03 やはり感じられるものが
それは、リダールが魔術師協会から戻ってきたときだった。
少年はシィナを協会に残し――少女は難色を示したが、魔術師に詳しく説明をするのはとても重要な仕事だと説得した――ひとり、〈空飛ぶ蛇〉亭に戻った。タイオスが心配だったからだ。
幸い、店が灰色のローブに囲まれているというようなことはなく、リダールはタイオスの居場所を尋ねて、厨房に入った。
そこで、目にしたのだ。
見る影もなく、粉々となったそれを。
「あ……」
少年は悲痛な表情でうずくまり、それをかき集めた。
「おい」
彼は言った。
「集めたからって、戻るもんじゃない。無駄なことはよせ」
「でも……」
リダールは顔を上げた。
「戻るかも、しれません」
「んな阿呆な」
「だって」
少年は泣きそうな顔をした。
「〈白鷲〉の護符でしょう! 何でタイオスが、そんなにあっさりしてるんですか!」
思わず責めるような口調になって彼は言ったが、タイオスが顔をしかめたので、はっとなった。
「す、すみません、僕……」
リダールはうつむいた。
「タイオスだって哀しかったでしょうに……」
「いや、哀しかったと言うより、びびったとか焦ったとかの方が近いな」
苦笑いを浮かべて〈白鷲〉は言った。
ソディエたちに指差されてから、彼の身体は痛むほどの痺れを覚えた。熱い、とも感じたが、実際には酷く冷たかった。吹雪のなかに裸で放り出されたって、あれだけ冷えることはないだろう。
動けなくなった。死を意識した。
そのとき、真白い光が放たれて、護符をつるした腰の辺りから痺れが消えていった。光は彼を氷化から救っただけではなく、彼を指差した三体のソディエにも力を振るった。それらは、まるで雪塊を火であぶったかのように、溶けて――なくなってしまった。
残りの三体は逃げ出した。と言っても慌てて走り去ったのではなく、やはりゆるゆると後退し、どこかへ行ってしまった。タイオスは呆然としながらそれを見送り、自分が床にへたり込んでいることに気づいた。
一瞬、先ほどの調理人よろしく、自分も腰を抜かしてしまったのかと思った。いくら驚くべき出来事を前にしたからと言って仮にも戦士が情けない、と自嘲が浮かびそうになったがそうではなかった。
ソディエの術にさらされたためか、はたまた〈峠〉の神の力にさらされたためなのか、彼の身体は酷く消耗していて立ち上がることすらできなかったのだ。
もしもソディエがまた戻ってきて彼を指差したなら、今度こそ彼は何人目かの犠牲者となっていただろう。
しかし幸いにして、そういうことはなかった。ソディエはそれから姿を見せず、タイオスは「いったい何ごとなんだ」と当然の問いを発する店の親爺や女将に対し、彼に判る範囲で説明をしながら――口だけはどうにか回った――体力の回復を計っていた。
そこにリダールが戻ってきて彼の話を聞き、護符のなれの果てに愕然とした、という訳である。
「すみません……」
「ああ、いい、いい」
少年は繰り返し、戦士は手を振った。
「意外にもと言うのか何だか知らんが、そいつは俺を守ってくれたみたいだな。まさかそんなになっちまうたあ……思わなかったが」
これだけ完全に粉砕したからには、超一流の宝飾士だってもとに戻すことは困難、いや、不可能だろう。タイオスは酷く、申し訳ない気持ちになっていた。まさかこんなことになるなんて。
「もう俺はそうそう〈峠〉の神に文句を言えねえなあ」
以前にも「救われた」と思うことはあったが、ここまで確実かつ強烈に思わされたのは初めてだ。
「大丈夫ですか、タイオス」
リダールが心配そうに問う。
「ああ、何、平気だ」
「でも、顔色がよくないです」
「まだ力が入らないんだ」
正直に彼は言った。
「それって、ちっとも平気じゃないじゃありませんか」
憤然とリダールは言った。
「いや、何もだな、護符が粉々になったせいで精神的に食らってる訳じゃないという意味だ」
タイオスはそんなふうに説明だか言い訳だかをした。
「立つことも、できないんですか」
「さっきはな。いまはそれほどじゃないが、まっすぐ歩ける自信がない」
「じゃ、じゃあ僕につかまって下さい。うちに部屋が用意してありますので……」
「お前さんじゃ、一緒に倒れちまうよ」
苦笑して戦士は細い少年を見た。
「そんなに気にしなくても、数十分で歩けるくらいにはなるだろう。部屋は有難く借りることにする。お前は先に……うん? そうだ、シィナはどうしたんだ」
「協会で、話をしてもらってます」
リダールは説明した。
「サング術師が僕らに話したようなことを話してくれているなら、何かしらの動きはしてくれるものと思います」
少なくとも鼻で笑って追い出すようなことはないはずだ、と少年は言った。
「タイオスがこのまま休んでいるなら、僕、シィナを迎えに行ってきます」
「おう、行ってこい。ああ、すまんがその前に」
「何です?」
「この店の奴らに、俺は魔術師じゃないって説明しといとくれ」
その台詞にリダールはぷっと笑った。
「何ですって」
「灰色連中が奇妙な奴らだってことは判ってもらえたんだが、追い払うのに俺が魔術を使ったとでも思うようでな」
遠巻きにされているのだ、というようなことをタイオスが話していると、入り口から誰かがやってきた。ちょうどいい、とタイオスはそちらを向いて、片眉を上げた。
「何だぁ?」
それは、この店を知らぬタイオスにもひと目で「店の者ではない」と判る出で立ちをした人物だった。
「ラシャ神官」
驚いたリダールがその名を呼ぶ。フィディアルの印章が刺繍された神官服は、リダールの台詞がなくとも彼の身分を物語っていた。
「フィディアル神官か」
タイオスは言わずもがなのことを言って様子を窺った。
「どうしてここへ?」
「理由はいくつかありますが」
ラシャはにこにこしながらタイオスに近づいた。
「最大級のそれは〈白鷲〉殿にお目にかかることです」
「あぁ?」
「こうして面と向かいますと、やはり感じられるものがございますね。独特の気と言うのでしょうか、神に選ばれた者の」
「おいおい、そんなのは勘違いか思い込みだ」
勘弁してくれとタイオスは手を振った。
「いいえ、事実です。騎士団長殿は誤っておいでですね。それともお判りの上であのように仰るのか」
「……あ?」
タイオスはみっともなく口を開けた。
「騎士団長、だ?」
「シャーリス・アンエスカ殿です」
ご存知の通り、と続いた言葉にタイオスは吹き出す。
「な、何であんたがそいつのことを」
「おや、ヴィロン神官が申しませんでしたか。私は先日、シリンドルを訪れているんです」
「聞いてないぞ」
「ぼ、僕も聞いていません」
リダールも目を見開いた。
「失礼をいたしました、リダール様。リダール様が〈シリンドルの白鷲〉殿と懇意とは存じませんものでしたから」
「ちなみに〈シリンディンの白鷲〉だ」
どうでもいいが、と言いながら〈白鷲〉は訂正した。ラシャは謝罪の仕草をした。
「申し訳ない、まだまとめが途中なもので」
「まとめって何だ」
「書を著しているのです」
ラシャは簡単に説明した。
「各地の自然神、土地神に関する研究書となります」
「はあ」
彼はどうにも曖昧な相づちを打った。
「正直に申し上げて、あまり求められる分野ではありませんので、これを完成させたからと言って私の評価は上がりませんでしょう。ですが、いつかきっと何かの役に立ちます」
「はあ」
「いつかきっと何かの役に立つ」くらいなら、何にだって言える。魔術師たちが言うところの「可能性は何にでもある」というやつだ。だが現実的には僅少で、この場合、当人の夢想または妄想にすぎないのではないか。
というようなことを戦士は思ったが、口にはしないでおいた。
(不思議なもんだな)
(イズランが〈峠〉の神に興味があると言えば俺のなかには警戒心が湧くのに、こいつが言っても何も感じない。そうですかどうぞお好きに、ってなもんだ)
この差は何だろう、と彼は考えた。
(結局のところ、奴は魔術師でこっちは神官だから、なのかもしれんな)
(偏見かもしれんが……だからって「平等に接しよう」なんて考える理由もないな)
それは「ラシャを必要以上に警戒することはない」であり「イズランをもっと信頼してやる必要はない」であった。