04 魔物だよ
不意にどたばたと音がしたとき、彼は自分がどこでどうしていたものか、一瞬判らなかった。
心地よい寝台の上、見ていた穏やかな夢から離れて現実に戻ることが嫌だったのかもしれない。
だがその夢がどんな幸せなものだったのか思い出すこともないままで、フェルナーはリダールの寝台から身を起こした。
「何だ、うるさいな」
彼は言った。
「いったい、何ご」
「いたな、悪霊!」
例によって窓から乗り込んできた、それは下町の少女だった。
「てめえ、フェルナー。リダールを返せ!」
「……は」
フェルナーは幽霊、それも悪霊呼ばわりに怒るよりも嘲笑った。
「事情を知っているようだな。だが生憎、ほかの身体が空かない限り、僕はここから出るつもりはない」
「返せ!」
シィナはリダールと異なる表情を浮かべるリダールの顔を睨みつけた。
「あいつはぐずでとろいけど、そういうとこが、いいんだ! オレはリダールにもっと自信を持ってもらいたいけど、お前みたいに鼻持ちならないのは大嫌いだ!」
「僕がフェルナー・ロスムでもリダール・キルヴンでも」
伯爵の息子は顔をしかめた。
「お前は僕にそのような口を利ける立場なのか?」
少年は尋ねた訳ではない。疑問の形を取った糾弾であった。シィナはキッとフェルナーを睨んだ。
「人間同士としてつき合うとき、身分とか地位とかに左右されるのは馬鹿らしいことだって先生が言ってた!」
「成程。身の程をわきまえない、自称賢者の忠言か」
フェルナーは鼻を鳴らす。
「そういうのはきれいごとと言うんだ、女。実際、僕は領主の息子で、身分も地位も」
「お前はリダールじゃないだろうがっ」
「キルヴン伯爵の息子だとは言っていない。だが」
彼は肩をすくめた。
「このままであれば、僕がこの町をもらい受けることにもなり得るな」
いまではそのことは、特に計画に入っていなかった。フェルナーが言ったのは挑発だ。
「何をう」
案の定、シィナは顔を真っ赤にした。
「ふざけんな! お前なんか」
彼女は右手をぎゅっと握ると、思い切り振り上げた。
「出てけっ」
勢いよく何かが投げつけられた。リダールであればびっくりして目を見開いている間にそれがぶつかってきたであろうが、機敏なフェルナーは素早く反応し、まるで判っていたように投げられたものを受け止めた。
「つっ」
だが彼は、受け取ったそれをすぐさま落としてしまう。
「何だ、これは……」
やわらかな布団の上に落ちたものをもう一度拾い上げたフェルナーは、しかし顔をしかめてまた放り出した。
「触れると痺れるみたいだ」
「やっぱりなっ」
シィナは勢い込んだ。
「化け物め。お前には魔除けが効くんだ」
吐き捨てるようにシィナは言った。
「何だと」
フェルナーは改めて、落としたものを見た。それは緑色の翡翠玉でできた、魔除け飾りであった。
「ふざ、ふざけるな。僕は、魔物なんかじゃない」
「じゃあそれを手に取れよ。首にかけてみやがれ。できねえだろ」
「――乗せられないぞ」
フェルナーは首を振った。
「僕を追い払おうと……」
「ああ、そうさ」
シィナは隠さなかった。
「当たり前だ。オレはリダールを助けんだからな。一秒でも早く、あのうすらボケに戻してやるんだ」
ぎろりとシィナはフェルナーを見据える。
「オレとお前の利害は絶対に一致しない。だけど悪霊じゃないって言い張るなら証拠を見せてみろって言ってんだ」
シィナは何も、フェルナーを騙そうとしているのではなかった。彼女にも挑発の意図があったと言えよう。決して上手ではないどころか稚拙でさえあったが、シィナなりに必死であった。
ただ、リダールをもとに戻したかった。それにはフェルナーを追い出せばいいと、そう考えた。
「魔物じゃないってんなら平気だろ」
ずかずかとシィナはフェルナーに歩み寄るとフェルナーの放り出した魔除けを掴んだ。
「ほら、かけてみろよ」
挑戦的に彼女は言った。少年は黙って魔除けを睨みつけ、シィナを睨みつけた。
「僕は、騙されない」
フェルナーは口の端を上げた。
「これは魔除けの形を取っているが、ただの魔除けではないんだろう。僕を追い払うために作られた、何か特殊なものだ」
考えながら言って彼はうなずいた。
「それならば納得がいく。僕が触ると痺れるのは、そのせいだ。魔除けだからじゃない」
フェルナーの台詞は考察と言うより、思いつきだった。希望と言ってもいい。自分は魔除けで祓われるような存在ではないと。
「はっ」
シィナは笑った。
「確かにそれには神官の術がかけられてるさ。ただし、お前が何と言おうと、魔除けとして作られたものだね。やっぱりお前はリダールに取り憑く悪霊で、魔物だ」
「違う!」
怒りを込めてフェルナーは叫んだ。薄掛けの端を掴み、それを放り出すようにすれば、布は魔除けごと床に落ちた。
「腹の立つ女だ」
彼は寝台から降りた。シィナと向き合う格好となる。
「リダール、リダールと連発するだけでも腹が立つのに、僕を魔物扱い。礼儀も知らず、学もない――」
「ベンキョウなら、してるさ。お前の知らないことだって、オレは知ってるね」
「何だと。生意気な」
「礼儀正しくしたいと思える相手には、オレなりに礼儀正しくする。お前はそうじゃない」
シィナは言い放った。
「それに、リダールは」
少女は両の拳を握り締めた。
「リダールは一生懸命、お前を救おうとしてた。お前が友だちだからって。お前がひとりでいることを忘れられないって」
シィナは思い切り、フェルナーを睨みつける。
「あいつの、そんな気持ちを無駄にする奴は、あいつの友だちなんかじゃない」
「リダールは僕を裏切った!」
フェルナーは叫んだ。
「リダールなら僕を救えたんだ。なのに、自分可愛さに僕を見捨てた。そうしておきながら、一生懸命だったって? 笑わせる!」
「自分が可愛くて、何が悪いんだよ!」
シィナも叫び返した。
「お前はリダールを乗っ取ろうとした。リダールがそれを断ったからって、裏切りだ? 馬鹿も休み休み言えよな。リダールはお前の奴隷じゃない。友だちってそういうもんじゃないだろ!」
「リダールは」
フェルナーはわなわなと拳を振るわせた。
「いつだって僕の言うことを聞いて、僕についてきた。一度は僕のために命を捨てるとしたのに、取り消した。臆病な裏切り者なんだ!」
「お前」
シィナは顔をしかめた。
「本気で言ってるなら、お前はものすごくガキか、それともやっぱり……魔物だ」
少女は声を弱めた。
「友だちを大事にする気持ちってのを忘れちまった、魔物だよ」
「――知った、ようなことを」
フェルナーは歯ぎしりをした。
「あの世界を知らないお前が! 知ったようなことを言うな!」
大きく一歩を踏み出したフェルナーは、シィナの胸ぐらを掴んだ。
「何すん」
「お前なんか」
ふたりの声が重なった。フェルナーの目は異様な光を帯び、彼自身は自分が何をしようとしているのか判っていなかった。だがシィナは殴られると感じた。実際、フェルナーの右の拳は強く握り締められ、どす黒い感情にまかせて振り上げられるところだった。
逃れようとシィナは身を引いた。つられるようにフェルナーも進む。
とそのとき、フェルナーが均衡を崩した。好機とばかりにシィナはフェルナーの手を払い、大きく退く。
「クソッ、負けねえぞ、オレぁ!」




