09 お前に有利なように
「タイオス!」
くずおれる戦士にアンエスカが呼びかけた。
「それでも〈白鷲〉か! 情けない!」
「は、さすが、ルー=フィンの団長……」
苦笑を浮かべようとしたタイオスだが、意識が遠くなるほどの痛みに脂汗が浮かぶばかりだ。フェルナーは蔑むように彼を睨んだ。
「ヴィロン殿!」
アンエスカは神官を呼ぶ。
「どうか……」
自らに成したような治癒を。年長の騎士は神官にそれを要請しようとした。
「コズディムよ――」
ヴィロンは理解して祈りの言葉を口にしはじめたが、すぐに、それをとめた。
「……ヴィロン殿?」
「無駄だ」
わずかに流れた血を拭って、エククシアは言った。
「お前たちは、神力というものについて何も知らぬ」
エククシアは気の毒そうに首を振った。
「神に祈って得られる力は、魔術師のそれと違い、信仰を失えば消える」
「何だと? 何を言って」
「殊、半人ならばなおのこと。迷えば、力など」
手のひらをくるりと上に向け、男は肩をすくめた。
「消える」
「何だと」
アンエスカはうなった。
「冗談はよせ。神官殿、貴殿が頼り――」
「無駄だ、と言っている」
淡々とエククシアは告げた。ヴィロンの感情はあまり表に出ないが、それでも顔色は悪くなっており、動揺を窺わせた。
「神はお前たちを助けない。コズディムも、シリンディンもな」
〈峠〉の神を名で呼んだ――それはシリンドル国民には不敬とも聞こえる言い方だった――エククシアの脇から、もう血は流れていなかった。
「クライス・ヴィロン」
魔物は再び、神官を呼んだ。
「我らはお前を〈しるしある者〉と同等に扱ってもよい。コズディムに仕えたようにライサイに仕えれば、いままで以上の力をやろう」
ふっとエククシアは笑う。
「取り替え子、とお前を指差してきた者たちに復讐をすることができる、力をな」
「黙れ」
苦しげに、ヴィロンは呟いた。
「――黙れ」
「いい加減にしろ」
アンエスカが低く言う。
「毒を撒くその口、今度こそ黙らせてやろう」
苛ついたようにアンエスカは再び剣をかまえた。その刀身に、血はほとんどついていない。
「こい、青竜の」
「奇襲に成功しただけで、私に勝てるつもりか?」
相手にする気はないという風情で、エククシアはアンエスカをろくに見もしなかった。
「この場には使える駒が多い。だがな、騎士団長。お前はそのなかで、最も役に立たない駒だ」
「言ってくれる」
彼は唇を歪めた。
「〈王〉に〈僧侶〉……〈騎士〉がタイオスならば私はさしずめ〈歩兵〉か」
盤遊戯の駒になぞらえて、アンエスカはふんと笑った。
「いいだろう。歩兵の意地を見せてくれる」
こい、と彼は繰り返した。
ヴィロンが動揺を鎮めるまでに、時間稼ぎになればいい。神官が自信と力を取り戻せば、ハルディールとタイオスを救うことができるはずだ。彼はそう考えた。
「愚かなことだ」
エククシアは囁いた。
「左腕の痛みから何も学ぶことがなかったと言うのであれば、もう一度、今度は徹底的に、教えてやってもよい」
「エククシア」
不満そうにフェルナーが騎士を呼んだ。彼はタイオスから逃げるかのように離れ、卓の近くに立っていた。
「そいつらと遊んでなんかいないで、早く僕をどうにかしてくれ」
ハルディールらしからぬしかめ面で少年は言う。
「お前たちがしっかりしないから、僕はあちらへこちらへとふらふらする羽目になっているじゃないか」
彼は苛立たしげに手を振った。
「この身体なら固定されるという話だったのに、結局は弾き出されて……」
「だが、戻ってきたな」
「……ほかでも、弾かれたからだ」
むすっとして、フェルナー。
「そんなことより、エククシア」
少年は首を振った。
「そいつをからかって無駄な時間を送るより、簡単なやり方がある。――アンエスカ」
偽の王は騎士団長を呼ぶと、卓上にある小箱から小刀を持ち上げた。それは封を切るなどちょっとした作業をするための、刃渡り十ファイン程度のものだった。
通常、武器にはならない。切っ先は鋭くなく、刺したりすることは難しい。
だがフェルナーは、それを自らの首筋に当てた。
「剣を捨てろ」
「何を……」
アンエスカは唇を噛んだ。フェルナーは簡単なやり方で、ハルディールを人質に取った。
「かまう、もんか」
傷口を必死で押さえ、激痛をこらえながら、タイオスはかすれるような声を出した。
「そいつに、そんな、度胸なんざ、ある、はずが、ねえ。引く、な……アンエスカ」
「く……」
タイオスの言葉は、もっともと言えた。フェルナーはハルディールの身体を欲している。死なせるようなことをするはずがなかった。傷つけることすら。もっと単純に、切れば痛い。あの子供にできるはずがない。
だが、ならば無視してやる、との即断は彼には難しい。彼にとってハルディールは、忠誠を誓った王であると同時に、同じく誓いを捧げた前王の息子であり、レヴシーに感じているのと同じように、自身の息子のように思うところもある。
できるものならやってみろ、とタイオスのように挑発して、もしも万一のことがあればと危惧せずにはいられなかった。
(シャーリス・アンエスカ、いま必要なことは何だ)
彼は自問した。
(陛下の安全、それにはヴィロン殿のために時間を稼ぐこと)
(だがタイオスの安全を採るには、時間がかけられん)
戦士はかろうじて意識を保っているが、その苦しみは想像にあまりある。腹に刺さった刃が動かされたのだ。苦痛のもとを取り去ろうとして強引に剣を抜かないのは、極限状態にあっても残る戦士の理性と言えようが、気を失っていないだけでも奇跡的。
(このようなことで)
(〈白鷲〉を死なせる訳にはいかん)
医師を呼んでもどうにもならないかもしれない。ヴィロンの手が要る。
彼は唇を噛んだ。
「――エククシア!」
叫んで、アンエスカは再び剣を振るった。今度は予期していたか、〈青竜の騎士〉はゆらりとそれを避けた。追撃をする。避けられる。向こうはまるで舞踏でもしているかのように、優雅だ。
(クソ)
(腕が、痛む)
剣を振るうのは右手とは言え、傷を負った左腕も動かさない訳にはいかない。大きな動作は傷口を開かせるやもしれなかった。
だが、怯むことはできない。
「アンエスカ!」
苛ついた声は、フェルナーのものだった。
「いいのか! ハルディール王が傷ついても!」
自身の脅迫が無視された形になったためだろう、腹立たしげにフェルナーは叫ぶ。
「……救う」
アンエスカは食いしばった歯の間から声にならぬ声を出した。
「ためにこそだ!」
鋭く突いた剣は、エククシアを再度捕らえたかに見えた。だが魔物はその瞬間には、どんな健脚の持ち主でも飛びすさることのできないところまで退いていた。
「逃げるか、この」
「招きは気に召さぬか、騎士団長」
エククシアは言った。
「明日まで、待つがいい」
「明日だと?」
「〈白鷲〉も死なせはしない。そのときまではな」
「何を――」
戯言を述べているのか、とアンエスカは更に追撃をしようとした。だがそのとき、彼は知る。かつて、イズランに術をかけられたときと同じように、その足は床に張り付いて動かなかった。
「貴様」
「シリンディンに向けて、役に立たぬ祈りでも繰り返しておけ。――ヴォース・タイオス」
エククシアの視線は、うずくまるタイオスに向けられた。
「お前はその命を賭して、ハルディール王を取り戻すというのはどうだ」
「何、だと……?」
タイオスはようよう声を出した。
「決闘、でも、しようってのか」
「まさしく、それでどうだ」
ふっとエククシアは笑った。
「お前が勝てば、ハルディール王にはもう二度と手出しをしない。場所はお前に有利なように、お前の神に最も近いところで」
「……〈峠〉の神殿のことを言ってるのか?」
アンエスカが呟いた。
「明日」
エククシアは話を続けた。
「穢れの期も明日には終わっている。そうだったな、騎士団長」
「何を……」
「五の刻だ」
朝方、五の刻。エククシアは指を開いて片手を軽く上げた。
「五の刻を目指して、太陽神が昇っていくように、お前も峠を登ってくるといい。お前の神の前で、その神秘を杭に込めてやろう」
「杭……?」
「ヴィロン」
エククシアはそれ以上語らず、神官を呼んだ。ヴィロンはぴくりとした。
「心は決まったか」
「……本当に」
黒髪の神官は呟いた。
「私に力を与えられると、言うのか」
「ヴィロン殿!」
アンエスカははっとして叫んだ。
「無論だ」
〈青竜の騎士〉は薄く笑みを浮かべた。
「これまでのような無駄な努力など必要ない。ただ、ライサイの前でかしずくだけでいい」
「私は……」
金に光っていた瞳は、いつしか静かな青に戻っていた。
「約束しよう」
魔物はそう言って、ヴィロンに向けて手を差し出した。神官はただじっとそれを見ていた。
「ヴィロン! 甘言に耳を貸すな! そのような『力』など、ろくなものではない!」
〈シリンディンの騎士〉はきっぱりと言った。
「私は……」
神官はぎゅっと両の拳を握り締めた。
「コズディムの、神官だ」
その返答にエククシアは口の端を上げ、手を引いた。必死の拒否を面白がるかのようだった。
「時間をやろう」
左右色の違う瞳でヴィロンを見ると、半魔は言った。
「あとでもう一度返事を聞こう。お前は必ず――気を変えるはずだ」
くっと笑うとエククシアはアンエスカと、そしてタイオスを一瞥して姿を消した。




