07 無駄だったな
シィナが「リダール」に罵詈雑言を吐いて彼を離れるまで、一分も必要としなかった。
(何だよ。何なんだよ、あいつ)
むかむかと腹を立てたシィナは、まるで地面が憎い仇ででもあるかのようにずんずんと踏みしめながら歩いた。
(使用人だとか、礼儀知らずだとか)
(そう思ってたってのか? ほんとはオレのこと、邪魔くさいって)
いままで我慢してつき合っていたが、とうとうこらえきれなくなったとでも。
「何だよ」
少女は呟いた。
「それなら、気ぃ持たすようなこと――!」
怒鳴りながらシィナは、腹いせに、手に握り締めていたものを思い切り地面に叩きつけようとして、はたとなった。結果として彼女は均衡を崩し、非常に奇妙な体勢を取ってふらふらしたが、周りの目を気にして取り繕うことなく、立ち尽くした。
「魔除け」
手元にふたつある、飾り玉。交換などと言い出したリダール。彼の意図は彼女には知れていなかったが、少女は少女で、どきりとしたのだ。
気弱で、いつもはっきりしなくて、何を言っても腹を立てる様子のない、鈍感屋。ちょっと足りないんじゃないかと思うこともある。
最初は、こんなのにこのまま領主になられたらたまらない、というような気持ちがあった。だから彼女が助けてやらなくてはならないと、そう思うようになった。
リダールが首都に行っている間は、苛々した。また無視されてぽつんとしてるんだろうなと思うと、何だか腹が立った。さっさと帰ってきて「小屋」にくればいいのにと思っていた。
なのにいつの間にか帰ってきても、やってこない。腹が立った。こっちがこんなに気にしてるのに音沙汰なしか、と自分勝手な憤りを抱いて、しばらく放っていた。向こうからやってくるのを待ったのだ。
だがうんともすんとも言ってこないものだから、しびれを切らした。ランザックの誕辰をきっかけにして、リダールの部屋を訪れた。リダールは、ちょっと勉強熱心になっていたけれど基本的なところは相変わらずで、シィナはとても安心した。
この頼りないリダール・キルヴンのことは、自分が引っ張ってやらなくちゃならない。
そういうつもりでいた。
でもときどき、シィナがはっとするようなことを言ったりやったりして、どきっとさせられた。
(本当に、鈍感だっての)
(お揃いの飾りものを寄越したり……交換しようなんて言ったり)
(こっちがどう思うかなんて考えてねえんだから)
シィナは魔除けをもう一度握り締めた。今度は投げ捨てるためではなかった。
「さっきのリダールは、変だ」
かっと燃えた怒りが静まってくると、そこで当たり前のことにようやく気づく。彼女はぱっと結論を出した。
(オレが魔除けを受け取った途端、妙なことを)
(どういうことだ?)
(――まさか)
さまざまなおとぎ話が彼女の脳裏を駆け抜け、このところ灰色騒動でリダールから聞かなくなっていた名がシィナの記憶から引っ張り出された。
(フェルナー)
リダールの身体に乗り移ったという死んだ少年が、再び同じことをしたのではないか。それは腑に落ちる考えだった。リダールがあんなことを言うはずがないのだ。
「どうしよう」
シィナはおろおろした。
「どうしたら」
まず彼女の内に浮かんだのはランザックに相談するということだった。だがランザックに何ができよう。ホーサイのことを思った。先生は頭がいいが、賢さの方向性が違うと思った。
(神官)
(ラシャとか言った)
次にようやく、その名が思い出された。リダールに対して神官を疑うようなことを言った手前、頼るのは躊躇われた。だがその躊躇いは一瞬で捨てた。
(リダールが頼ろうとしてた)
(あんなに一生懸命、難しそうな本を読んで)
(友だちを……助けるんだって)
心が決まれば、シィナの行動は早かった。
少女はそのまま勢いよく、神殿に向かって全力で駆けた。
一方、シィナの案内を受けなかったフェルナーは、しかし途方に暮れてもいなかった。
彼がキルヴンの町を訪れたのは初めてではない。すぐに見覚えのある場所に気づくと、フェルナーはキルヴン邸への道を採った。
「坊ちゃま、お帰りなさいませ」
初老の使用人がほっとした顔で出迎えた。フェルナーは記憶を探った。
「……ハシン」
「はい、何でございましょう」
「いや」
何でもないとフェルナーは手を振る。
「部屋に戻っていることにする。今日は何か、予定があったか」
「あと半刻ほどで、神学の先生がいらっしゃいます」
特に不審に思うことなく、ハシンは答えた。
「断れ」
「は?」
「頭痛がするので、休むと」
「それはいけません」
真摯にハシンは案じた。
「お医者様をお呼びいたしましょう」
「それには及ばない」
「では、伝書鳩はどういたしましょうか」
「何だって?」
フェルナーは目をしばたたいた。
「ルワクなんか、どうするって言うんだ」
「坊ちゃまが、支度をと」
ハシンもまばたきをした。
「リダー……僕が?」
「はい」
首をひねって、使用人は答える。
「カル・ディアへのルワクということでしたから、ナイシェイア様宛てなのでしょう。書を用意していらっしゃったのではないのですか」
ハシンの視線は、リダールの上着の隠しに向いた。フェルナーもそこを見れば、便箋の端が顔をのぞかせていた。
「これは……」
フェルナーはそれを引っ張り出し、ざっと読んで、顔をしかめた。
「――まだ、出来上がっていない。直すところがある。だから、鳩はあとだ」
「は、承りました。ですが……」
「何だ」
「痛む頭で文章をお考えになるのは苦痛ではありませんか。ハシンがお手伝いをいたしましょうか」
「僕が何をやっているのか、探ろうと言うのか」
「い、いえ、私はそのような」
驚いたようにハシンは目をぱちくりとさせた。
「使用人は使用人らしく、分をわきまえろ。さっきの女と言い、リダー……僕の周りには礼儀を知らない人間が多いようだな」
鼻を鳴らして言い捨てると、フェルナーは呆然とするハシンをあとにした。リダールの部屋ならば彼は知っている。かつて、リダールが彼の友人だった頃の部屋と変わっていなければであるが。
幸いにしてと言うのか、リダールの部屋は以前と同じ場所にあった。
少年は何となく全体を眺め、書机に目を留めた。
(神学、などと言っていたな)
(何を学んでいるのやら)
フェルナーはそのようなものを学ばなかった。基本的な知識は得ているが、詳細などは必要なかった。フェルナーに不要なものは、リダールにも不要なはずだ。そう思いながら彼は、書物の隣に置かれているリダールの帳面をめくった。
「何だ、これは」
少年は困惑した声を出した。リダールの手蹟で綴られているのは、死んだ人間に会う物語だとか、蘇りの伝承だとかいうものをはじめ、霊、死者の魂に関することばかりだった。除霊、浄霊といった項目が書かれ、二重線で消されているところもあった。
その下にある、殴り書き。
「違う。これじゃ駄目だ」。
「……は」
知らず、フェルナーの口から笑いが洩れた。
(何てお人好しだ)
(僕を救うつもりでいたのか)
音を立てて帳面を閉じると、フェルナーは窓を見た。つかつかと、そこに近寄る。
「罪悪感か? リダール」
彼は硝子に映った顔に話しかけた。
「自分可愛さに僕を裏切っておきながら、気になって仕方なかったのか」
フェルナーは笑った。
「それとも、またこうして僕がお前を乗っ取ることを怖れた? だとしたら正解だ、リダール。でも無駄だったな。お前の勉強は間に合わなかった」
くるりと彼は踵を返した。