07 追悼
夜は、ゆっくりと過ぎていった。
神殿もやがて、穏やかな静寂を取り戻した。
まるで嵐が吹き荒れたかのような礼拝堂は――その通りであったとも言えたが――、壊れてしまった椅子や廊下の修繕などはまだだったものの、遺体の片づけや血痕の掃除は済んで、とりあえずの落ち着きを取り戻した。
騎士たちや僧兵は王家の館や街の巡回に出向いた。正確に言うのであれば、クインダンは神殿の警護に残り、ユーソアが報告に行き、ルー=フィンが僧兵らを連れた。
タイオスは残ることを選んだ。
彼が慣れぬシリンドルの夜を歩いてもあまり役には立たないどころか邪魔になるだろうという判断もあれば、弔いの場からまだ離れられないという感傷的な気持ちもあった。
ヴィロンのこともあった。いきなり前言を翻してエククシアの手を取るとは思わないものの、どこかでは判らないとも思っていた。
「力」。神官の。魔術師の。魔物の。――神の。
どれもこれも「自分には判らない、何だか不思議なもの」だ。だがひと括りにして終わらせるには、いまや彼はさまざまな体験をしすぎていた。
学問的な意味で判るとは冗談にも言えないが、非常に大雑把な判断として、神官の力は弱い。他人に体力を与えると自分のそれが失われるといった具合にだ。魔術師も魔力を消耗すると言い、魔力が尽きれば体力が尽きたのと同じことになると聞くが、それとは違う話だ。
魔術師にはたいてい、媒介がある。単純な話をするならば、火術なら火の力、水術なら水の力を利用するというようなことだ。彼らはそれらの体系立て、五大魔印などと言って組み合わせ、術を編む。
対して神官にあるのは己だけだ。神の力そのものは、滅多なことでは彼らに宿らない。おそらくはほとんどの神官より神に近く接したことのあるタイオスにだって、直接その力が宿ることなどないのだ。
己の祈りと命から術を編み出す。それが神術であるなら、急に力が消えてしまったりするようなことはないのでは。戦士は戦士なりにそう考えた。ヴィロン当人の言う「一時的」は、間違っていないのかもしれない。
(ライサイの力については、それ以上にさっぱりだが)
(こりゃ仕方ない。イズランやサングだって判らんと言うものが俺に判るはずがない)
(ただ、どっちかってえと魔術師に近いような)
それはイズランだかサングだかも言っていたことだったな、とタイオスは思い出した。
(もしライサイがヴィロンに力を与えるとしたら、神官っぽいもんにはならないような気がする)
(実際、できるのかどうかも怪しいだろう)
タイオスは推測というよりは想像をした。
(奴らには、偽の魔術を与える力もあるが)
(魔術師)
(……イズランは、何をやってる?)
あの騒動にイズランがちょっかいを出してこなかったのは妙だな、とタイオスはそこで初めて気づいた。
(お国で何かあって帰った、なんてことならいいんだが)
(いや、よくないか)
(ううむ)
魔術師の手はほしいがイズランに借りは作りたくない。複雑なところだった。
(もっとも、あの野郎でも人外よりはまし)
(そう考えることにしよう)
どうせ、放っておいてもイズランはくちばしを突っ込んでくるはずだ。そして、タイオスが何を言ったところで、自分のやりたいようにやる。
それを思えば、どうしているかと考えたり、助力をと思うのも意味がない。魔術師は好きなときにやってきて好きなことをするだろうからだ。
タイオスは結論を出すと、イズランのことを考えるのをやめた。
深夜の礼拝堂には、もう人気がない。
あの騒ぎも、嘆きの声も、嘘のようだ。
神官たちは弔いを行ったが、像となった者たちに生死の判断は当初、つけがたかった。だが時間が経つ内に残酷な結果が出た。彼らは、まるで本当の氷のように溶けていってしまったからだ。
何とも悲痛な声が、そのとき礼拝堂のなかには響き渡った。
たとえ術をかけられた時点で死んでしまっていたとしても。そのときよりも、強く感じる胸の痛み。
何も、できないと。
死者は、モウル、ヨアティア、バーシ、アトラフも含めて計八名。だが、彼ら以外の遺体がなくなってしまったことは、神官を困惑もさせた。
神官が遺体のない死を扱うことは間々ある。
たとえば夫が遠くで死んだと聞かされた妻。その悲しい知らせとともにやってきた遺品だけを抱いて葬儀を行う。たとえば子供が河に落ちたと知らされた親。生きていると信じようとするものの、やがて絶望し、正しき祈りを欲するようになる。
そうしたとき、肉体は重要ではない。神官たちはただ祈る。
だが――それとこれは、少しばかり話が違った。
行方不明だの遺体の損壊が酷いだのというような事情で「ない」のとは違う。
生きた人間が、氷像となった。そして溶けて、なくなってしまった。それらを目にしていた。
それが全く見知らぬ相手であっても衝撃的なことだ。
ましてや、ともに修行をした仲間。
面識や交流の有無で祈りの軽重を変えることはしない彼らは、大声を上げたりこそしなかったものの、その哀しみと怒りは計り知れなかった。
目を覚ましたエルレールを筆頭に、彼らは弔いの儀式を進めたが、本来冷静であるべき神官の祈りには、時折嗚咽も混ざった。
(――師匠)
繰り返しタイオスは思っていた。
あまりに突然だった。十数年ぶりの再会も、別れも。
まるで、悪い夢のよう。
だが現実だ。紛れもなく。
ラカドニー・モウルはひとりの弟子の手伝いとひとりの弟子の仇討ちにやってきて、そして死んだ。
生じるのは後悔の念だ。どこかの時点で、彼はモウルをとめることができたのではないかと。
ティエの死の報せに我を忘れ、ソディエの集まる場所に乗り込もうなどとしなければ。
しかしもしもそうであれば犠牲者が増えたことは容易に想像できる。
ではどうすべきだったのか。割って入ってでも、モウルの仇討ちをとめればよかったのか。
判らない。モウルは決意――覚悟して臨んでいた。それはタイオスにもよく判った。どうしようもなかったようにも思う。だが、こうならずに済ませる方法はあったのではないかと。
(確かなのは)
(俺が奴らをぶっ殺さなけりゃならん理由が増えたってことだけ)
もっとも、理由の数が増えたところで、力になる訳でもない。
(……確かなのは)
続けて、彼は思った。
(アースダルの兄貴もラカドニー師匠も、もういないってことだ)
(死んだかもしれないが元気でやってるかもしれない……って空想は、もうできない)
(――ティエも)
離れても、きっとどこかで笑っている。
それは不確かなただの想像だったが、可能性のあることだった。
いまや、ない。
知った誰かが死ぬなど、戦士には珍しいことではない。全く何も感じないとは言わないが、「ああ、仕方ないな」と思って生きてきた。
だが、続けて突きつけられた親しい者たちの死は、さすがの熟練戦士をも落胆させていた。
ティエの死の知らせはやり場のない哀しみが怒りと憤りとなって彼を動かしたが、モウルの死は酷く彼を落ち込ませた。
怒りは消えないが、まるで熱しすぎて中身が蒸発してしまった鍋のようだった。
(死)
(俺も、いつかは死ぬだろう)
(明日とは思わん。だが、いつかは)
当たり前のことだ。人間には寿命がある。そうでなくともこの職業にある以上、いつも死を意識してきた。
ただこんな日はやはり、いつも以上にそれが身近に感じられた。
(ヨアティアも、死んだな)
彼はふと、もうひとりの死者を思った。
(あっけなかったな)
それが最初に思い浮かぶことだった。
(思い返してみりゃ……あいつが最初に俺を〈白鷲〉と呼んだんだったな)
(あのときは誤解だ、間違いだと思ったが、結果的には合ってた訳だ)
何となくタイオスは、ヨアティアとの邂逅を思い出した。
コミンで。カル・ディアで。シリンドルで。そして再び、カル・ディアで。
思えば奇妙な関係だった。初めは追われ、あとには追った。偉そうなふりだけが得意の馬鹿だということはいずれ知れたが、腹が立ったりどうしようもなく呆れたりはしても、憎むの恨むのという気持ちはあまり湧かなかったように思う。
(馬鹿を真剣に憎んでも馬鹿を見ると言うか)
(俺にしてみりゃ、そんなとこだったな)
ルー=フィンなどはまた違う感情を抱くのだろうが、タイオスにとってはそういったところだった。
(何でもあいつは、最後の機会を棒に振ったらしいじゃないか)
エルレールの口を借りて、神はヨアティアに最後通告をした。話を聞いたタイオスは――その力を胡乱に思うこともあるタイオスでさえ――そう思った。
(神様はせっかく、反省するなら許してやると言った訳だろう)
(何でまたそんな節介を、とも思うが)
(……もしかしたら)
もしかしたら〈峠〉の神はシリンドレンの血筋を絶やしたくなかったのではないか。そんな思いがタイオスの内に湧いた。
(あんとき)
(あのタイミングでルー=フィンの記憶が戻った、ガキがやってきたのは)
(俺とルー=フィンを争わせないためだけじゃない、ヨアティアを殺させないように)
もしやと〈白鷲〉は思った。
(あのときまでルー=フィンを放置してたのは)
(俺からヨアティアを守らせるため、だったんじゃ)
それはなかなか、ぞっとする考えだった。
(だがそれは、いくら何でも趣味が悪いと言うか)
(ルー=フィンに、恋人の仇を守らせたってことになる)
銀髪の青年はそこを気に病んではいないようだった。全て「タイオスの行動が遅かった」ということで片づけたようだ。それは一向にかまわないどころか結構だと思っている中年戦士だが、自ら思いついたとは言え、この考えはすっきりしなかった。
(考え、すぎかね)
彼は自分に疑問を呈した。神ならぬ身に、答えは出なかった。
(何にせよ、あの馬鹿は神の恩情に気づかず、足蹴にした)
(それとも……意地もあったのかね。いまさら、というような)
少しだけ、彼はそうも思ったが、すぐに否定した。
(いや、馬鹿なだけだな)
ただの大馬鹿、と繰り返し確定すると、彼は一度だけ、小さく、追悼の仕草をした。
(馬鹿でも、死者だ)
部屋に戻った神官たちの祈りの声が、かすかに礼拝堂まで聞こえていた。