05 僕が信頼するのは
「不思議です」
魔術師は本当にそう思うかのようだった。
「正直に申し上げて、私は無理だと思いました。タイオス殿や騎士殿のように鍛えているならともかく」
彼は首を振った。
「最大級の怪我が、転んでかすり傷くらいのもんじゃないかと思えるようなリダール殿が」
寝台に横たわる少年を見ながらイズランは続けた。
「ここまで持ち続けるとは」
あのあと――。
フィディアル神官が刃物で少年を刺すという事態を前に、王家の館はたいそうな騒ぎになった。
『ラシャ殿』
『いったい』
「いったい、何を!」
ハルディールは目を見開き、神官の凶行に驚愕した。
「これが最良なのです」
淡々と神官は言った。
「お気の毒ですがリダール様は悪霊に取り憑かれていた。いえ、陛下の状況とは異なります。陛下の場合もまた『取り憑かれた』『乗っ取られた』と言われるものでしたが、彼に限って言うのであれば、悪霊に心をかけすぎていた」
「何の――いや、話はあとだ。アンエスカ、医師を!」
彼は、目前で血を流し、死に行こうとしている少年が誰であるのか知らなかった。ラシャが口にした名とすぐにはつながらなかった。だが放っておく訳にはいかない。
扉の前で控えていた騎士団長はハルディールの大声にすぐさま室内に飛び込んできていたが、何が起きたのか判らなかったのはハルディールと同じだった。ラシャは、必ずハルディールを救うとしか話していなかった。
アンエスカは再び廊下に出ると使用人に医師を呼ばせ、自らはリダールの止血を試みたが、とても助かるとは思えなかった。
神官の短剣はリダールの腹から胸に突き上げるように刺さり、引き抜かれていて、出血は既に大量だった。意識はなく、身体はけいれんするばかりで、それも次第に弱くなった。
同じく姿を見せたイズランが魔術を用いて少年の出血だけは止めたが、それ以上のことは魔術師にも不可能だった。
可能とする神官は、それを拒否した。
「生き延びれば、彼は生涯、悪霊に囚われるでしょう。友と信じた魂とともに逝くのが、リダール様にとっても最良です」
ラシャはそう、言い切った。
イズランもまた、ラシャの企みを知らずにいた。彼がヴィロンと話して考えたことは、陣を使ってフェルナーを外に出さないということだ。イズランはカル・ディアのキルヴン邸で以前に似たことをやっている。
ふたつの魂でリダールの身体を使うということにはイズランにも異論があった――倫理的な話ではなく、混乱のもとでしかないからだ――が、魂魄という類は魔術師には扱いかねる。神官が推し、リダールが承知した以上、彼が口を挟むことではないと判断した。
それが、実際のラシャの選択は「魂を入れ込んだ上で陣により逃げ場をなくし、容れものごと破壊する」だった訳だ。魔術師は何も「騙したな」などと神官を糾弾はしなかったが、騙された事実にはいささか苦い顔を見せた。
その辺りでハルディールにもようやく話が見えてきたが、彼は無論「そうか」と納得することなどできなかった。限りなく死の淵に近づいた少年を抱きかかえ、神の加護を祈った。
その時点では、イズランもアンエスカも、おそらく無駄だろうと感じていた。
だが神が祈りを聞き届けたものか、リダール自身の生命力か、彼は瀕死でこそあったものの、そのまま逝ってしまうことはなかった。
「やはり、持ち直していると見ていいか」
「私は医者じゃありませんけどね。仰る通り、とりあえず死神は鎌を引っ込めたと思いますよ」
「そうか」
ほっとしてハルディールは、神に感謝の祈りを捧げた。
「そこだ」
イズランは呟いた。
「護符を持ったら誰でも治療師になれる訳じゃない。王陛下だから……王家の血筋が成すんだ。エルレール殿下にも同じか、もっと強い力があるんだろう。だが彼ら自身は気づいておらず、普段はそれを眠らせている……」
「何をぶつぶつ言っている?」
ユーソアが聞き咎めた。
「何でもないですよ」
イズランはひらひらと手を振った。
「私を目の敵にするみたいなことは、やめてもらえませんかね? あなたが〈白鷲〉たるタイオス殿やアンエスカ団長を信頼してるのは判りますけど」
先夜の内に王家の館に戻ってきていたユーソアは、その時点でイズランと面識を得た。彼は魔術師に偏見こそ抱かないものの、いささか胡散臭いという気持ちは持っていた。
「俺自身は、先入観など持っていないつもりだ。団長や〈白鷲〉の発言に影響を受けていないとは言えないが、公正に判断して、少なくとも無条件に信頼はできないと考えてる」
はっきりとユーソアは言った。
「リダール殿を救っているのは陛下と〈峠〉の神でしょうが、失血死を防いだのは私の」
「あんたは魔物の襲来から世界を守ろうとしてるのかもしれないが、ついでに自分と自国の利も確保しようという魂胆もあるだろう」
弁舌を遮ってユーソアは言う。
「そんなことありませんよ、と言っても信じてもらえないんでしょうね」
「無理だな」
騎士は肩をすくめた。
「まあね、実際、そんなことはありますよ。でも何が悪いんです? やることはやってますし、無償奉仕の神官があれですよ?」
魔術師はぶつぶつと言った。
「悪くはないさ。だがあんたは、敵でなくとも味方じゃない、そう思ってる」
「敵じゃないが味方じゃない。よく言われます」
イズランは唇を歪めた。
「仕方ないですね。人と人の利害なんてそうそう完璧に一致はしないもんです。折り合いとか妥協点とかいうものを見つけてやっていくしかない」
「『世界を救う』が折り合いか」
じっと聞いていたハルディールが少し笑った。
「これに反対するのは、心の底から全てに絶望して『みんな消えてなくなってしまえ』と思っている人間か、或いは魔物から利益を受ける人間だけです。皆無じゃないですが、少数派ですね」
イズランは知ったように言った。
「そこで、味方じゃないが敵でもない私としては、とりあえず護符ごとリダール殿をお引き受けしますよ」
彼は言った。
「レヴシー殿に使った術は、対象の意識がないと無理なんですが、『現状維持』に手を貸すくらいならどうにか。そしてエルレール殿下がいらっしゃったら、交替を……」
「待て」
ユーソアが遮った。
「それだと陛下は、大事な護符を他国の重鎮であるあんたに渡すことになるじゃないか」
「宮廷魔術師なんてそんなたいそうなものじゃありませんよ」
「魔術師。つまり、護符を持ってとんずらもできる」
「そんなことをするつもりならとっくにやっています」
やれやれ、とイズランは息を吐いた。
「あなたにせよタイオス殿にせよ」
「しつこい、か?」
ユーソアは片眉を上げた。
「警戒すべきことをきちんと警戒する、という話です。それは必要なことで、私だってあなた方の立場だったら同じ警戒をしますね。だから困ってしまう」
「困る必要はない」
ハルディールが言った。
「任せよう、術師」
「おや」
「陛下……」
「ユーソア、警戒は判る。しかし、それは不要な警戒なんだ」
「これを信頼なさるんですか?」
胡乱そうに、ユーソアはイズランを指した。
「レヴシーを治したことは事実のようですが」
「『治った』訳ではありませんと何度言えば」
「こうして忠告を繰り返すところも誠実に見えますが、無条件に信用はできません」
きっぱりと青年は告げた。
「イズラン術師がこれまでに嘘をついたのは自らの身分についてだけであって、それ以外は本当のことを述べていたと思う」
静かに少年王は述べた。
「仮にそうだとしても……」
「いや」
ハルディールは首を振った。
「だが僕が信頼するのは術師ではなく、神だ。たとえ盗まれても奪われても、護符は必ず、正しき者の手に戻るから」
「……は」
ユーソアは目をしばたたいた。
「仰る通りです」
それから騎士は少年王に敬礼し、神に敬意を示す仕草をした。
「陛下、私にもお供をお許し下さい。神に賭けて、必ずや陛下をお守りします」
「よし、では支度だ」
王は言った。
「それじゃ出発だ!」
少年騎士が、まるではしゃぐように言った。
だが誰もそれを咎めなかった。
戦いの興奮に当てられているのであれば、ユーソアも忠言を口にしただろう。だが少年は自らを奮い立たせるために笑っていたし、彼らもまた同じ気持ちだったからだ。
怖れがないと言えば、嘘になる。
だからこそ、それを乗り越えるために。
「何が起きているのか、僕はこの目で確かめる」
少年王は言った。
「〈峠〉の神と、この身体に流れるシリンドルの血に賭けて」
ハルディールは騎士たちを代わる代わる眺め、誓った。
「これ以上、魔物にこの国を闊歩させはしない!」