11 矢のように
「お前の血は、腐っているわ」
「何だと」
「国王殺しのヨアフォードの子というだけではない。裁きを怖れ、女を殺して逃亡を計り、ボウリス神殿長に……シリンドルに逆恨みを抱いて」
「逆恨み」
はっとヨアティアは笑った。
「父上は、確かに、しくじった。だがタイオスさえいなければ、〈峠〉の神はルー=フィンを王と認めたか……認めなかったとしても、認めたことにしてしまえた。まあ、あれが国王陛下など、俺にはあまり気に入る考えでもないが」
ヨアティアは唇を歪めた。
「父上が行おうとしたのは世直しであって、国盗りなどではない。前王の悪逆に、お前たちは目をつぶるのだろうがな」
「お父様を糾弾したのは、ヨアフォードだけだわ。彼の私怨に過ぎない」
「〈神官と若娘の議論〉だな」
言って、ヨアティアは笑った。
「まさしく」
「お前が神官ですって? 笑わせてくれること」
エルレールは言葉の通りに笑った。
「神に敬意を持たぬ神官など、聞いたことがない」
「ふん、何とでも言え」
ヨアティアは痛くもかゆくもないようだった。
「フェルナー。あれは子供だ。道楽でもあてがってやれば、王様ごっこに満足するだろう。そして実権は俺に、という訳だ」
「馬鹿らしい」
吐き捨てるようにエルレールは言った。
「お前は本気でそんなことを考えているの? フェルナーというのは『彼』のことね。そのフェルナーの背後にいる者たちが、お前の好きにさせると思うの? お前は利用されているだけなのに」
「利用。結構だ。奴らは俺を利用する。俺も奴らを利用する」
「本気で言っているの」
王姉は唇を噛んだ。
「ヨアフォードの罪は、お前の教育を怠ったことにもありそうね。もしもお前が真っ当なシリンドル人の感性を持っていて、父親を止められなかったことに心から悔恨を抱いていたならば、私たちもお前の処遇を考えたかもしれないわ」
「真っ当なシリンドル人とは、何の役にも立たない〈峠〉の神を盲目的に崇め、シリンドルとシリンドレンの血筋を有り難がる馬鹿のことか」
「何てことを」
エルレールは心底、腹を立てた。先ほどから彼女は憤然としていたが、まだ怒りに燃える余地があることに驚くくらいだった。
「お前には、神殿長どころか、この国の土を踏む資格すらない。いますぐここから、シリンドルから出てお行き。二度と関わらぬと誓うなら、追わずにいてやりましょう」
「立場が判っていないようだな、エルレール」
ヨアティアは小刀を持っていない方の手で、エルレールの首を掴んだ。
「誇りと口先ばかりの小娘め。お前のようなきれいごとばかりの連中には反吐が出る。アンエスカやルー=フィンのような騎士連中も。いや」
ふん、と彼は笑った。
「ユーソアだけは、話が解るがな」
「何ですって?」
「何も知らない巫女姫殿下。〈シリンディンの騎士〉はみなヘズオートのように崇高な心を持っていると信じているのか? 俺をここに誘い、神殿長の地位をほのめかしたのは、ユーソア・ジュゼだぞ」
「馬鹿なことを」
エルレールは一蹴した。
「ユーソアがそのようなことをするはずがないわ」
「幸いにしてと言っておこうか、俺を神殿長にしておけば都合がいいのは、ユーソアだけではない」
くく、とヨアティアは笑った。
「エククシア然り。ライサイと言うべきなのかもしれんがな」
「他国の……いいえ、人外の助力で神殿長になって、お前はシリンドルをどうしようと言うの」
「シリンドル? この国がどうなろうと知ったことではない」
ヨアティアは言い捨てた。
「ハルディールがフェルナーに取って代わられ、世継ぎに魔物の子を据えて、どこへ行こうと知ったことか。俺は奴らに都合よくしてやり、奴らからも都合よく――」
「魔物の子」
男の、それこそ都合のいいだけの夢想より、エルレールはそこにはっとした。
「まさか、フィレリアのお腹の子と言うのは」
「どうでもいい」
「言いなさい、ヨアティア・シリンドレン。彼女は本当に赤子を孕んでいるのね。そしてその父親は……魔物だと」
言いながら彼女は、ぞっとした。
「フィレリア……何て怖ろしい目に」
「怖ろしい?」
はっとヨアティアは笑う。
「何を勘違いしているのか知らないが、あの雌ガキは無理矢理、種を植え付けられた訳じゃない。喜んで、エククシアに抱かれてるのさ」
「彼女を侮辱するのは、やめなさい!」
毅然とエルレールは、友と思う少女の名誉を守ろうとした。だがヨアティアは唇を歪める。
「本当のことだ。ソディ一族どもも、お前たちと同じくらい気味が悪い。何でもかんでもライサイ様、エククシア様ときたもんだ」
いや、と男は肩をすくめた。
「欲望には忠実な分、まだお前たちよりはましか」
そう言って笑うと、ヨアティアはエルレールの首から手を放し、彼女の乳房を掴んだ。
「な、や、やめなさい!」
エルレールの全身に嫌悪が走った。怖ろしい記憶が蘇る。
「せっかくだ、あのときの続きをしようか、エルレール殿下」
小刀を彼女の首筋に這わせ、ヨアティアは衣服の端を切り裂いた。
「お前は巫女姫を退いて、俺の妻になる」
「ふ、ふざけないで」
「まだ処女か? そうだろうな。巫女と密通するだけの度胸がある男など、この国にいるはずもない」
「やめ、やめなさい!」
気丈に、エルレールは叫んだ。
「それ以上、おかしな真似をすれば……」
「すれば、どうする?」
ヨアティアはエルレールの首に口づけた。彼女はぞわりと鳥肌が立つのを感じる。
「汚らわしい!」
「男を知らぬから、そう言うのだ。女の悦びを知れば、お前から抱いてくれと言うようになる。フィレンのようにな」
「やめ……」
声が震えた。恐怖と、怒りで。
「やめて……」
「そうだ、そうやって震えていれば可愛らしいぞ。キンキン叫ぶ女など、願い下げだ」
身をすくめたエルレールをまさぐって、ヨアティアは下卑た笑いを浮かべた。
「助けて……」
かすれた声が出た。あのとき、同じようにエルレールを我が物としようとしたヨアティアをとどめた騎士ニーヴィスはもういない。
だがあのときと同じように、エルレールは叫んだ。
「助けて、クインダン!」
「エルレール様!」
まるで呼応するように、そのとき、彼女の求める騎士の声がした。エルレールは一瞬、幻聴を耳にしたかと思った。
しかし、そうではなかった。
開け放たれた扉から青年騎士は矢のように飛び込み、ヨアティアの首に腕を回すとそれを絞めるようにしながら後方へと投げ飛ばした。
「う、うげっ、げほっ」
ヨアティアは咳き込んだ。間髪を入れず、クインダン・ヘズオートは細剣を抜いて倒れた僭称者に突きつけた。
「度重なる、エルレール様への狼藉――」
青年の声は、怒りに満ちていた。
「断じて、許さぬ!」
彼の剣が振り上げられ、それがヨアティアの胸に突き刺さろうというとき、しかしその刃は〈白鷲〉の護符のように砕け散った。
「何」
クインダンは目を見開いた。
「いまのは」
ヨアティアはほうほうの体ではいずりながら上ずった声を出した。
「アトラフ、お前か」
「お前の尻拭いなど、したくもないが」
部屋の片隅にいつしか姿を見せていた青年は言った。
「ご指示であれば、仕方ない」
そこにやってきていたのは、偽魔術師だけではなかった。
「エルレール様」
クインダンは王姉を彼の背後にかばった。
だが、これで彼女を守ることができるのか、彼自身、甚だ疑問に思っていた。
「幽霊屋敷」の近くで目の当たりにした、あの奇妙な術。
ひとりだけでも厄介だったのに、いま、剣を失った彼の前にいるのは、ヨアティア、アトラフと、そして二体の灰色ローブだった。
「案ずるな。殺しはしない」
アトラフが言った。
「まだ、な」
それから彼はヨアティアがようやく立ち上がるのを見ると、かすかに舌打ちをした。
「問題が生じている」
アトラフは言った。
「ルー=フィンの術が解けただろう」
「そのことか」
ヨアティアはむすっとした。
「ああ。タイオスと組んで俺を殺そうと」
顔をしかめてヨアティアは説明した。クインダンとエルレールはそっと顔を見合わせた。
「奴の行動を遡って、確認しておく必要があるな」
ソディの男は呟いた。
「ライサイ様から離れ、シリンドルにずっといたことで、術が弱まっていた可能性も出てきた」
「あれはその辺の神官よりも敬虔な信者だ」
ヨアティアは鼻を鳴らした。
「俺には最初から、あいつが裏切ることくらい判っていた」
「神官たちの掌握にもまだ遠いようだな、神殿長」
知ったような台詞を無視して、アトラフはじろりとヨアティアを睨んだ。
「何だと。僧兵団長は、俺の言うことを」
「ならば団長が掌握していない、と言うべきかもしれんがな」
彼は言った。
「何故、この騎士がやってきたと思う。廃墟の近くでうろついていたお前の行動は見抜かれ、騎士はここへやってきて、目撃した神官から巫女の危機を聞いたのだ」
「それは仕方のないことだ」
ヨアティアは反論した。
「神官どもをひざまずかせるのは、これからだからな」
「ひざまずかせるですって」
エルレールはかっとした。
「神殿長と神官の関係は、そのようなものでは」
「黙れ」
アトラフが睨んだ。エルレールは彼を睨み返したが、口をつぐんだ。反論をしても何の意味もないことは確かだ。
「巫女と騎士を牢に入れろと言っても、奴らは聞かないだろう。ここに閉じ込めておく」
「ここは、俺の部屋だぞ」
「つまらぬことを言うな」
アトラフはぴしゃりとやった。
「望みを果たしたいなら、役目をきちんと果たしてからだ」
役立たずめとアトラフは言い捨て、ヨアティアを部屋の外に押し出した。それから彼は恭しくソディエたちに頭を下げ、外へと促す。クインダンを牽制するように彼を見ながら、二体のソディエもまた出て行った。
「何を」
クインダンは歯を食いしばった。
「何を企んでいる!」
騎士の問いかけにやってきた答えは、扉が閉ざされる音だけだった。