09 名に相応しい、行いを
「それであなた自身が亡くなったら、どうするんです」
「死ぬもんか」
タイオスは言った。
「死なんよ。奴らをみんな……ぶっ殺しちまうまではな」
「『死なない』と言って死なないなら、死人は出ないわ」
きっぱりとエルレールは指摘した。
「哀しみは……お察しします。でも、あなたの言っていることは子供じみているのではないかしら」
巫女は手厳しく言った。
「じゃあどうしろってんだ!?」
タイオスは、相手がそれこそ子供ほどの娘であることを忘れたかのように叫んだ。
「おとなしく! 追悼の意でも示してろってのか! ご免だ!」
「タイオス」
クインダンが諭すように呼んだ。タイオスははっとして、謝罪の仕草をした。
「すまん、姫さん。つい、な」
「いいえ」
エルレールは首を振った。
「私も……言いすぎたわ」
彼女も謝罪の仕草をした。
「もう……会えないかもしれんとは、思った。あいつが劇団に行くと言ってからその覚悟は決めてたさ。だが、こんな形で……二度と会えないことを早々に知らされるなんざ」
きついんだよと彼は洩らした。
「俺が一緒にいたら? シリンドルへやってこようなんて思わず、ティエから離れなかったら?」
「そうしたら、この場に全員分の氷像ができたかもしれません」
「判ってる。そのことも、判ってるさ」
タイオスは額を押さえた。
「きついんだよ」
彼は繰り返した。
「ただ……きついんだ」
『――俺もな』
不意に、彼の耳に蘇ったのは、師匠ラカドニー・モウルの声だった。
ティエの死の知らせに激高したタイオスを鎮めようと、彼は自分の話をした。そのときは無視同然の態度を取った彼だったが、いま突然、その意味が理解できた。
「俺もな。セレディア……妻が死んだとき、一緒にいてやれなかった。病に倒れて苦しんでたんだが、その日は調子がよかったもんだから、ちょっとだけ彼女をひとりにして出かけた。その間に、あいつは独りで、逝ってた」
きつかったなと彼も言った。
「俺の場合は、一緒にいたからって彼女を助けられた訳じゃないだろう。だが、行かなければよかった、その後悔は同じだ。俺には仇なんてなかったから、誰に当たる訳にもいかず、しばらく飲んだくれたよ」
「俺が……ソディエどもに当たろうとしてるって言うのか?」
「違うとでも?」
モウルの問いかけに、タイオスは違うと言った。だが、違わなかったと、いまは思った。
(幸い、とは言いたくないが、あいつらをぶっ殺すことはシリンドルを守ることにもなる。だから俺は、躊躇なく当たれたんだろう)
それくらいの自己診断ができる程度には、彼も落ち着いていた。
『なあ、ヴォース――』
諭すような、師匠の声が聞こえる。
これは彼が実際に言っていたことだったろうか。それとも、彼なら言いそうだと、想像しているだけだろうか。
『試しに訊いてみよう』
師匠の声が言った。
『いまのお前がやるべきことは?』
師匠の問いかけに、弟子は少し黙ってから、口を開いた。
「――ライサイとエククシアと、連中の企みをみんなぶっ潰すことだ」
「タイオス?」
「いや」
何でもないと彼は手を振った。
「もう少ししたら、休む。悪かったな」
彼は両者に謝った。
「連中の計画通りってのは腹立たしいが、奴らの用意してる脚本をひっくり返してやるためには、体力も必要だ」
それくらいは判っていると戦士は言った。
「その前に」
クインダンは咳払いをした。
「噂の傷を見せて下さい」
「お、おい」
クインダンが問答無用でタイオスの上衣をめくったので、戦士は思わず傷痕を手で隠しかけたが、騎士にじろりと睨まれて仕方なくその手を放した。
「……まあ」
エルレールは口に手を当てた。
「嫌だわ。何だかとても……禍々しい感じがする」
黒い円を目にした巫女姫は、魔術師と同じことを言った。
「ルー=フィンの話によると、彼がここを刺されたのは、ほんの数刻程度前のことです。普通なら戦うどころじゃない、まともに起き上がることだってできない。運がよくたって、瀕死状態だと思います」
クインダンは顔をしかめた。
「ところが、とてもそんな様子は見られない。エククシアやライサイの術ではないかという推測をしているようなんですが」
「術が解かれた途端、俺は死んじまうんじゃないかという有難い推測もある」
タイオスが自ら補足した。エルレールは顔をしかめる。
「殿下、何か……お判りになりますか」
「どう……どうしたらいいかしら」
エルレールは戸惑った。
「私には」
彼女はそっと、傷口を隠す円に手を伸ばす。気遣うようにしながらそこに手を当て、モウルがそうであったようにびくっとしてそれを引いた。
「冷たいわ」
「気味悪いだろ。無理しなくていいぞ、姫さん」
怪我人は優しく言ったが、巫女姫は首を振った。
「何ができるか、判らない。何になるか判らないと言うべきかしら。でもお願い……祈らせて頂戴」
エルレールは再び手を伸ばし、指先でそっと円に触れると瞳を閉じて低く詠唱をはじめた。
「レウラーサ・ルトレイン……神よ……」
タイオスはくすぐったいような気持ちになりながら、おとなしくそれを聞くことにした。自然と彼の瞳も閉ざされる。
祈りの声は穏やかで優しく、心地よかった。タイオスは肩の力がふうっと抜けていくのを感じ、身体が強ばっていたことに初めて気づいた。
(――イズランにティエの件を聞かされてからこっち)
(ずっと、緊張してたのか)
(よくまともに剣が振れたもんだ)
他人事のようにタイオスは思った。
(ティエ)
(怖かったろうに)
(俺がいてやれたなら)
(ティエ)
(……溶けちまったのか? あの神官たちのように)
(死体なんて、いずれは腐ってなくなるもんだ。だが)
(あんなふうに)
(土に還ることもなく……)
そう、氷像の溶解に動じていたのは、神官たちだけではなかった。
ヴォース・タイオスもまた、絶望的な視線でそれを見届けた。
ティエのことがなければ、先ほど考えたように「どうせいずれなくなるもんだ」「凍った時点で死んでいたんだ、焼いたのと同じだと思え」などと、いささか乱暴にでも、嘆く者たちを慰めることもできただろう。
だが、できなかった。
目にしていないティエの氷像がまぶたの裏にちらついて、溶け行くそれらに重なった。
(ティエ……)
心臓が、痛むようだ。
(身内が死ぬときゃ、ラファランが触れるなんて言うが)
導きの精霊ラファランは、近しい者の死を知らせるという伝承がある。タイオスはそのことを思い出した。
(俺には、判らなかったな)
(まあ、もちろん、血縁じゃないし)
(妻でも……なかったからな)
ラサードの言葉を思い出した。何故、求婚しなかったのかというような。
何故だろうかとタイオスは思った。
家庭を持とうなんて思わなかったことは事実。ティエのことを「俺の女」ではなく、友人と思っていたことも事実。ラサードが言っていたように都合よく扱ったつもりはなかったが、道化師が口にせずとも思っていたように、子供じみた照れのためなどでもなかった。
あの関係がちょうどいいと感じていたのだ。ティエにも、自分にも。
誤りではなかったと思う。
ただ、少しだけ、考えた。
もしも――何かの折にふっとそんな気になって求婚の言葉でも口にして、ティエもふっとそんな気になって、応じていたら。
彼らの道のりは、いまとは違うものになっていたかもしれない。
誰よりもティエを守ると決めていたなら、〈峠〉の神はタイオスを選ばなかったかもしれず、彼の理想とした田舎町にでも越していたなら、ティエが〈ホルッセ劇団〉に向かうことも、彼と離れることもなかったかもしれない。
意味のない仮定。
ただ、もしかしたらと思う。
もしかしたら、彼女がこんな目に遭うことはなかったのかもしれないと。
(ティエ)
(――ティエ)
繰り返し、タイオスはその名を呼んだ。
初めて出会った若い頃の彼女が。行ってらっしゃいと何度も彼を送り出した彼女が。最後にも、同じように笑って手を振った彼女の姿が、まぶたの裏に浮かぶ。
だが、目の前を真っ赤にするような怒りは、湧いてこなかった。
閉ざした瞳の奥で、死んだ女が苦笑しているように思えた。
『やあね、ヴォースったら』
『さっきのあなた、癇癪を起こした子供みたいだったわよ』
『『灰色ローブを追い払う』ことはあなたの仕事だけれど』
『――どうか、〈白鷲〉の名に相応しい、行いを』
それは彼女と最後に交わした言葉だった。
彼はそれにうなずいた。
約束したのだ。ティエと。
タイオスは目を開けた。エルレールの祈りがちょうど終わったところだった。
「有難うな、姫さん」
彼は礼を言った。
「俺はもう、休んだ方がいいだろう」
冷静に判断して、タイオスは言った。
「クインダン、あとは任せる。ただしお前も休めよ」
「はい」
お任せ下さいとクインダン・ヘズオートは丁重に〈白鷲〉に敬礼した。
タイオスは少し苦笑を浮かべてうなずくと、エルレールに丁寧な礼をして、休める場所を探すべく踵を返した。