10 一緒に、ふたりで
なかなか戻ってこないアンエスカに痺れを切らしたフェルナーは、扉を開かんとするために立ち上がった。
ちょうどそのとき、まるでそれを待っていたかのように、戸の叩かれる音がした。
「入れ」
ほとんど反射的にフェルナーは言ったが、アンエスカではないことには推測がついた。いまやあの騎士団長は、偽の王に敬意を払うふりをする必要がないからだ。
「フェルナー殿、ですね?」
「お前は……」
少年ははっとして身を引いた。
「く、くるな!」
「お待ちを。先ほどのように、無下に払おうとは考えていません」
いつもながらの丁寧な口調で、シンリーン・ラシャ神官は言った。フェルナーは追いつめられた獣さながらの表情で、ラシャを睨んだ。
「リダール殿からあなたを払い、ハルディール陛下からあなたを払う。それを繰り返していても意味はない。真なる解決方法を見つけなければ」
「その『真なる解決方法』とやらは、どうせ、僕を殺すことなんだろう」
フェルナーの表情は変わらなかった。
「近寄るなよ、神官。何かおかしな真似をすれば、本当に、ハルディール王の身体を傷つけてやるぞ。脅しじゃないぞ」
と少年は言ったが、刃物はもとより、武器になりそうなものはアンエスカがみな片づけてしまっている。彼の言葉は、ただの脅しにしかなり得なかった。
「落ち着いて」
だがラシャは慌てた。或いは、そのふりをした。
「少しお話をしたいだけです。あなたのためにも、リダール様のためにもなることを」
「騙されないぞ」
「――救われたくは、ないのですか?」
静かに、神官は問うた。フェルナーは何か返そうとして、口をつぐんだ。
「……んだ」
「はい?」
「どういう意味で、言ってるんだ」
彼の表情はまだ敵対的なものだったが、生じた興味――望みは隠せなかった。
「僕を冥界送り、それとも獄界送りにする以外に、方法があると言うのか」
「あります」
神官は答えた。フェルナーは、黙った。
「なるべく、あなた自身の意思で足を運んでもらいたいと思っています」
ラシャは祈りの仕草をし、フェルナーはぴくりとした。
「お判りいただけますね? 力ずく、などという真似はしたくないのです」
穏やかに、あくまでも優しく、ラシャは言った。
「……お話を聞いていただけるのでしたら、隣室に」
彼は片方の壁を指した。
「お待ちしています」
丁寧に頭を下げるとラシャは退き、フェルナーはしばらくその場に立ちすくんでいた。
それから――およそ、十五分後。
ハルディール王の姿をしたフェルナー・ロスムは、ゆっくりと廊下に姿を現し、躊躇いがちに指定された隣室の扉の前に立った。
そしてそのまま、三十秒近く迷っていただろうか。
きつく唇を結んで、彼は勢いよく扉を開けた。
「ラシャ!」
部屋に入ったフェルナーは一瞬、ぽかんとした。
燭台に灯が入っている廊下からやってくると、そこは真っ暗闇に見えた。
「何だ? 確か……」
確かこちらだったはずだが、などと呟きかけたフェルナーは、誰かが彼の背後からやってきて、扉を閉めてしまったことを知る。
「何」
「お話を」
「ラシャか」
それは「隣で待っている」と言ったはずの神官だった。
「どうしてこんな暗い部屋だ。それに、お前はいままで何を」
「『お待ちしている』のは、私ではありません」
静かな声で神官は言った。
「どうぞ、そちらに」
窓から射し込む星灯りが、かすかに人影を映していた。
「……お前は」
「フェルナー、どうか」
リダールはゆっくりと彼を呼んだ。
「ここに座って。僕と」
話をしようとフェルナーの友人は言った。
断ると、フェルナーは即答しなかった。
彼はしばらくその場に佇み、ラシャにそっと背中を押されて、一歩、二歩と進んだ。
それはずいぶん遅々とした歩みに見えた。
「話を……」
椅子の背に手をかけ、しかし腰を下ろすことはせず、フェルナーは闇に慣れてきた目でリダールを見た。
「何の話を、しようと言うんだ」
「僕は……」
考えながらリダールは声を出した。
「僕は、君を助けるために、僕はたくさん本を読んだり、神官と話したりした。でも生憎と、僕の生半可な勉強くらいじゃ、何も掴めなかったんだ」
「ふん」
フェルナーは鼻を鳴らした。
「僕を助けるためだって? やっぱりお前は、いまでもひとりで友人ごっこを続けているのか」
「……友だちって、何も、約束に基づいて友だちになったり、続けたり、やめたりするものじゃないだろ」
「お前の方では、僕を友だちと思っていますという訳か。何だか気持ちが悪いな」
「どうしてそんなに、攻撃的なの?」
リダールはしっかりと、ハルディールのなかにいるフェルナーと目を合わせた。
「僕と向かい合って話をするのが、そんなに嫌なの?」
生きている少年は続けた。
「そんなに、怖いの?」
「何だと」
死んだ少年はかっとした。
「挑発か。大した真似をするようになったじゃないか、リダール」
「そんなつもり、ないよ。ただ、訊いただけ」
首を振ってリダールは返す。
「怖いのは、仕方ないもの」
ぽそりと彼は言った。
「知らないものに相向かうときは、とっても好奇心がうずくこともあるけど、とても怖く感じる場合もあるよね」
「知ったようなことを」
「――知らないよ」
リダールは言う。
「知らないから、知りたい。君が怖れているなら、その怖れについて。そうじゃないなら、その敵意について。死んだからとか、生きているからとか、そういうことなの? 僕が裏切ったと言ったよね、そのせいなの? それとも」
「黙れ」
フェルナーは椅子の背を痛むほど強く握り、それから息を吐いた。
「話して、どうするんだ」
ぎ、と椅子の引かれる音がした。
「教えてくれるのか」
ぼそぼそと、フェルナーは言う。
「僕を助けて……くれるとでも」
「そうしたい」
リダールはすぐさま答えた。
「本当に心からそうしたいんだ、フェルナー。だから」
そのためにとリダールが言ったのと、フェルナーが腰かけたのはほぼ同時だった。
少年たちは向かい合い、少し居心地悪そうに身体を動かした。リダールはかすかに笑みを浮かべ、フェルナーもあからさまに敵意を示すことをやめていた。
「不思議な感じがする」
それからぽつりと、リダールは言った。
「あのとき……あの墨色の王国で、僕はタイオスと一緒に、確かに君に会ったと思った。六年前のままの、それから六年後……もしも君が生きていたならなっていただろう姿の」
「ああ」
短く、フェルナーは相槌だけを打った。
「そしていま、僕の目の前にいるのはハルディール陛下の姿をした、それでもやっぱり、君なんだ」
不思議だとリダールはまた言った。
「間違いなく君だと感じる。ずっと会いたかった、僕の友だち」
「また『友だち』か」
フェルナーは口の端を上げた。その様子は皮肉めいていたが、先のような刺々しさはなかった。
「それがどうしたんだ、リダール。僕はお前の悔恨の言葉を聞こうと足を運んだんじゃないぞ」
「うん、ごめん」
リダールは詫びた。
「それで、それでね。フェルナー。僕は考えた。君も僕も助かって、ほかの誰も巻き込まない方法」
「……聞かせろ」
「うん、あのね」
少し言葉を探す風情で、リダールは間を置いた。
「ラシャ神官も手伝ってくれた。僕が君を追い払いたいんじゃないってこと、判ってもらった」
「どうだか」
信じ難いと言うようにフェルナーは呟いたが、何が何でも認めないなどとは言わなかった。
「本当だよ。僕は」
「お前じゃない」
彼は遮った。
「神官が、祓い損なった悪霊を見逃すなんてこと、するのかって」
「君はそんなものじゃないだろう」
首を振って、リダール。
「君自身はもちろん、ラシャ殿だってご存知だよ。さっきは、その……シィナが取り乱していたし、僕を取り戻すことが先決だとお思いになったから」
「ふん」
リダールの言葉からは、神官が彼のことを「リダールを乗っ取った悪霊」以外に考えているという根拠は特に聞き取れなかった。フェルナーは少し顔をしかめたが、そこは追及しないで続きを促した。
「それで? お前、それとも神官は、僕をどうすると言うんだ」
「僕……」
リダールは少しうつむき、フェルナーは少し身を乗り出した。リダールがこんなふうに自信なさそうにしているとき、彼の声はいつもに増して小さくなるからだ。
「君、君は僕の身体を使えばいいんだ」
「何だって?」
フェルナーは聞き返したのは、当然と言えた。それはかつてリダール自身が、先ほどは神官が否定したことだったからだ。
「あ、違うんだ、そうじゃなくて」
これまでのこととは違う、とリダールは手を振った。
「君が、その、僕を『乗っ取る』んじゃなくて……僕と君と、一緒に、ふたりで、この身体を使ったらいいんじゃないかって」
「……何だと?」
またしてもフェルナーは聞き返したが、今度は意味が判らなかったためだった。
「だから……」
「――あなたが入り、リダール様が追い出されるというのではない。あなたとリダール様と、ひとつの身体にふたつの魂、という形はいかがですかと申し上げています」
ラシャの声が薄闇のなかから聞こえた。神官の同席を忘れていたフェルナーはびくっとする。
「馬鹿な。それじゃまるで幽霊じゃないか」
死んだ少年は嘲笑うように言った。
「神官が進んでそんな状態を作ろうとなんて、するものか」