまったんだとしたら……それはあまりにも)

(フェルナーが可哀相だ)

 目の辺りがかっと熱くなった。風景がにじんだ。

 身体の痛みのためだけでは、ない。

「僕……僕だけ、残ったんだ。どうしてだろう。フェルナーは……」

 少年は唇を噛み締めた。

「フェルナーは、行ってしまった。僕は見たんだ。あの、闇の向こうに……」

 彼がとどまった暗い場所に、フェルナーはとどまらなかった。

 あの場所の向こうには、きっとラ・ムール河があったのだ。リダールは行かなかったし、見た訳でもなかったが、確信していた。

 もしかしたら自分はやはり死んだのではないかと、リダールはそう思った。死者の魂を冥界へ連れる精霊ラファランは、さまよう魂を導こうとして、しかしリダールではなくフェルナーを連れて行ったのでは。

「どうして……僕が助かったんだろう」

 ぽそりと彼は呟いた。

 フェルナーは、行ってしまった。

 見たのだ、リダールは。精霊ラファランを。光る球体のような幾人か――幾体か、だろうか――のそれが何かの周りを回るようにしながらずっと遠くの方へ飛んでいったのを。

 あれは、彼と一緒に死に近づいたフェルナーだ。不思議とリダールには判った。

 フェルナーは連れられ、リダールが残った。

 ラファランは、ひとつの身体からさまよい出たふたつの魂をどうしていいか判らず、ひとつだけ連れたのではないか。リダールは冥界のことをいろいろ学んでいたが、そうした例は見つけられなかったので、これはただの推測だった。

 だが確信していた。

 フェルナーは逝き、リダールは残り、そしてまた救われた。

「――〈峠〉の神のご加護、という答えでは、他国のお方には納得いただけないかしら」

 責めるでもなく、エルレールも呟いた。

「僕、シリンドルの神様のこと、信じてますよ」

 顔を上げ、涙を拭って、リダールは言った。

「だって、タイオスを選んだ神様だもの」

 当のタイオスが聞けば、どうにも苦笑をしただろう。

「もしも〈峠〉の神様が僕を救ってくださったんだとしたら感謝します。でも、できることならフェルナーも救ってほしかったと……思うんです」

 寂しい笑みを浮かべてリダールは言った。もっとも台詞はやはりとぎれとぎれで、エルレールは心配そうな顔を見せた。

「話は、あとにしましょう。どうかもう休んで」

「あの」

 ひとつだけ、とリダールは言った。

「もう、夕方なんですか? 僕はずいぶん、寝ていたんですね」

「……あなたの状態を考えたら、夕方どころか何日も意識がなかったところでちっとも不思議ではないわ。でもいまは」

 エルレールもまた、リダールが見た窓の方に目線を移した。

「まだ、昼前なのよ」

「え?」

「ごめんなさい、余計なことを言ったわ」

 気まずそうにエルレールは首を振った。

「その話も、あとに――」

(……幻夜)

 彼もまた、その言葉を思い出した。

(そうだ! さっきの)

「シィナ」

 少女の名を呼んで、彼は起き上がろうとした。だが身体はほとんど彼の言うことを聞かなかった。ううっといううめき声だけが出る。

「無理よ、お願い、静かに……」

「僕、帰らなきゃ」

 先ほどの光景は夢ではなく現実だ。何が起きているのか完全に把握はできなかったが、友人たる少女がキルヴンの町で奮闘している。

 そうと感じたリダールはなおも起き上がろうとしたが、無駄な努力だった。

「ああ」

 彼は息を吐く。

「シィナ……どうか」

 どうか無事で。

 少年は懸命に祈った。


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