06 おかしな真似はしないことね
最低限の人数だけを神殿に置き、残っていた僧兵たちの多くもクインダンの指示に従って町へと出て行った。
「エルレール様は王家の館へ」
騎士は言った。
「この、奇妙な事態」
彼はすっかり暗くなった空を見上げ、祈りの仕草をした。
「あの魔物たちが関わることに疑いはありません。どうか陛下とご一緒に」
「ハルディールが館にこもっているとは思えないわね。騒ぎを静めるべく、町に出ようとするんじゃないかしら」
姉は正しい推測をした。
実際、町も静かに混乱しはじめていた。
大都市の群衆のように逃げまどうことこそなかったが、悲鳴や泣き声はあちこちで聞かれ、救いを求めて神殿にやってくる者も増えはじめていた。
「王家の館へきてほしいとの要請はあったけれど……私は彼らをなだめなくてはならない」
巫女姫は困惑した。
「どうしたらいいかしら」
「ここは神殿長にお任せして、一旦、館をご訪問なさってはいかがですか」
クインダンは提案した。
「お供いたします」
「そうね……」
それがいいかしら、とエルレールが呟いたときだった。
「――エルレール様、クインダン様」
彼らが神殿を出る前に、神官から声がかかった。何ごとかと彼らが振り向けば、若い神官は困った顔をしていた。
「どうしたの?」
「それが」
彼は言いにくそうに続けた。
「フィレン殿の姿が、見えません」
「何だって?」
「まあ、いったい、どうして」
「は、それが、見張りが交替するわずかの間に、外に」
「そう」
巫女姫はそれを手落ちだと咎めはしなかった。この奇怪な状態においてはさすがの神官であっても動揺するだろうし、そこを責めたところで何にもならない。
「この怖ろしい空の下、ひとりで外へ出たとは思えないけれど……」
「例の話が本当であるなら、彼らが連れて行ったということも」
フィレリア、いや、フィレンがエククシアの子を宿しているのなら、そうした可能性もある。クインダンはそう言った。
「けれど、目的はどうあれ、腹の子の父を偽らせたのは彼らであるはずでしょう? この神殿に残るようにというのもエククシアの指示だわ。なのにわざわざ、拐かすような真似をするかしら」
「判りません」
クインダンは正直に答えた。
「王家の館に、行ったのかもしれないわ」
エルレールは考えた。フィレンが子の父をハルディールだと主張し続けるなら、王を頼ろうと考えるやも。ハルディールは腹の子のことは否定するにしても、フィレンに頼られれば拒絶しないだろう。
「行きましょう、クインダン。もしもいなかったら、そのときは」
「探します」
彼は答えた。
「たとえ魔物の子を宿しているのだとしても、腹に赤子を抱えたご婦人がうろつくには」
クインダンは空を見上げた。
「――どうにも向かない、空の下です」
「ああ、エルレール殿下。お待ちしていました」
王家の館で彼らを出迎えたのは、イズラン・シャエンであった。エルレールは目をしばたたいた。
「お前は……ヨアフォードの手下だった魔術師ではなくて?」
「手下だった訳ではないんですよ」
にっこりと反逆者の元協力者は言った。
「それにいまは、ハルディール陛下の公認をいただいて、これを預かっておりますし」
「まあ」
魔術師の手にある護符に、王姉は目を見開いた。
「ハルディールがお前に預けたと言うの?」
「陛下は、たとえ私がこれを盗もうとしたとしても、必ず正しき者の手に戻ると」
彼は肩をすくめた。
「警告を下さいました」
「まあ」
エルレールはまた言った。
「その通りよ、魔術師。おかしな真似はしないことね」
彼女は言ったが、それは少しおどけただけであり、重ねて警告をしたつもりはなかった。
「しませんとも」
イズランは誓いの仕草をした。
「実はですね、私がこれを持っているのには理由がありまして」
それから彼はリダールの負傷について話した。
「『とても危険だ』という状態は抜けたと思うんですが、私は医師じゃありませんので、あまり詳細なことは言えません。もっとも、医師にもまた診てもらったんですが、楽観できる状況ではないことに変わりはないと」
「それでも、持ち直したのはハルディールと護符の力だと言うのね」
「私にはそう見えました」
魔術師はうなずいた。
「本来、こうしたことは神官が得手ですが、得手な方はやってくださらなかったものですから」
「ヴィロンという神官のことかしら?」
「いいえ」
イズランは首を振った。
「いまの話において言うのならば、シンリーン・ラシャ殿ですね」
「何ですって?」
「お聞きになります? 救済のための犠牲。これはわれわれ魔術師にはむしろ判る話なんですけどね。神官にやってもらいたくないと言いますか」
魔術師は語りはじめたが、エルレールは待ってちょうだいと言った。
「ところでフィレン……フィレリアは? こちらにきているかしら」
これはイズランに尋ねたものではない。近くの使用人に声をかけたのだ。使用人は巫女姫に対する礼をして、それから答えた。
即ち、きていないと。
エルレールは表情を曇らせた。
「どこに行ってしまったのかしら」
「彼女はあまりシリンドルに詳しくないでしょう」
考えながら騎士は言った。
「ここと神殿と、あとは『兄』と過ごしていた仮宿を行き来していただけのはずです。そちらの方を見て参ります」
「お願いね」
王姉はうなずいた。
「――もうすっかり、暗くなってしまっているわ」
不気味な幻夜は、辺り一面を薄闇で覆っていた。本当の夜のように真っ暗にはならないものの、いっそそうであった方が気は楽であったかもしれない。
変わることのない薄明るさ、それとも薄暗さは、余計に不安を煽るかのようだった。
「クインダン。どうか、気をつけて」
巫女姫は騎士を祝福した。ひざまずいてそれを受け、クインダンは幻夜の町へと向かった。