03 気の毒なことだ
〈シリンディンの騎士〉には王家の館のすぐ近くにある宿舎に部屋が与えられたが、そこに住むことは義務ではなかった。
アンエスカとレヴシーは宿舎を利用したが、クインダンは騎士になる前に世話になった食事処の二階に変わらず部屋を借り続けている。
ルー=フィンの以前の住処は神殿であったが、ヨアフォード体制の残り香もなくなり、ボウリスの色の濃くなった神殿にいつまでもいることはできなかった。もとより、居座るつもりもなかった。
彼は死んだ母と馴染みであったという酒場の女主人の口利きで、町の中心から外れたところにある小さな家を住処とした。家と言っても物置小屋に毛が生えたような小さなもので、とうの昔に死んだ金持ちが子供部屋代わりに建てたものということだった。
家に戻ると、ほっとする。
誰にも見られていないという、安堵。
「戻ったか」
「ああ」
と言ってもそのとき、彼の家にはもうひとり、人物がいた。
「毎日国中を歩き回って、忙しいことだな。騎士などと言うが、町憲兵か城壁の警護兵みたいだ」
「シリンドルに町憲兵隊はない」
短く、ルー=フィンは言った。
「そうらしいな。奇妙な国だ。いや、田舎町だと思えばいいのかな。もっとも、田舎町にだって町憲兵くらいいるのが普通だけれど」
「フェルナー」
銀髪の騎士は男をそう呼んだ。
「仮面を外すな」
「誰もいないじゃないか」
フェルナーと呼ばれた男は、顔をしかめた。
「ずっと身につけていたら、くっついてしまいそうだ。僕は嫌だね」
「フェルナー」
「何だ? 僕に命令するつもりなのか?」
貴族の少年らしい高慢さが男の声と表情とに上った。
「習慣にしていろと言うだけだ。外している方が違和感を覚えるくらい」
「そんなのはご免だ」
フェルナーは鼻を鳴らした。
その様子はどこか、滑稽にも見えた。
と言うのも、「フェルナー」の顔立ちに少年らしいところなどなく、三十を越しているように見えるのだ。「子供じみたところがある」などでは到底済まされない年齢に。
「は、あん」
彼はにやりとした。
「判ったぞ、ルー=フィン。お前は」
とフェルナーは自身の――それとも他人の顔に触れた、
「この顔を見ていたくないんだな」
「……何を言っているのか判らない」
銀髪の若者は渋面を作った。
「私と彼は懇意とはいかないが、顔も見たくないと言うほどではない」
「そうか」
どこか面白がるようにフェルナーは呟いた。
「そうだったな」
「何がおかしい?」
ルー=フィンは眉をひそめてフェルナーを見た。少年はくすくすと笑っていた。
「気の毒なことだ、と思ったのさ」
「お前は、気の毒に思うと、笑うのか」
ふん、とルー=フィンは鼻を鳴らした。
「だいたい、誰が気の毒だと?」
「そうだね」
フェルナーは肩をすくめた。
「ヨアティア・シリンドレン、と言うのはどう? 何の縁もない僕なんかに身体を使われ、懐かしい故郷に帰ってきたことも、いまだ知る由もないまま」
「……そのことだが」
銀髪の剣士は声をひそめた。
「本当にヨアティアは、それでいいと言ったのか。つまり……」
「そうさ。亡き父の墓参と、〈峠〉の参拝、そのときにだけ顔を……彼自身を出すことができれば、あとはこの『身体』が故郷の土を踏むことができればそれで満足だと」
くすくすと、フェルナーは笑った。
「信じられない? いくら死にそうになった彼を助ける条件だからと言って、自分のことしか考えないあのヨアティア・シリンドレンが、まるで理想的な神殿長の理想的な息子みたいなことを言うなんて?」
「お前が言うのであれば、そうなのだろう」
ルー=フィンは呟いた。
「お前と、〈青竜の騎士〉が、そう言うのであれば」
彼が言えば、少年はまた笑った。
「僕らはね、ルー=フィン。僕とヨアティアは、ということだけれど、とてもよい場所を知っているんだ。精神の鍛錬にとても適している」
「何だと?」
「だから、つまり、雑念をもたらすようなものが一切何にもない場所ってことさ」
口の片端を上げて言う様子は、とてつもない皮肉が込められているか――或いは何らかの感情を隠しているかに見えた。
「何を言っているのか判らないな」
ルー=フィンが正直に言えば、フェルナーはそうだろうなと同意した。
「お前が〈墨色の王国〉に行くことがあれば……判るだろうけれどな」
「墨色の」
それはどことなく不気味な感じのする響きだった。銀髪の騎士は顔をしかめ、厄除けの仕草をした。フェルナーはそれを見てまた笑ったが、その笑い声は可笑しそうでも馬鹿にするようでもなく、空虚に響いた。
「もういい」
少年は首を振った。
「そんな話をしたいんじゃない」
「では、何を話す」
「もうすぐ、女がくる。僕より年上の……」
言いかけてフェルナーは、少し黙った。
「『僕』はいくつだったかな? 十一? 十八? それとも、三十を越しているのか」
彼は茶化すでもなく、真剣に考えた。
「難しいところだが、最も現実に即している『十八』を取ることにしよう」
フェルナーはそう言った。他者の目を通せばおそらくは「三十過ぎ」が現実と見えるだろうが、フェルナーは最初からそこを採る気はない。彼自身はまだ十二の誕生日を迎える前のような気持ちだが、現実にはそれから六年経ったと、あくまでも彼自身、容れものではないフェルナー・ロスムのことを考えた。
「だがそうすると、女は年下だ」
「どこの娘だ」
ルー=フィンは問うた。フェルナーは肩をすくめた。
「僕の妹だ」
「妹……?」
「フェルナー」にもヨアティアにも、妹などいないはずだ。もしかしたら――ミキーナはヨアティアの腹違いの妹であったかも、しれないが。
死んだ娘のことを思い出すと、心臓の辺りがきゅっと締め付けられる感じがした。
消えない。
痛みは、まだ。
「妹だということにするんだ」
フェルナーは口の端を上げて言った。
「僕は仮面をつけていれば、似ていなくたって判らない。もとより仮面を外せば、似ているの似ていないのというような問題は吹っ飛ぶだろうが」
少年は笑い、若者は黙った。
「僕とその女は兄妹で、命を狙われて逃げてきたと。国境付近を通りかかり、お前が助けるんだ」
「何故、私がそのようなことをする?」
「困っている十代の少年少女を無視するのか? それが〈シリンディンの騎士〉か」
「私であれば、不審な者を国内には入れない」
「不審? 荷も持たず、着の身着のまま、心細そうにしている兄妹が不審か? お前なら、いや、剣の技能などろくに持たぬ者でも簡単に切り伏せてしまえそうな子供たちだ。警戒する必要があるか?」
「氏素性は問う。それから」
ルー=フィンは卓の上を見やった。
「『兄』が仮面を身につけている理由も」
「成程。もっともだ」
フェルナーは卓上に置いていた金属製の仮面を拾い上げた。
「理由は、願掛けだ」
「願掛け?」
「そう。僕は、願いが叶うまで、素顔を他人に見せないと誓った」
「どんな願いだ」
「それはこの際、どうでもいい」
少年は仮面を手にした右手を仮面ごと振った。
「とにかく、両親を殺されて逃げてきた可哀相な兄妹をお前は助けるんだ。細かいところは自分で考えるんだな」
「だが」
ルー=フィンは容易に肯んじなかった。
「何のためだ。その娘は何者だ」
「そんなことも、どうでもいいんだ」
苛ついたようにフェルナーは卓を叩いた。
「お前はライサイとエククシアの命令に従っていればいい」
「――ライサイ」
疑問の浮かんでいた緑色の瞳が、ふっと翳った。
「……判った」
こくりと若者はうなずいた。
「娘を迎えに行けばいいのか」
「僕も行こう。『妹』と一緒にいなければおかしいからな」
「もう暗い。人目にもつきにくい。だが仮面は忘れるな」
「もちろん」
フェルナーはさっと仮面をつけた。
「さあ、我が妹フィレリアを迎えに行こう」