04 危惧
神殿長の部屋に閉じ込められたクインダンとエルレールは、互いに欠けていた情報を補い合い、現状の把握に努めた。結論としては、まず何よりもヨアティア・シリンドレンが神殿長として既成事実を作る前にそれを阻止するということだった。
「扉には外から閂がかけられているようですが、窓から出ることはできる」
クインダンは、この三階からどうにかして地上に降りるか、或いは窓の開いている部屋を探して入り込むかして、この部屋からエルレールを出すことを考えた。
「危険だわ」
エルレールは渋面を作って首を振った。
それはクインダンが足を滑らせて落ちることだけを危惧したものではない。あの灰色ローブやアトラフ、ヨアティアらにクインダンひとりで立ち向かうことが危険だと言ったのだ。
「お前にはそれだけの能力があるわ。でも」
危険よと彼女は繰り返した。
たとえばこの部屋を見張るのが僧兵であれば、向こうは騎士に対して躊躇するだろうし、そうでなかったとしてもクインダンの方が能力的に上だろう。仮にアトラフであったとしても、魔術もどきさえ封じれば彼の敵ではない。
だがソディエの能力は未知だ。
そのことはクインダンも理解していた。
「幽霊屋敷」の近くでソディエと戦ったとき。魔物が指を差しただけで地面に黒い円ができた。あとで調べてみれば、黒くなった地面は、凍るように冷たくなっていた。
あれがクインダンに向けられていたら、彼はおそらく生きていない。剣を振るうまでもなく、氷の彫像と化して。
(エルレール様をそのような目には)
(断じて)
「……お前に」
そっとエルレールは囁いた。
「万一のことがあったら、私はどうすればいいの」
「――貴女のために命を賭けることは、騎士の務めです」
クインダンも、同じような声量で返した。
「そんなことを言っているんじゃないわ」
エルレールは首を振った。
「〈シリンディンの騎士〉に万一のことがあっては、それは確かに大変なことだわ。けれど騎士たちは国や王、人々を守るために戦うことを義務とし、使命としている。……でも」
彼女はうつむいた。
「私は、騎士としてではない、クインダン……お前のことを言っているのよ」
「エルレール、様……」
青年は、胸の辺りがきゅっと熱くなるのを感じた。
「私は……」
抱き締めたい。彼は強く思った。だが、自らに禁じた。
一度だけ、エルレールを腕に抱いたことがあった。それは、あの争乱の間。あのときもやはりヨアティアから、クインダンはエルレールを救ったのだ。あのとき、エルレールは助けを求めてクインダンの胸に飛び込み、彼は彼女を支えた。
ほんのわずかな、抱擁だった。
(あの感触を)
(覚えてしまうべきでは、ない)
いまのままで、この距離のままでこの女性を愛すると、彼はそう決めたのだ。
クインダンはすっとひざまずいた。
「私はシリンドルの、国王陛下の、貴女の忠実なる騎士です」
「――有難う」
と、彼女がどんな気持ちで言ったものか、クインダンには判らなかった。
落胆か、安堵か。
その両方であったかもしれない。
「確かに、いつまでもこうしている訳にいかない」
エルレールはクインダンに立つよう促しながら言った。その声には、もう心弱い調子はなかった。
「けれど、彼らだっていつまでも私を閉じ込めておいても仕方がないはず。ヨアティアは、私を巫女の座から引きずり下ろして妻にするなんて、寝呆けたことを言っていたけれど」
「何ですって」
クインダンは険しい顔を見せた。
「あんな男にまた触られるくらいなら、舌を噛んで死ぬわ」
「わたくしが、お守りします」
彼は両の拳を握った。
「必ず」
真摯に、彼は誓った。エルレールは彼を信頼する笑みを見せた。
「それには、何よりもまず、あの男の神殿長就任を阻止しなければならないわね」
彼らの話題はそこに戻った。
「フィレリアのことが心配よ」
それからエルレールは息を吐いた。
「子を宿しているかもしれないのに」
「……えっ」
クインダンは目をしばたたいた。エルレールははっとして手を振った。
「違うわ、ハルディールではないわよ」
「は、いや、その」
こほん、と騎士は咳払いをした。
「では、赤子とは」
「――ヨアティアは、エククシアの子だというようなことを口走っていたわ」
「な」
またしても彼は目を見開く。
「〈青竜の騎士〉の、恋人……なのですか、あの少女が。そういった雰囲気は、見受けられなかったのですが」
「判らないわ。何かの間違いかもしれないけれど」
ヨアティアの言うことだし、と彼女はつけ加えた。
「彼女はハルディールの子だと言ったわ。私は驚いてハルディールに問いただしたけれど、もちろん、あの子ではないわ」
ハルディールの姉は、弟を信頼しているというようなことや、時間的に無理なはずだというような説明は特にしなかった。する必要がなかった。
「エククシアの子供をハルディール様の子供と言い立てているのですか? それは……」
「待って、クインダン。フィレリアはそう信じ込んでいるのかもしれないわ。ルー=フィンのように」
「失敬、では彼女については判断を保留します」
騎士は反論しなかったが、全面的に同意もしなかった。
「ですが腹に子がいるということ自体は、どうなのですか」
真偽はどうなのかとクインダンは疑問を呈した。
「まだ見た目には判らないのよ」
エルレールは顔をしかめた。
「それだって、思い込まされているのかもしれない。でも本当に妊娠しているなら、大事な身体だわ。……誰の子でも」
魔物。半魔だと言う、金目銀目の男。
その血を引く子であったとしても、とエルレールは言った。
ふたりの間に、沈黙が降りた。
十五になるならずの少女が、子を宿している。それも、魔物の。
その考えは、彼らに危惧だけを呼び起こした。
それはフィレリアと呼ばれる娘へのものであり、また同時に、「人間」という種族へのぼんやりとした危惧でもあった。
王家の娘や国の騎士であろうとも、それは一個人が抱くにはあまりに大きすぎ、曖昧な形をしている。
ただ漠然とした「不安」とでも言うしかなかった。
「――とにかく」
エルレールはそっと声を出した。
「ここから出なくてはね」
「先ほどから、部屋の外が騒がしいようなのですが」
騎士は扉の方を見た。
「もしやヨアティアが、神官たちを集めてでもいるのではないかと……」
「有り得るわ」
エルレールは唇を結んだ。
「ボウリスから座を譲り受けたとでも言うのかしら。それとも血筋を主張して、彼を追い落とすつもり」
「神官たちが容易に認めるとも思えませんが、ヨアフォード体制の復活を望む者も皆無ではない。意見が分かれれば、シリンドレンの血筋というのは強い切り札となりましょう」
「神殿長になるにはハルディールの承認が必要だけれど、『フェルナー』が認めてしまうかもしれないわ」
「それこそが、彼らの計画と思われます」
「――そうだ」
エルレールははっと思いついた。そしてそのまま、扉に向かう。
「どうなさるのです」
「ヨアティアを騙すのよ。アトラフでもいい。言うことを聞くからクインダンの命を助けてくれと言うの」
「何ですって?」
「方便よ。お前がそのようなことを肯んじるとは思わないもの。でも彼は信じるかもしれないわ。とにかく、ここから出て」
「そのようなことをなさるのでしたら、やはり私が窓から」
「ローブの魔物も危険でしょう。でもそれだけじゃない。ヨアティアに賛同した僧兵が立ち向かったらどうするの? お前は、彼らを斬るの?」
「それは……」
「もとより、剣もないじゃないの。おとなしくヨアティアに味方するふりをして、神官たちの前で彼を真っ向から否定してやるのよ」
「人質のように扱われたら、どうするのです」
今度はクインダンが尋ねた。
「巫女姫を崇拝する者も多く存在します。反対の声を潰すことになりかねない」
「そんな真似をするのなら願ったりじゃないの。その場では声を抑えたって、誰もヨアティアについていこうなんて思わなくなる」
「ですが」
言う間にエルレールは扉の取っ手を握った。
「誰か――」
彼女は大きな声を出そうとしたが、そこでぴたりと言葉を止めた。
「あら?」
「な」
扉はそのとき、開いた。
「失礼、殿下」
クインダンは彼女の前に出て、扉の付近を確認した。
「誰も、いない」
それから彼は、扉を見た。
「閂が外されている。いったい……」
先ほどまでは確かに掛けられていた。
「どうでもいいわ」
巫女姫は言い放った。
「誰もいないと言ったわね? それならやはり、礼拝堂にでも集まっているのかもしれない」
神殿長が神官たちに話をするときは、信者たちに対するのと同じように、礼拝堂を使っていた。
「急ぎましょう、クインダン」
「は」
青年騎士は従った。
左腰に剣がないことが不安だった。
だがそれでも、守るのだ。
彼は、彼の姫を。