03 例の誘拐事件
タイオスを送り出したリダールには、待つことしかできなかった。
八大神殿、魔術師協会、大きなふたつの組織が動こうとしている。この町で彼らに口を出せるとしたら、キルヴン伯爵たる彼の父しかいなかった。
いや、伯爵の言うことなど、二組織は気にもとめないかもしれない。神殿側は少なくとも「考慮する」というようなことを言うだろうが、協会の方は話すら聞かないかもしれない。
キルヴン伯爵ナイシェイアが彼の町を守ることに反対するはずはないものの、無断で勝手に動かれては困るということもあるだろう。リダールは両組織に逐一の報告を――命じることはできないので――依頼していたが、本音を言うのであれば、まめな連絡は期待できないだろうと思っていた。
実際、二日経っても何も知らせがなかったので、リダールはラシャを訪れた。神官は申し訳なさそうな顔で、こうしたことの決定には時間がかかるのですと言った。
魔術師協会の方も似たような反応だった。こちらは「調査中」というようなことだったが、何も教えてもらえないことには変わりない。
情けないな、とリダールは思った。「領主の息子」なんて、何の力もないと。
もし彼の父が命じても答えは同じだったかもしれないし、たとえ国王の命令であったところで、彼らは似たような答えを返すかもしれない。しかしリダールは、自らの無力さを感じた。
リダール・キルヴン少年は「自分は何もできない人間である」と思うことに慣れているところがあり、それをそういうものだと受け入れてしまっていて、悔しく思うことなどはあまりなかった。
だがいまは、悔しかった。
自分の故郷が危険にさらされていることを知りながら、ただはらはらと見守るだけしかできないなんて。
(せめて)
彼は思った。
(シィナやランザックのことは、守ろう)
あのあともシィナは変わらず血の気の多い発言を繰り返し、リダールを困らせていた。ひとりで勝手な真似はしないと約束してもらったけれど、本当に守ってくれるものかどうか。
もっと判ってもらわなくてはならない、とリダールは考えていた。彼女の様子を見ていると、危険を理解している感じがしないのだ。
リダールだって、しっかりと判っているとは言えない。だが、〈白鷲〉の護符が砕けたという出来事は、当の〈白鷲〉よりもリダール少年を打ちのめしていた。
彼にとってあれは、タイオスのものであると同時に、サナースのものであった。リダールは、サナースも〈峠〉の神と一緒にタイオスを守っているかのように思っていたのだ。
それが、粉々になってしまった。何だかリダールはもう一度サナースを失ってしまったかのようで、とても哀しい気持ちになった。
そうした感傷的な思いばかりでもない。護符が灰色ローブの者たちによって壊されたということも、非常に気にかかるところだ。これまで長いこと歴代〈白鷲〉たちを守ってきた護符が魔物の術に敗れた。そんなふうにも、取れてしまうからだ。
(タイオスを守ったのだから、護符としての役割は果たしたのかもしれないけれど)
(あんなふうに粉々になってしまうなんて)
(……〈峠〉の神はもう、タイオスを守らないんだろうか)
ふとそんな不安が浮かんでは、首を振って打ち消す。〈白鷲〉を守ろうとしたからこそ、護符は砕けたのだ。
リダールは、タイオスを思うたびに〈峠〉の神に祈った。シリンドル人ではなく、シリンドルを訪れたこともない彼の祈りが神に通じるものかは判らなかったが、とにかくタイオスの無事を祈った。
それは、タイオスがキルヴンを離れて三日後のことだった。
朝から――彼は何だか妙な感じがした。
何かおかしいと感じる。だが、何がどういうふうにと説明しようとすれば、巧くいかない。ただ、夢の続きを見ているような、ぼんやり感。今日とていつもと同じ、昨日の続きの一日、数え切れないほど通過していく似たようなものとどこが違うのかと言うと、大幅な差異はない。
ただ、何だか、世界がぼんやりしているような感じがした。
(……寝ぼけて、いるのかな?)
リダールはそんなふうに思った。
灰色ローブ騒動のせいでこのところ読み進んでいない書物を頑張って読み切った、そのために昨夜は遅くなった。それで頭がぼうっとしているに違いない。少年はそう思った。
「坊ちゃま、おはようございます」
「おはよう、ハシン。どうしたの?」
いつも穏やかな表情のハシンが緊張しているように見えたので、リダールは首をかしげた。
「何かあった?」
「伝書鳩が不穏な知らせを運んでまいったのです」
ハシンはそう前置いた。
「ウィスタ伯爵閣下とタクラズ男爵閣下が、亡くなったと」
「何だって?」
「カル・ディアからご領地に戻る道中、山賊に襲われたとのことです」
その知らせはキルヴン伯爵宛であったが、彼の不在時は館に詰めている執務官が目を通し、必要であれば対処をすることになっていた。そして同時にリダールにも知らされる。彼に決定権などはないものの、次期伯爵として重要事は知っておくべきということだ。
ハシンが執務官から「伝書鳩」の役割を受けることは、珍しいことではない。長く伯爵家に仕えている彼は信頼されているからだ。
「何てことだ」
リダールは驚きながら、哀悼の仕草をした。ウィスタの伯爵はとっさに顔を思い出せなかったが、タクラズ男爵はひとりでじっとしているリダールに何度か声をかけてくれたことがあった。髭をたくわえた優しそうな顔を思い出すと、哀しい気持ちが浮かんだ。
「母上には?」
「ご心配をかけてはならないので、まだお伝えしないことに」
使用人は執務官の判断を知らせた。リダールはそれがいいとうなずいた。
「おふたりはご一緒だったのか」
続けて、彼は尋ねる。
「それが」
ハシンは顔をしかめた。
「そういうことでも、ないのです。全く別のご旅程で」
「何だって? それじゃ、危険な山賊があちこちにいるってことかい?」
「危険な山賊」は、間違いなく、あちこちにいた。だがリダールが言うのは、領主たちが軽装で旅をしていたはずがないということだ。
彼らには専属の護衛兵がついているし、山賊が出没するという話のある場所を通ることになれば、一時的に雇い護衛を増やして対応するのが普通だ。
そうしてきちんと警戒している一行に襲いかかる山賊というのはあまりいない。よほどの大金を運んでいるとでもなれば別だが、そうでもない限り、ならず者とて命は惜しいからだ。
だが宝を持ち歩いていた訳でもない領主たちは襲われ、そして死んだと言う。職業兵士たちが敵わないほど「危険な山賊」、リダールが危惧したのはそれだった。
「周辺の街道警備隊が征伐に出るでしょう。王陛下も、軍兵を差し向けられるかもしれません」
それらの山賊は遠からず一掃されるだろうと使用人は言った。
「ただ、知らせはそのことばかりではありません」
彼は続けた。
「どちらの閣下にも後継たるお子様はいらっしゃるのですが、まだ幼かったり、ご婦人であったりということで、そのまま地位を継ぐのは難しく」
「誰か一時的に代理を立てたりするのかな」
「当の後継たちから、代理が指名されているのですが」
ハシンは顔をしかめた。
「どちらも、ライサイと呼ばれる人物なのです」
「……何だって?」
聞き覚えのある――どちらかと言うとあまり聞きたくない方に部類する名に、リダールは目をしばたたいた。
「坊ちゃまやタイオス様からお聞きした名のように思っておりましたが、間違いありませんか」
「うん、同じ名だ。……偶然でない、とも言えないけれど」
「少なくとも同時に同じ事件が起こり、同じ名が挙げられるのは奇妙かと」
「待って」
リダールははたと気づいた。
「それらの町の……子供たちっていうのは、確か」
記憶を呼び起こす。
「うん、そうだ。やっぱり、例の誘拐事件に遭った子たちだよ」
一時期、幼い息子や娘を持つカル・ディアルの貴族たちをおののかせた誘拐事件。彼らは身の代金を払って子供たちを取り戻していたが、犯人は捕まらないままだった。
リダールもその被害に遭った。彼の場合はほかと異なり、金の要求はなかったのだが、その代わり、身体を使われた。
そう、一連の拐かしを行っていたのとリダールの身体をフェルナーに操らせたのは同じ一派で、その頭目がライサイであった。
〈青竜の騎士〉エククシアや、ソディ一族、なかでも〈しるしある者〉と呼ばれる選別者を従えた魔物。それがライサイだ。
ごくわずかな関係者のほかにこれらのあらましを知るのは、ハシンと父ナイシェイアだけだ。彼らはこの出来事をならず者の拐かしと同列に語って裁くには向かない話と考えた。
もとより、ライサイの住処たるカヌハの町が北の隣国ウラーズにあるという問題もあった。カル・ディアル、及びアル・フェイル――東の隣国でも似たような事件が起きていた――としては手を出しにくいということも。
首都では「不埒者が野放しであることは憂慮すべきだが、続く拐かしがなくなったのだからもういいだろう」という、建て前と本音の入り混じったような結論が出ていた。
だが、拐かしによる金の要求などは、目眩ましであったのではないか。リダールの内にそんな疑いが浮かんだ。
「ライサイは……拐かした彼らに何か術をかけていたんじゃないか。自分が地位を継ぐべき事態となったら、ライサイにその座を……譲るように」
ずいぶんな想像とも言えた。根拠はない。だが、そうとでも考えなければ、いきなりその名が出てくるのはあまりにも不自然すぎる。