01 見たことがない
情けない、と言ったのはルー=フィンでもなければアンエスカでもなかった。
「お前はそれでも、俺の弟子か」
「師匠……」
ヴォース・タイオスは寝台の上で、乾いた笑いを浮かべた。
「確かに、ガキに得物を奪われて刺されるなんざ、情けないとしか言えんなあ」
職業戦士にあるまじき、と彼は息を吐いた。
「反論、できん」
ゆっくりと起き上がると、彼はそっと脇腹に触れた。
「しかし、よく生きてるな、お前」
次にはモウルは呆れたように言った。
「そんなとこを刺されて、刃を動かされたんだろう? それだけで普通なら死にかねんし、かろうじて生き延びたとしても目を覚ますことなく冥界行きか、はたまた身体の内側が腐ってじきにおだぶつってのが常套路線」
「弟子が生きてることに文句があんのかい」
タイオスは唇を歪めて言ったが、師匠の言う通りだとは思った。
「神様のご加護……とでも言いたいとこだがね、今回は生憎、違いそうだ」
「ん?」
「ところで、ルー=フィンは?」
説明をするより先に、タイオスはそこを尋ねた。
「団長に報告だと」
モウルは答えた。
彼らが王家の館にやってきたのは、「幽霊屋敷」に誰もいなさそうだと判ったためだった。イズラン曰わく、確かにさっきまで――タイオスがいた頃まで――は波動が感じられたが、いつしかそれが薄れたと。
モウルが「それならちょっと魔術で見てきたらどうだ」と言えば、魔術師は「もしもいたならば気づかれる危険性がある」などと言って応じなかったらしい。何でもイズランによれば、連中は魔力の気配に敏感なのだそうだ。
「け。もっともらしいことを言いやがって」
タイオスは唇を歪めた。
「やっぱりあいつは、ふりだけか」
灰色ローブの台頭を危惧するふり、彼らに協力するふり、興味本位ではないふり。
実際のところを言うならば、イズランは本当に魔族の侵略を危険視していたし、自分、つまり魔術師の存在が気づかれれば厄介だと考えた。だがタイオスにはそのことは判らない。いや、判ったとしても、攻撃どころか斥候もできない、またはしないなら何をしにきた、と言うだろう。
「その代わり、やってきた銀髪の兄ちゃんがな」
指定された付近にタイオスもユーソアもいないことを知ったルー=フィンは、当然の結果としてモウルとイズランを見つけた。
「術師にはお前と同じかそれ以上の警戒を見せてたが、俺が名乗って例の破片を見せたらおとなしくした」
との師匠の話に、タイオスはこっそり「護符さえ持っていれば野良猫でも〈白鷲〉だと信じちまうんじゃないか」という自身のくだらない冗談を思い出した。
そうして見張りに加わったルー=フィンが、あの建物には誰もいないようだと言った、とのことだった。
「如何に人外と言えども、呼吸をし、鼓動をしている。彫像のように動かぬということもあるまい」
彼はそんなことを述べた。その様子がないから、いないと。
「正直、たまげたね。とんだ大口の騎士君がいたもんだと」
建物にぴったり張りついて気配を探ろうとでもしたならともかく、十ラクトも離れたところで何をと、モウルはまず、呆れたと告白した。
その胡乱そうな目つきに気づいたのであろう、ルー=フィン・シリンドラスは、では見てこようと言って、彼やイズランのとめる間もなく建物に近寄り、扉を開け放ってそれを証明した。
「もっとも、兄ちゃんはあのとき、最大限の警戒をしてた。自分の推測を過信せず、誤りであればすぐさま、気づかれないままで撤退できるよう」
ううん、とモウルはうなった。
「ありゃ何だ? 伝説の〈白鷲〉より存在が信じ難い、天才ってやつか?」
〈白鷲〉を前にモウルは口の端を上げ、タイオスはそうらしいと答えた。
「んじゃ、イズランは? どうしてるんだ?」
顔は見たくないのだが、何度も思うようにその能力は有用であるし、動向は掴んでおきたいということもある。
「ソディエは絶対にいた、消えた先を探すとさ」
「そうか、それも必要だな」
いなかったとは言え、確かにいたのだ。それはイズランの言葉によってではなく、ユーソアの言から明らか。
「クインダンとユーソアが一体ばかしやっつけたと言うからな。シリンドルは潜伏場所に向かないとでも気づいて、余所に行ってくれたんならいいんだが」
サングやイズランの話の通り、各所にソディエが散らばっているのであれば、「シリンドルからいなくなれば解決」とはいかない。だが〈白鷲〉としては少しばかり任が軽減される気持ちだ。
しかしながらそれは望み薄だと判っている。
幻夜に、ライサイはシリンドルで何かを企み、エククシアはタイオスに用がある。
「なあ、師匠」
傷口を警戒しながら、タイオスは起き上がった。
「まだ、協力してくれるのか?」
「世界人類のためじゃ、仕方ないだろう」
モウルはイリエードに言ったようなことをまた言った。
「そうしたら、ここを任せていいか」
「ここ? この館か?」
「ああ」
「警護をしろと? 俺ひとりで?」
「アンエスカもつける」
彼は勝手に騎士団長の行動を決めた。
「年寄り組で、仲良くやってな」
久しぶりに若手の部類に入ってやろうと、中年戦士はにやりと言った。
「強がるな」
師匠は顔をしかめる。
「どっかに行くつもりなのか。話が本当なら、お前はろくに動くこともできんはずなんだぞ」
モウルはタイオスの薄掛けをはいだ。
「ふん。痛みは」
腹部に巻かれた包帯を見ながらモウルは尋ねた。
「医者が驚いてたんだがな」
言いながらタイオスは、包帯の結び目を解きはじめた。
「お、おい」
「いや、大丈夫」
驚く老戦士を尻目に、彼は傷口を覆う包帯と布を取ってしまった。
「……おい」
モウルはそれを見て、顔をしかめる。
「何だ、それは」
「俺にも判らん」
タイオスは肩をすくめた。
そこには、彼がフェルナーに刺された傷口を中心とし、およそ十五ファイン強の黒い円が描かれていた。
それは一見したところ、内出血のようにも見えた。しかし、何も描かれていない紙に真上から一滴の墨を落としたかのようにほぼ真円を描いている様子は、あまりにきれいすぎて不自然、かつどこか不気味であった。
「出血は早い段階で止まってたようだ。痛みは、あったがね」
顔をしかめてタイオスは話した。
「何なんだ、こりゃ」
黒い円を見ながら不審そうにモウルは問う。
「傷痕、なんだろうなあ」
まるで他人事という様子でタイオスは言った。
「もちろん、俺も医者もこんな色に塗った訳じゃないぞ。医者がきて俺の傷を見たときは、もうこんなだったそうだ」
医者は首をひねりながらも、念のためと言おうか、ほかにやることがなくて消毒薬を塗り、包帯を巻いたのだと言う。治療の途中でタイオスは目覚め、医師と話をしたが、こんな傷口は見たことがないとどちらも困惑した。
「師匠」
タイオスは低く、モウルを呼んだ。
「俺より長く戦士をやってるあんたなら……」
「いいや」
みなまで聞かずに、モウルは首を振った。
「見たことも聞いたこともないね」
「だよな」
「もっとも、俺はとっくに引退してるんだ」
「そう言えば、そうだったな」
現役をやっていた長さで言えば、モウルとタイオスはもう同じくらいかもしれなかった。弟子は少し、不思議な気分になる。
「どれ」
不意に老戦士は黒い丸をするりと撫でた。
「つっ」
と痛みを声に出したのは、タイオスではなかった。
「何だ、これは」
モウルは手を引っ込め、円に触れた指を撫でた。
「死人みたいに……いいや、それどころじゃない、氷みたいに冷たいぞ」
「医者もそんなことを言ってた」
タイオスはまたしても他人事のように言った。
「確かに、ここに触ってみりゃ俺もそう感じる。だが奇妙なことに、触ってみなけりゃ、そうは感じないんだ」
彼は肩をすくめた。
「違和感はある。だが少なくとも、腹ぁ貫かれた痛みじゃない。似てるのは、そうだな。殴られてしばらくしたあと……ってとこかな」
だが、彼は間違いなく刺され、黒い円とじんわりした違和感を残して極度の痛みは引いた。
こうした「不思議なこと」は、シリンドルに関わってからこっち、彼自身でも他者でも経験のあることだ。
しかし、それとは違う。戦士はそう感じていた。
「魔術じゃ、ない」
タイオスは呟いた。
「この国のなかで何か不思議なことがありゃあ全部神様の仕業だと言いたいとこだが、それも違う。この黒い傷は……」
「禍々しい」
戦士が探した一言を引き当てたのは、魔術師であった。
「イズラン」
現れた魔術師に、タイオスは複雑な表情を見せた。