10 朝
麺麭屋の朝は早い。
シィナは仕込みの手伝いをするべく、雇われている〈風見竜〉の店へと急いだ。
生地をこねるのに少女の細腕は向かないから、彼女がやるのは火の強さや焼け具合を見る段階からだ。
いつも通りの朝。
違うのは、リダールがこのキルヴンにいないこと。
(シリンドル、かあ)
少年が首都カル・ディアに行くことは間々あったが、今回はそうではない。もっと遠く。この町を出たことのないシィナには、想像がつかないほど遠い。
大雑把に距離の話をするならば、カル・ディアもシリンドルも、キルヴンからは「同じくらい遠い」と言えるのだが、よく耳にする首都の名と聞いたこともなかった異国では印象がだいぶ違う。
とても遠いところ。そう感じる。
(大丈夫かな、あいつ)
(フェルナーを助けるとか言ってたけど、あいつの方こそ、助けが必要なんじゃねえ?)
シィナはそんなふうに思った。
(オレ……ついてってやれば、よかったかな)
(何ができるって訳でもないけど)
(オレ……)
タイオスのように剣を振るえるでもない。ラシャのように神に祈れるでもない。自分が行ったところで何の役にも立たないことは判っている。
自分はただ威勢のいいことを言うだけで、何もしていない。
シィナは唇を噛んだ。
(そうだよな。オレ、灰色どもについて調べるって言ったけど何にも判んなくて、サングとかって魔術師に教わって)
(〈空飛ぶ蛇〉亭の人たちを助けるとか言って、結局、店やタイオスに迷惑かけて)
(協会でも、オレなんか相手にされなかったし)
(ラシャを呼んできたのはオレだけど、リダールをフェルナーから取り戻したのは結局、あの魔除けで)
自分は何をやっているのだろう、とシィナは悔しく思った。
やることなすこと、ただの空回り。
リダールのことだって。
「シィナッ! 焦げ臭いぞっ」
「うあっ、わっ、や、やべえっ」
慌ててシィナは窯から麺麭を取り出しはじめたが、いくつかはどうしようもなく無惨なことになっていた。
「馬鹿っ、何をやってるっ」
「ご、ごめん……」
シィナはうなだれた。考えごとに没頭してこんな失敗をするなんて、叱られて当然だ。
「近頃、様子がおかしいな」
雇い主の親父は両腕を組んだ。
「何か悩みでもあるのか?」
「悩みって言うか……気になることは、あるけど」
「ははあ」
親父はしかめ面をほぐした。
「この前の、少年たちか」
「えっ、何で」
「恋の悩みとはな。お前はまだ子供だと思ってたのに」
「ちっ、違えよっ」
顔を赤くしてシィナは否定した。
「リダールのことは、別にっ」
「俺は、ふたりの内のどちらとも言ってないが?」
親父はにやにやした。
「そうかリダールと言うのか。……ん? リダール?」
確か伯爵の息子がそんな名前じゃなかったか、などと親父が呟く間に、シィナは残りの麺麭をかき出した。
「この辺は、大丈夫。ちゃんと焼けてる。ごめんな、オレ、ちゃんとやるから」
クビにしないでほしい、というようなことを彼女が言うより早く、麺麭屋は手を振った。
「ああ、人間、誰でも失敗はあるもんだ。きちんと反省するようなら、いちいち細かいことは言わんよ。ただし」
彼はじろりとシィナを見た。
「ここ数日は、酷いもんだ。釣り銭を間違えて客を怒らせる、陳列前に商品を落っことす、かっぱらいにしてやられたこともあったな」
「ご、ごめん」
道を訊いてきた子供に応対している間に、悪ガキどもに麺麭を盗まれてしまったのだ。普段のシィナならそうしたことに勘が鋭くて、そうそう騙されないのだが。
「休憩を一刻やるから、友だちと喧嘩でもして気になって仕方ないなら、さっさと仲直りをしてこい」
親父は肩をすくめてそう言った。
「違うんだ。喧嘩とかじゃなくて……それにいま、リダールは出かけてるし」
「じゃあ何を気にしてるんだ?」
「うん、それが」
シィナは灰色ローブの話をすることにした。大げさに言い立てても笑い飛ばされるだけだということには気づきはじめていたから、魔物だの氷像にされて殺されるだのという話はせず、「近づいた者が姿を消している」という怪談話めいた雰囲気にした。
これは魔術師協会からの提案だった。その場では馬鹿にして笑っても、何となく気になって避けるようになるだろう、という推測だ。妙な正義感や不要な好奇心を抱く者もいるだろうが、そうした少数派は仕方がないというのが協会の判断だった。
「ふうむ」
親父は眉をひそめた。
「そんな怪談が流行ってるのか」
「本当のことなんだよ」
シィナは食い下がろうとしたが、ほどほどにしなければなとも思った。
「だが俺も見たことはある。ちょっと不気味な連中であることは確かだな」
「近づいたら、駄目だぜ」
真剣に少女は忠告した。判った判ったと親父は笑った。
「さ、それじゃもう少ししたらいつもの届けものをやってくれ。オーレンのところと」
「ウォッタの店だね、判った」
シィナはこくりとうなずいた。
言われた通りに彼女は、粗熱の取れた麺麭を箱に詰め、ふたつの食事処を回った。そのあとは昼まで店番をすれば別の雇われ人がやってきて、今日は交替だ。「小屋」に行ってまた灰色ローブの話をしようかなとシィナは考えた。以前にもやったのだが、やってくる顔は違うこともあるので、役に立つはずだ。
(オレが言うより、ホーサイ先生に上手に話してもらうのがいいかも)
(そうしたらみんな、ちゃんと気をつけるよな)
ホーサイに相談して書かれたリダールの手紙は、少年が神官と出かける前に、伝書鳩に託されて飛び立っていた。鳩がどれくらいの速度で飛ぶものかシィナは知らないが、まだついていないことは確かだろうと思った。
今日はいい天気だ。
季節はすっかり冬だが、キルヴン辺りでは寒くてどうしようもないということもない。
明け方こそ息が白いこともあるが、こんなふうに太陽が昇ってくれば、日陰に入り込まない限り気持ちのいい日となる。
二店目に届けものを終えて〈風見竜〉に戻ろうとしたシィナは、ふと視界に入ったものに気づいた。
「あっ、スエロじゃん」
それは片耳だけが垂れた、灰色っぽい犬だった。
「スエロー!」
自分が呼んでもくるかな、と試してみたくなって、シィナは大きく手を振った。犬はぴくりと反応してシィナを見たが、ランザックのときのように駆け寄ってはこなかった。
「ちぇ」
仕方ないな、と思いながら彼女は自分から犬に近づくことにする。スエロはシィナの匂いを覚えていたか、逃げ出すことなく少し尻尾を振って、やってきた彼女に撫でられるままでいた。
「よお、元気だったか? よかったな、お前、氷にされちゃわなくて」
あのときのことを思い出しながら彼女は言った。
「やっぱ、お前、汚れてんなあ。あのときは話が半端になっちまったけど、やっぱりハシンのじっちゃんに言って洗ってもら――」
少女がしゃがみ込み、顔をしかめて犬に話しかけていたときだった。
不意に、気温が下がった。
あれっとシィナは不思議に思った。
今日はとてもいい天気で、雲ひとつなかったはずなのに。
見れば、スエロの尻尾が下がっていた。
犬はどこか不思議そうな目つきで、シィナではない、どこかを見ていた。
「スエロ?」
何だろうと思う間に、気温が下がってくる。
それだけではない。
シィナは異常に気づいて、立ち上がった。
眩しい朝の陽射しに、ミュレンは目を覚ました。
店主モウルと護衛仲間イリエードが留守にしている〈縞々鼠の楽しい踊り〉亭で、彼は臨時賞与をもらうことを約束に、店の警備に責任を持つことになっていた。
昨夜は特に酷い酔っ払いも出ず、何の問題もなかったが、それはあくまでも結果の話だ。ミュレンはイリエードの分と合わせて倍の時間も店を見張っていたし、ほかの護衛と交替してからも深夜過ぎに店を閉めるまで待機して、すっかり疲れてしまった。
疲れた理由はそれだけではない。
店には暴れん坊こそ現れなかったが、情報屋気取りの浮ついたのがきて、うるさかったのだ。
客が興味を持っているようだったから彼は放っておいてものの、話は下らなかった。
リゼンの町に出没している謎の灰色ローブの男たちが、人を殺して回っているというような噂話。
くだらない、とミュレンは一蹴したが、そう言えばイリエードが気にしていたな、ということはふと思い出した。
(本当に人殺し集団なら、町憲兵隊が動くだろう)
(俺には関係ないことだが、イリエードがいたらどうしたんかな)
そんなことを思いながら眠りに落ちたら、噂話そのままの夢を見た。おかげで、寝覚めがよくない。
ちょっと朝の散歩でもしてくるかな、とミュレンはねぐらを出た。
「ああ、いい天気だ」
思わず独り言が出る。
このところすっきりしない空が続いていたが、今日は久しぶりの快晴だ。悪い夢も払ってくれそうな、太陽の輝き。
〈縞々鼠〉の護衛戦士は青空の下で思い切り伸びをして――それから、おやっと思った。
(何かいま……変じゃなかったか?)
彼は違和感の原因を確かめようと、目を細めて空を見上げた。