12 天気
嫌よ、と姫君はきっぱり答えた。
父王子は困惑した顔を見せた。
「アギーラ……」
「そんな可愛らしいお顔で困って見せても駄目よ、お父様。私は前からきちんと、申し上げていたはずだわ」
アル・フェイル第一王子トーカリオンの娘にしてオルディウス王の孫娘アギーラは、つんとあごを反らした。
「婚約、結婚そのものが嫌だと言うのではないのよ。私の務めのひとつであると理解しているわ。ただ」
嫌よと彼女は繰り返した。
「あんな醜い顔の殿方なんて」
「殿方の価値は、顔立ちで決まるものではないぞ」
父親はまずそう言ったが、そんなごく普通の言葉で説得される姫でもないことは承知だった。
「よりによってカリク・ガルバーに私を娶せようだなんて、お父様はどうかしているわ」
「陛下のご提案だ」
嘆息してトーカリオンは言った。
「お爺様の?」
アギーラは片眉を上げた。
「お父様。お爺様はお父様のお父様でしょ」
「無論、その通りだが」
当たり前のことを確認されて、トーカリオンは目をしばたたいた。
「お父様はご自分が情けなくないの? そのお年になっても父親の言いなりだなんて」
「――そういう問題ではなかろう」
彼の父は国王なのだ。普通の親子とは違う。意見は言うが、決定するのはオルディウスであり、息子は従うだけだ。
もちろんアギーラも判っていてこういう言い方をする。判っていない方が可愛げがあるというものだ、とトーカリオンはこっそり考えた。
「とにかく、ガルバー侯爵の息子は嫌よ」
アギーラは三度言った。
「お父様でもお爺様でも、それが決定だ、命令だと仰ったら、私は駆け落ちでも何でもしますからね」
「な、何だと」
気の毒に父は目を白黒させた。
「ど、どこのどんな男だ。お前、いつの間に……」
「何を慌てていらっしゃるの。仮の話なのに」
「か、仮か。そうか」
「――でも、いいわね。駆け落ち。素敵だわ」
「アギーラ」
「身分を持たない、素敵な殿方と恋に落ちて。数々の障害を乗り越えて、結ばれるのよ」
うっとりと姫君は言った。
「ねえ、お父様。例の劇団には、そうした芝居をやるよう、言って頂戴」
「う、うむ」
そうした芝居をしてはならぬ、と言った方がよいなと王子は考えた。
「でも本当に何の地位も身分もない、ただの平民ではつまらないわ」
アギーラは空想を続けた。
「敵対する異国の王子などというのもいいわね。いえ……」
にっこりとアギーラは笑みを浮かべた。
「愛する娘か、国への忠誠か、どちらかを選ばなくてはならずに苦悩する銀髪の騎士、これだわ」
「……何の話だ」
「どうしているかしら、ルー=フィン」
姫は遠くを見る目つきをした。
「シリンドルへ帰ったとは聞いたけれど、それきりだわ。彼の魅力はお爺様も認めるところなのに、放ったらかしだなんて」
「シリンドルの騎士か」
「〈シリンディンの騎士〉と言うのよ」
アギーラは訂正した。
「ねえお父様。私、劇団より彼を招いてほしいわ」
「……駄目だ」
「あら酷い」
姫は顔をしかめた。
「そんなこと仰ると、やはりアギーラは駆け落ちのことを考えるわ。ここからさらってもらうのよ」
「騎士が、お前をさらうと言ったのか?」
「言うはずないわ。彼は笑ってしまうほど真面目な朴念仁だもの」
アギーラは肩をすくめた。
「嫌だ、お父様ったら。そんなに本気で心配するようなお顔をなさらないで。彼くらい魅力のある殿方がいいわというたとえ話であって、それ以上のものではないのだから」
「う、うむ。それならば、よいが」
トーカリオンは返答しながら、サング――彼はラドーと愛称で呼んだ――に命じて、アギーラを見張らせておいた方がいいかもしれないなと思った。時折、突拍子もないことをしでかすのだ。
「ところで、お父様推奨の公演はいつだったかしら?」
「三日……いや、二日後だな」
思い返しながらトーカリオンは答えた。
「そうだったわね。私、練習を見てこようかしら」
「楽しみはとっておくものだぞ」
「裏側を知っておいた方が楽しめるということもあるわ」
姫は負けなかった。
「早速、手配しましょう。何ならお父様も一緒でもいいわよ」
堂々とアギーラは、自分が主導権を持っているかのように言い放ち、父親に苦い表情を浮かべさせた。
「イズランは留守にしているのだったわね。ラドーを呼ぶわ。イズランは生意気なことを言うけれどラドーならおとなしいし、ちょうどいいわ」
たいていの人間が怖れたり敬遠する魔術師協会の導師をまるで召使いか、または従順な飼い犬ででもあるかのように言うと、アギーラは立ち上がった。
「出かけるには、気分のいい日だね。明け方、美しい朝日が――」
芝居を演じる役者のように窓の外を指そうとしたアギーラ姫は、しかしそこで動きをとめた。
「あら、明け方は確か、いいお天気だったのに」
彼女は肩をすくめた。
「急に暗く、なってきたわね」
国王は、朝から不機嫌だった。
周囲の者たちは腫れ物に触るように、いつも以上に丁重に彼に接したが、どうやったところで彼の機嫌が直るはずもないことは判っていた。
「イズランは、まだ戻らんのか」
アル・フェイル国王オルディウス三世は、苛ついた声音で言った。気の毒にもオルディウスの望まぬ答えをしなければならなかった近衛兵は、首をすくめて本当のことを答えた。
もっとも、オルディウスは理不尽な処罰を与えるような人物でもない。
近衛兵はじろりと睨まれたが、イズランの不在を彼のせいにされたりはしなかった。
「このところあやつは留守にする時間が多すぎる。崩落事故からというもの、あちらへこちらへと飛び回って、ろくに宮廷におらんではないか」
「それは、陛下の国をお守りするためでもあります」
落ち着いた声がした。やはり王は、それをじろりと睨んだ。
「ラドーか。お前がイズランと代われ」
「現在、不承不承、代わっております」
「逆だ、逆。あれを俺の傍に戻して、お前が飛び回れと言っている」
「私は私で、あまりアル・フェイド協会から離れられないのです」
「お前たちはものの一瞬で、シリンドルでもアル・フェイドでも行き来できるであろうが」
「その『一瞬』の差が何を生むか判らぬものです」
アルラドール・サングは淡々と返した。
「だからこそ、イズランはシリンドルに行ったまま。陛下はその辺り、お判りかと」
「判っておる」
むっつりとオルディウスは言った。
「魔物の侵略を防ぐために、イズランは飛び回っておるのだろう。俺は軍隊ならば動かせるが、魔物と戦争をしても旨みはない。国と民を守るためならば無論いつでも動かすが」
「まだそのときではありません」
「と、お前たちが口を揃えて言う故、仕方なく座している」
王は鼻を鳴らした。
「だが『そのとき』は近いな?」
「何故に、そうお思いですか」
「勘だ」
サングの問いに、オルディウスはあっさりと答えた。
「俺は王としてよくやっていると我ながら思うが、それには、言うなれば優秀な猟犬のような嗅覚が役に立っていると思っている」
彼は言った。
「この鼻がな、言うのだ。崩落事故以来、俺の領土に漂い出している奇っ怪な臭いが、いままさに集結しようとしていると」
王はにやりとした。
「波が起こるぞ、ラドー。高い波がな。呑まれる者もいる」
「陛下は……」
サングはすっと目を伏せた。
「時に、我ら魔術師よりも魔術師のようなことを仰る」
「予言だとでも?」
オルディウスは笑った。
「何でも、予言は必ず成就するものだと言うな。俺の勘は勘に過ぎない。だが、感じるぞ。大きな波が――」
「失礼いたします!」
ひとりの兵士が、息せき切って王室へと現れた。
「どうした」
オルディウスは片眉を上げた。
「ずいぶんと泡を食っているようだな、何があった」
彼は身を乗り出した。
「シャ、シャエン術師をお呼びするよう、言いつかって参ったのですが」
息を荒くしたまま兵士は言った。
「イズランは不在だ」
また不機嫌な顔に戻って、王は手を振る。
「ラドーでよかろう」
「は」
命令と取って、サングは頭を下げると兵士の方に歩いていった。
「しかし、何故魔術師が要る?」
その背中と兵士を視界に収めながら、オルディウスは問いを発した。
「それが……」
兵士は不安そうな顔つきでちらりと窓の方を見た。オルディウスも何ごとかとそちらを見る。
「うん?」
彼は首をかしげた。
「今朝はよく晴れていたと思ったが、急に雷雲でも出てきたか?」