11 僕と一緒に
「そうではありません」
ラシャは否定した。
「あなたはリダール様を支配しない。ただ、彼の身体に棲むのです。確かに……それは真っ当な状態とは言えず、もしも神殿に相談をすれば、正すべき事象となります。しかし」
「僕が相談をすることなんてないし、ラシャ殿は、君と僕を救うにはそれがいちばんだって納得してくれて」
「意味が」
フェルナーは口の端を上げた。
「通らない」
「どんなふうに?」
リダールは問う。
「僕はただ、お前のなかにいるのか? 何の言葉も発せず、何の意志も主張できず? それでは僕の牢が墨色の世界からお前のなかに変わるだけじゃないか」
「狭間の世界から逃れられる、それは充分な結果とは言えませんか?」
ラシャは静かに尋ねた。
「確かに……どちらかだと言うなら、まだましのようだ。だが」
「もっとも、それではリダール様のご希望からいささか外れます。彼はあなたにも生きてほしいのですから」
「それじゃ、どういう」
「僕は、僕でありながら君になる。君は、君でありながら僕になる」
リダールは手を差し伸べた。
「言ったろう? ふたりで、一緒に使うんだ。この身体を」
「いままでと何が違う?」
「あなたたちどちらも、狭間に閉じ込められることがなくなります」
「それだけか?」
フェルナーは顔をしかめたが、そこには期待のようなものが混ざりはじめていた。
「それは、でも、結局のところ」
言いながらフェルナーは、差し出されたリダールの指先を見つめた。
「お前の半分を奪うことだ。僕は」
少し、台詞が途切れた。
「……僕は、お前の身体を奪って自由にやろうとした。そのことを詫びるつもりはないし、後悔もしていない。同じ機会があれば、僕は同じようにするだろう」
「その必要はなくなるんだ」
リダールは説いた。
「一緒に……」
「『一緒に』?」
他人の身体と声で、フェルナーは疑問を表した。
「状況に応じて、僕が喋ったりお前が喋ったりするのか。滑稽だ。それとも僕やお前という形は意味がなくなるのか。僕がお前で、お前が僕で……」
フェルナーは首を振る。
「いいや、リダール。そんなおかしな話はないね」
「そう、かな……」
不安そうに、リダール。
「僕は、とてもよい話だと思ったんだけれど」
「お前が僕に乗っ取られることに変わりはないのにか」
死んだ少年は指摘する。
「乗っ取られるのではなく、軒先を貸してやるとでもいう心持ちでいるのか? 乞食に同情して雨宿りを許したら家ごと奪われてしまったという寓話を知らないのか?」
フェルナーは肩をすくめた。
「〈一銀貨を貸せばいずれ一金貨がなくなる〉とも言う」
知ったように彼が言えば、リダールは少し笑った。
「何が、可笑しい」
「ごめん、だって」
リダールは笑ったまま続けた。
「君は僕に、君に気をつけろと忠告してくれている」
「あ……」
はっとしたようにフェルナーは口を開けた。
「僕、僕は」
死んだ少年は口ごもった。
「僕はずっと、思ってた。お前はぼんやりで、引っ込み思案だから、僕が引っ張ってやらなきゃならないって。あのとき一緒に誕辰を祝おうと思ったのも、父上と喧嘩したからということもあるんだけど、お前がひとりで寂しがってるんじゃないかと思って」
ぽつぽつと、彼は語った。
「『墨色の王国』でも、お前のことをよく考えた。あまり覚えていないけど、そんな気がする。どうしてるだろうかって、父上や母上のことより」
考えた、とフェルナーは呟いた。リダールはじっと聴いた。
「色のある世界に帰ってきて……お前の身体を乗っ取っているんだと聞かされたときは何を馬鹿なと思った。どうやら本当らしいと判ったときは、思った。『これじゃ駄目だ』と」
「あ……」
と、今度はリダールが小さく声を出した。
「これじゃ駄目だ」。フェルナーを救いたくて手段を探した彼が、「悪霊を祓う」といった類の書物を読んでしたためた呟きと、それは同じだった。
「最初は、拒否したんだ。お前の身体を使うこと。でもいつの間にか、それしかないと思うようになった。次第にあの不気味な世界のことが思い出されて、あの場所に戻らずに済むにはそれしかないと」
「言い聞かされたのでしょう」
ラシャがそっと口を挟んだ。フェルナーはうつむいた。
「それだけでも、ない」
彼は言った。
「僕の事故を企んだのが、キルヴン伯爵の親友だったと聞いて」
「それは、間違いだ」
きっぱりとリダールは告げた。
「サナースはそんな人じゃないよ。僕の全てに賭けて誓える」
「僕には、判らない。だが、少なくともそう聞かされただけだ。証拠なんてないし、僕にだって、頭はある」
フェルナーは顔を上げた。
「シリンドル。連中はサナース・ジュトンの生きていた頃から、あの国のことを気にかけていた。手を出したのは奴らだと、見るべきだ」
「じゃあ、フェルナー」
「どちらにせよ、証拠はない。でも奴らが僕を利用していることだけは、確かだと思う」
フェルナーはゆっくりと、手を卓上に置いた。
「『墨色の王国』は気味が悪いが」
彼は呟く。
「こうした薄闇は、いいな。意地を張らずに、本当のことが言える気がする」
「フェルナー……」
「――リダール」
友人たちは呼び合った。
「僕は、生きたかった。いまでもだ。そのためにお前を使うことも躊躇わなかった。でも何も、積極的にお前の生を奪いたいと思った訳じゃない」
「奪うことにはならないよ。僕は君を受け入れる」
リダールは更に手を伸ばした。
「君がそうしてハルディール陛下の身体で、彼らに利用されながら生きていくなんて、そんなのは誰も幸せにならない」
「幸せ」
フェルナーは手をぴくりと動かした。
「僕にそんなものが、訪れるだろうか」
「――きっと」
リダールは、もう片方の手に握っていたものを差し出していた手のひらの上に載せた。
「それは」
フェルナーははっとした。
「君が、選んで」
少年は言った。
「陛下にとって大事な、この護符。その身体を陛下にお返しする気持ちがあるなら……僕と一緒に生きる決断ができたら、これを」
とリダールは、もうひとつの〈白鷲〉の護符を見つめた。王家に保管されていた、対のそれ。
「手に取って」
静寂が降りた。
リダールは黙り、フェルナーも何も言わず、ラシャもじっと立っていた。
月のない夜空から星々が瞬きかける。
輝くは赤き災い星か、はたまた全てを切り開く光星か。
フェルナーの手がのろのろと、大理石製の護符に向かって伸びた。リダールは息を殺して見守った。手のひらが汗をかく。
ラシャから大まかに話を聞いて、彼はそれを望んだものの、いったいどうなるのか見当がついてはいなかった。だがそれでも、現状でいちばんの策と思えた。
タイオスが――〈白鷲〉がいればどう言っただろうかと、リダールはふと考えた。
もしかしたら彼は、リダールをとめたのではないか。
そんなふうに思ったとき、フェルナーの手がリダールのそれを握った。或いは〈白鷲〉の護符を。
ぎゅっとリダールは目を閉じた。誰かが、彼のいる、とても狭い部屋に入ってきたように感じられた。
「誰か」ではない。それは確かに、フェルナー・ロスムだった。
薄闇のなかであらわにした、彼の本音。だがそれは、ほんの一端に過ぎなかった。
ちょっと短気なところもある、彼の友人。六年間、成長をとめた、子供のままの。誰より大事な友だちだと思うからこそ、拒絶を裏切りと感じ、頑なになったフェルナーの。
その気持ちが一瞬で、みんな理解できたように思った。
「フェルナー……」
「ハルディール様」
ラシャは少年王に呼びかけた。
「僕は……」
「お気づきですか。お下がりを」
「ラシャ殿? どうしてここに?」
「お話はあとで。いまはお下がり下さい。この、陣から」
神官は丁重に繰り返した。
「繋がりをいまだその手に持つ、さまよえる魂。それと同じ陣のなかにいることは危険です」
ラシャはハルディールを立たせ、薄闇に目立たぬ聖陣の外へと押し出した。
「――これで大丈夫」
ほっとしたように神官は言う。
「さて、リダール様」
「ラシャ神官、どうすれば……」
リダールは尋ねた。
陣の上であればリダールが再び弾き出されることはないと神官は言っていた。確かにその通りだった。
だがいまやここから出ていいものかと、彼はそうしたことを尋ねようとして――。
「ラシャ殿!」
本物のハルディールの声を聞いた。
「何をなさるのか!」
星灯りに、短刃が閃いた。
リダール・キルヴンが目を見開く間に、その刃は深々と、彼の身体に刺さった。
「これで」
フィディアル神官は短刀の柄を握ったままで言った。
「悪霊は逃げ場なく、消え去るでしょう」




