06 血の契約
「消え……」
リダールは身体をこわばらせた。
「消えたと、言うのは」
「生憎なことに、冥界に送るまでのことはできていません。この場から去らせたのみです。ヴィロン殿、いえ、彼でなくともコズディム神官に同席していただけたら巧く行ったでしょうが、いま私にできたのは除霊と呼ばれるものに近い」
ラシャは謝罪の仕草をした。解決していないからだ。だがリダールは、わずかに安堵を覚えた。
まだ、願いが捨てきれない。
まだ、望みはあるのではないかと。
「リダール」
静かな声が、彼のすぐ近くで聞こえた。
「痛いんだが」
「あ、ご、ごめん」
慌ててリダールは、握り締めていたシィナの手を放した。
「意外と力あんな、お前」
少女は顔をしかめ、痛みを軽減させようとするかのようにその手を振る。
「……ま、男だもんな」
当たり前かと彼女は言った。
「シィナが、呼んでくれたんだね」
あの灰色の薄闇のなか、光が射したように感じた。リダールのもとに、声が届いた。
「こっちだ、って教えてくれた。だから僕、一生懸命走ったんだ」
「走ったような感じになった」と言うのが正しかったかもしれないが、リダールの主観ではどうにも「走った」と感じられた。
「あんなに必死で走ったのは生まれて初めてかも」
抜け出せるかもと必死になった。
シィナに会えると、懸命になった。
「道筋が見えただけでは、狭間の世界から抜け出ることはできないと言われています」
穏やかな表情を取り戻した神官が優しく声を出した。
「ヴィロン神官の推察を参考にしましたけれど、さすが、彼は正解を引き当てていたようですね」
神官は少年たちの近くまでくるとしゃがみ込み、薄掛けの上に落ちていた魔除けを拾い上げた。
「手に取るまいとしていても、落ちたものを素足で踏めばほとんど同じことです。もっとも、魔除けの力だけではない」
ラシャはふたりの手を取って重ね合わせた。
「大事なものに触れることで、自分の身体を取り戻す。ハルディール陛下とこちらの世界のつながりは〈白鷲〉の護符によって象徴された〈峠〉の神であるというヴィロン殿の考え。それに相当するものが、リダール様にはシィナ殿だった……ということかもしれませんね」
「そう、なんだ……」
目をぱちぱちとさせながらリダールは呟いた。
「じゃあシィナは、さながら僕の女神だね」
「なっ」
シィナは目を白黒させた。
「恥ずかしいこと言うんじゃねえよ、この、馬鹿野郎っ」
「えっ」
〈峠〉の神になぞらえたつもりでしかなかった少年は、やってきた罵倒に目を丸くした。シィナはスエロのように低くうなると、ラシャの手にある魔除けを奪うようにした。そして、報償を与える領主よろしくリダールの首にかける。
「今度から、外すときは充分、気をつけんだぞ」
説教めいた口調でシィナは言った。
「って言うか、外すな。片が付くまで、肌身離さず、持ってろよ。着替えるときも寝るときも、風呂入るときも外すんじゃねえぞ」
「……うん」
リダールは曖昧な笑みを浮かべた。
「現状、そうなさるのがより安全かと思います」
ラシャも同意した。
「リダール様は認めたくないようですが、実際、先ほどのあれは悪霊と呼ばれるものにとても近くなっていました。だからこそ、私の聖言が効いたのです」
神官は説明した。
「死したばかりの魂というのは、まだ非常に、生者に近い。戸惑っている間にラファランに導かれると言ってもいいです。ですがそれを逃れた魂は、時間が経つにつれ、負の感情を増大させることが多い。生前の個人的な恨みを深くすることもあれば、生者全般に妬みを抱くこともあります」
息を吐いてラシャは続ける。
「『もっと生きていたかった』、それはほとんどの死者が思うことです。悲観して自死した者すら、悩みさえ解決できれば生きていたかったと思うもの。ラ・ムールの水に浸かればそうした思いは洗われると言うのに、彷徨う魂は、その安らぎを知らぬままなのです」
そっと祈りの言葉を口にして、神官はフィディアルとコズディムの印を切った。
「しかし私の力では、彼に安らぎを与えることは難しい。ヴィロン殿ならばと、思うのですが……」
「ヴィロン殿は、シリンドルです」
「ええ、タイオス殿と」
リダールとラシャは言い合い、少し沈黙した。
「あの、ラシャ殿。フェル……ええと」
フェルナーの友人は頭をかいた。
「彼は、ここから去って、どこに……ラシャ殿たちが狭間の世界と呼ぶ場所に、行ってしまったんでしょうか」
「判りません」
ラシャは首を振った。
「ですが、リダール様も同じことをお考えなのでは」
「――もしかしたら」
少年は呟いた。
「シリンドル、に」
その言葉にラシャはかすかにうなずく。
「これまでのお話からしますと、本来彼は、リダール様は誕辰の日が同じであるという、〈名なき運命の女神〉の悪戯によってあなたに取り憑くことを可能とした」
「そう聞いています」
「取り憑く」を否定することは避け――抵抗はあったが――リダールはこくりとうなずいた。
「ではどうやってハルディール陛下や、ほかの人物に?」
「それは……」
判りませんと少年は首を振る。
「誰にでも取り憑くことができるとは思えません。推測にしかなりませんので確定は避けますが、何らかの契約を以てしてそれを可能にしているという考え方があります」
「契約ですって」
リダールは目をしばたたいた。
「シリンドルの国王陛下が、どんな約束をしたって言うんです」
「言葉尻を捕らえ、曲解するというやり方がひとつ。魔物が得意とするものです」
ラシャは魔除けの仕草をした。
「或いは、身体の一部……主には血を使って、繋がりを得てしまうという方法もあります」
「血」
はっと彼は思い出した。
「彼が僕の身体を使っていたとき、ひとを刺したことがあります」
顔色を青くしてリダールは告げた。
「そのときは、僕のと言うか彼のと言うか、自分を守るためだったんだと思ったんですけれど……」
「墨色の王国」から戻ってきた瞬間に目に入った、鮮烈なる赤。リダールはそっと自身を抱いた。シィナは気遣わしげにそれを見た。
「そうですか」
ラシャは少し考えるように間を置いた。
「必ずしも、自ら刺すなどして相手の血を流させる必要はありませんが、血と血を混ぜ合わせる、つまり自らも傷を付けて傷同士を合わせたりですとか、体内に摂取する、つまり舐めたり飲むなどして繋がることも考えられます」
フェルナーに肉体はないが、リダールを「使用」しているときに「摂取」したのであれば、それはフェルナーが行った契約と解釈し得る、などと神官は説明した。
「飲むだって。気持ち悪ぃ」
シィナが感想を洩らした。
「吸血鬼の伝承がありますね。彼らがひとの血を吸うのは力を得るためでもありますが、同時に相手を支配することもできる。ここにも一種の血の契約が存在するとの解釈もできます」
「ウェリエルだなんて」
彼女は顔をしかめたままだった。
「そんなおとぎ話なんかどうでもいいんだよ。現実を見ようぜ、現実を」
「灰色ローブの者たちが人外であることは認めますのに、吸血鬼の存在は信じないのですか?」
「あいつらは、いんじゃん。オレたちの目の前によ」
ふん、とシィナは鼻を鳴らす。
「人外かどうかなんてことはともかくさ、実際にいて、ヘンな力を使って、オレたちの町で危ないことしてんだろ。吸血鬼なんていまは関係ない」
「彼らと吸血鬼は確かに関係ありませんね。ですがいまは、血の契約の話です」
ラシャは諭した。そっちが言ったんじゃん、とシィナはぶつぶつ呟き、そうでしたねとラシャは謝罪の仕草などした。
「そうした契約は、どちらかと言えば魔術の領分でありますが、聖なる誓いをするときに自らの血で『縛り』を強くするということもありますので、われわれでもいくらかは理解できます」
神官は言う。
「契約によって繋がりを得ていれば、それはまるで〈ナルウェルの迷宮〉からの脱出を可能とする糸のように、術者と契約者を結ぶ。糸に相当するものは、この場合、リダール殿やハルディール陛下から発せられています。向こうはそれを手繰ってあなたに入り込むことができる」
「つまり」
リダールも考えた。
「やっぱり、そうすることによって、フェ……僕の友だちはまたシリンドルに行っているかもしれない」
名を呼ぶまいとして選んだ言い方はシィナの顔をしかめさせた。
「私は、シリンドルへ行ってみようかと思います」
突然、ラシャは言った。
「この話をヴィロン殿に伝えることが、何らかの助けになるかもしれませんから」
「ぼ、僕も」
知らず、リダールは声を上げていた。
「僕も行きます。ラシャ神官、どうか僕も連れて行ってください」