03 考察の余地が
シリンドルでもまた、人々は驚いて空を見上げていた。
悲鳴を上げて恐慌状態に陥ると言うよりは、身を寄せ合って〈峠〉の神に祈りを捧げるという様子が多く見られたが、感じる恐怖は他国の者たちと変わらなかった。
何か異常なことが起きている。
変わらぬはずのものが変わっている。
それは人々を萎縮させた。
「いったい、どういうことなんだ……」
ハルディールは呆然と呟いた。
「物語師の語る伝承で、聞いたことはあります」
言ったのはイズランだった。
「確か、神話時代の話でしたがね。何でも神の怒りが太陽を隠してしまったんだとか」
「――神の」
ハルディールは視線を落とした。
「我らは〈峠〉の神の怒りを買ったのだろうか」
「幸か不幸か、騒ぎはふたつの魔力線上に沿って起きています」
イズランはそっと言った。
「つまり、シリンドルだけではない。という説明が陛下のご気分を晴らすものかは判りませんが」
「晴れぬな」
少年王は返した。
「神の怒りでないのならば、魔物の企みか? 他国でも起きているという事実、見逃せない。これは国境線に関わりのない問題だ」
「仰る通りです」
イズランはうなずいた。
「オルディウス王陛下も、同様にお考えです。ですから私があちこち出向いているのを黙認してくださっている。カル・ディアルの方は王陛下まで手が回らなかったので貴族に話をしていますが、一時的な対策には充分でしょう」
「いまの話は聞かなかったことにする」
ハルディールはアル・フェイル宮廷魔術師の発言にわずかに首を振った。
「陛下」
そのとき、部屋に駆け込んできた姿があった。
「異常事態が発生しています」
ユーソア・ジュゼは非礼を詫びる仕草をしながら、まず告げた。
「太陽のことならばここからも見えた」
その報告は不要、と王は言った。
「これが魔物どもの言っていた幻の夜とやらに違いありません」
騎士は言い当てた。
「現況のご報告に参りました」
彼はぴしっと敬礼を決めた。
「話せ」
ハルディールは促した。
「魔物連中から身を守るのに聖言を込めた魔除けが役立つという話から、神殿では夜を徹して多数の魔除けを作り上げました。祈りを込める玉石が足りませんでしたので、簡易なものながら札を作って、加護の祈りを」
神官たちは哀しみや怖れに整理をつけて、ひと晩中、その仕事をしていた。
「夜の内は通常の警護をしましたが、夜が明けてから僧兵らを分けて国中にそれを配りつつ、灰色どもに近づくなという警告を発しています。不安をあおらぬよう、〈白鷲〉がきているから大丈夫だということも伝えさせています」
ユーソアは続けた。
「配布した魔除けのためか、それほど大きな混乱は起きておりません。ですがこの状態が続けば」
判りませんと騎士は少し危惧を見せた。
「よくやってくれた」
王はねぎらった。
「実際のところ、私は指示しただけで」
ユーソアは苦笑いを浮かべた。
「考えたのはクインダンや〈白鷲〉、それにエルレール様です」
「この現象のことに話を戻したいのですが」
イズランが口を挟んだ。
「幻夜、という言葉をわれわれ魔術師は使いません。そのせいで把握するのが遅れてしまいましたが、この現象自体は記録があります」
「どのようなことだ」
ハルディールは問うた。
「つまり……危険な事象なのか」
「いえ」
彼は首を振った。
「本来、ごくわずかな範囲で起こされる天空神の奇跡……神秘です。魔術的には珍しい現象ということでいくらか意味がありますが、問題を引き起こすものではない。ですがソディエたちは魔力線を使って、線上一帯に幻夜を発生させています。アル・フェイル側にシリンドルまで続く目立った魔力線はなかったんですが、奴ら、それを作り出しまでしましたから」
魔術師はとんでもないと言うように渋い顔で首を振った。それは非魔術師たちには判りにくい話だったが、信じ難いことであるようだとの推測はついた。
「黒い太陽は十分もかからずに元に戻るはずです。しかし魔力線を作り出してまで彼らがやろうとしていることは、ただそれを見送ることじゃない」
「では、何なのか」
ハルディールは問うた。
「目的が判れば、阻止するも可能なはず」
「幻夜を永遠にとどめること。それが狙いかと思われます。しかしどうやって阻止するのか――」
「……〈杭〉」
ぼそりとユーソアが呟いた。
「何ですって」
「ヨアティアが、言っていた。奴らは〈峠〉の神殿に杭を打つつもりだとか何とか」
「杭……」
イズランは呟き、両腕を組んだ。
「それは、考察の余地があります」
「いまは何も思い当たらないってことか」
責めるのでも皮肉を言うのでもなく、単なる判断としてそう言うとユーソアは両腕を組んだ。
「何にせよ、あまりのんびりはしていられない――」
「また町に出るのか?」
部屋の隅で黙っていた少年騎士が尋ねた。
「レヴシー」
思いがけぬ姿であったか、ユーソアは目をしばたたいた。
「よ」
少年騎士は片手を上げた。
「もう起きて、大丈夫なのか」
「ずっと寝てたんだから、そろそろ活動させろよ」
レヴシーは笑った。
「だが、昨日は移動するだけでもしんどそうで」
「しいっ、言うなって」
慌てて彼は手を振った。
「レヴシー、そんな調子ならば」
「いいえ」
少年騎士は王の言葉を遮り、非礼を詫びる仕草をした。
「俺……私は、団長から陛下の警護を引き継ぎました。たとえ陛下のご命令であっても、この任を退くつもりはありません」
「立派だぞ」
ユーソアはにやりとした。
「だが実際、ふらふらのようじゃ話にならんな?」
「う、そ、それは」
年下の先輩騎士は詰まった。
と言うのも、王の警護をする騎士としては情けないことに、彼は先ほどから座っていたのだ。ハルディールの許可――と言うより命令だったのだが、実際、そうさせてもらう方が楽だった。
「そうだ、イズラン術師!」
思いついたようにレヴシーはイズランを呼んだ。
「魔法でちゃちゃっと治せないかな?」
「そんなに便利なものじゃないんですよ、魔術というのは」
イズランは顔をしかめた。
「〈惑わし〉ならば可能です。〈魅了〉などもこの一種ですが、この場合ですと、体力の消耗を本人に気づかせないこと。ですがそれは『治る』こととは違いますから」
「それ、やってもらえないか」
レヴシーは言った。イズランは首を振った。
「人の話はちゃんと聞いてください」
「聞いてるさ。治るんじゃないけど、治ったように感じるってことだろう?」
彼は正しく理解した。
「それでいいから」
「危険なんですよ。本能の歯止めを外してしまうんですから」
「術師、少し待ってくれ」
言ったのは、ハルディールだった。
「〈シリンディンの騎士〉たるレヴシーは、自分の命に責任を持てる。だからこそ、アンエスカも僕の警護を彼に託した」
ハルディールはレヴシーを振り返った。
「判断は、僕がする。友の命が危険になるという理由だけでは拒絶せず、必要ならば騎士の役目を任じたい」
少年王の言葉に少年騎士は嬉しそうな顔をした。友人としてのハルディールはレヴシーの身体を案じたが、王として騎士を信じようとしてくれているのだ。