03 嫌な風が
「ではいま、騎士たちは?」
「ルー=フィンには自警団への連絡を命じた。警邏を強化するように伝えよと。ただし、灰色ローブには近寄らず、動向だけを騎士または〈白鷲〉に報告せよとするようにと」
「灰色ローブですって?」
「ああ、失礼、姉上にはまだお伝えしていなかったか」
彼は謝罪の仕草をして、大まかに話をした。
「その正体は、タイオスとヴィロン神官によれば、人外ということなんだが……」
「ヴィロン神官?」
「ああ、ラシャ神官の知人だ」
彼はざっとヴィロンの素性と、彼の助力が自分を引き戻したようだということ、それから魔物の力に砕けた護符のことも伝えた。エルレールは驚いて口に手を当て、神に祈った。
「神はタイオスを守り、あなたを守ったのね。見知らぬ神官が介在しているということは気にかかるけれど」
エルレールはかすかに眉をひそめた。
「姉上。彼は、助け手だ」
ハルディールは慎重に言った。
「判っているわ。無闇に拒否はしない」
巫女姫は誓うように片手を上げた。
「人外だなんて、私はおとぎ話のなかでしか知らないわ。タイオスの言うことであれば事実なのでしょうけれど、そうであるならなおさら、何も知らない私がしゃしゃり出ても仕方がないどころか足を引っ張るだけ」
「そのようなことは」
ハルディールは否定しようとしたが、エルレールは首を振った。
「本当のことよ」
「いいえ、姉上」
王は認めなかった。
「姉上は〈峠〉の神の巫女。たとえ魔術師や神官のような不思議な力がなくとも、〈峠〉の神に最も近しい人」
「形式上のことに過ぎないわ」
「――本当に、そう思っているのか」
ハルディールは問うた。エルレールは黙った。
「ああ、ハルディール」
それからエルレールは、両手で顔を覆った。
「私は、自信がないのよ。私の祈りが力になると、クインダンはそう言うわ。けれど、本当に私は彼に加護を与えることができているのかしら? ただの娘が『どうか神様、彼をお守り下さい』と、そう願うのと何か違っているのかしら?」
「姉上……」
巫女として。王として。彼らは心を抑えてきた。それをつらいと思うことはない。それは彼らの、生まれながらの使命である。
もしも自分がただの少女、ただの少年だったら。そうした夢想をすることもあった。しかしそれは「叶わぬ望み」ではなく、「有り得ないこと」だった。そこに悲壮なものはない。
だが、こうして揺らぐこともあった。
彼らはまだ若く――何より、人の子であったから。
「陛下、エルレール様、失礼いたします」
ふっと降りた沈黙のなか、息を荒くして入ってきたのは僧兵団長のドルタンだった。以前の団長であったログトは自ら降格を申し出、現在は副団長となっている。
「ドルタン団長」
ハルディールは挨拶の代わりにうなずいた。
「何か急の用事か」
緊張して王は尋ねた。何か重大なことでもなければ、王と巫女姫の語らいの場にやってくることはないだろう。
「は、それが、ボウリス神殿長が」
ドルタン僧兵団長は渋面を作った。
「お怪我をなさいまして」
「何だって」
ハルディールは警戒した。まさか、彼らの手が神殿長にも伸びたのかと。
「どういうことだ。詳細を」
「それが」
ドルタンは言いにくそうにした。
「階段から、足を踏み外されて」
「……階段」
王は目をしばたたく。
「では、事故か」
「は、はい」
王の警戒を知らぬドルタンは、困ったように、彼にとっては当然の答えを返した。
「大きな怪我か」
僧兵団長が慌てて王と巫女姫に報告にくるとなれば余程のことだ。少なくとも転んでかすり傷を作ったという程度ではない。
「はい、頭を打たれ、意識がありません。医師を呼びましたが、その」
またしても彼は言いにくそうにした。
「危険な、状態だと」
「まあ」
エルレールは両手を口に当てた。ハルディールも真剣な顔をする。
「団長はすぐ、神殿へ戻れ。それから」
彼は巫女姫を見た。
「姉上も」
「でも」
ドルタンは敬礼をしたが、王姉は気遣わしげに弟王を見ると、僧兵団長に少し外すよう指示した。ドルタンが従うのを見ながら、ハルディールは姉の心配が判るように思った。
「僕は大丈夫……とも言い切れない状態なのは確かだけれど、言ったように『彼』が権力を振るえば姉上も何をされるか判らない」
「けれど、『彼』が私を警戒するのであれば、私はお前の傍にいるべきだわ」
「『彼』が避けようとしていたのは、『正体』を見破られることだろう。もはやアンエスカも、騙されているふりをする必要はないから――」
「そのアンエスカはどうしているの」
ずばりとエルレールは訊いた。
「それは」
「使用人に聞いたわ。怪我をして休んでいるのでしょう。『彼』がやってきたら誰がとめられるの」
「いっそのこと、僕が牢にでも入ってしまうのがいいのかもしれないね」
ハルディールは言ったが、冗談だと示すように肩をすくめた。もちろん、フェルナーが大人しく牢に入ったままのはずがないのだ。エククシアらには鉄格子など意味はないということもある。
「大丈夫。アンエスカももう目を覚ます。治療の時間すら惜しんでいたのを無理に眠らせただけだから。たとえ『彼』が演技を覚えても、アンエスカが見誤ることはない」
きっぱりと王は騎士団長への信頼を口にした。
「……心配はあるけれど、神殿長のことは気にかかるわ」
エルレールは迷うように言った。
「少なくともいまボウリス殿が祈祷をしたり祝福を与えたりすることができないのであれば、私はその役目も果たさなければならないのだし」
この国の神殿に、八大神殿のような神官長の座はない。神殿長と巫女のどちらが上位だというのは一概に言えないことだったが――決定権の多くは神殿長にあるものの、神に近いとされるのは巫女である――日常の祈りや祝福ならば、巫女も行うことができる。
ましてやいまは〈穢れ〉の期。〈峠〉の神殿以外には、この間に何があるというのでもなかったけれど、「〈峠〉に参拝に行けない」という事実は普段から麓の神殿で済ませている民たちにもどこか不安を誘うことのようで、いつもより神殿を訪れる者が多かったり、魔除けが求められたりする。
「様子を見てくるわ。また戻ってこられるのは夕刻近くなるかもしれないけれど」
「僕には、アンエスカと」
少年王は笑んだ。
「それから、タイオスがいる」
〈シリンディンの白鷲〉が。
その言葉はエルレールの表情を少し緩めさせた。
「どうかエルレールは、巫女の仕事を」
「嫌な風が、吹いている」
巫女姫は呟いた。
「レヴシーの失踪、アンエスカの負傷、ボウリス殿まで怪我を」
彼女は祈りの仕草をした。
「レウラーサ・ルトレイン。どうか〈峠〉の神よ、我らを……シリンドルをお守りください」
姉の祈りに少年王もそっと唱和した。
「フィレリアの、ことは」
それから小さく、ハルディールが呟いた。
「あまり刺激せず、事実の確認をお願いしたい。つまり、本当に子がいるのかということ」
少年は顔を曇らせた。
「思い込まされているだけならばまだいいが、本当であるなら身体に気をつけなければならないし……」
「誰の子か、ということも重大な問題ね」
姉は弟の言いにくいことをずばりと言った。
「私も動転してしまったけれど、お前の子であるはずがないわ。彼女がやってきてすぐに契りを結んだのでもなければ」
「……その時期に彼女と一緒にいた男となると……仮面の」
ハルディールは呟き、加護を願う仕草をした。
「そのようなことの、ないように」
彼のそれは祈りでしかなかった。エルレールもうなずき、弟を一度抱き締めると、踵を返した。