01 お休みになって
粉々になった、それは〈白鷲〉の護符。
〈白鷲〉とともにシリンドルを離れた護符は、いずれシリンドルに帰ってくる。
それは〈峠〉の神が〈白鷲〉に英雄の資格なしと判じたとき、或いは〈白鷲〉とされた者が死んだとき。
「どういう、ことなのです」
アンエスカは問うた。
「いったい……」
「アンエスカ!」
だがヴィロンが何か言うよりも早く、ハルディールが部屋から飛び出してきた。アンエスカはもうちょっとで「うるさい、引っ込んでいろ」と言うところだった。
しかしながら、彼が言葉をとめたのは、何も自制したためではなかった。
「いまのは〈白鷲〉の! タイオスに何かあったのか!?」
少年は神官を見やった。
「ヴィロン殿、ご訪問くださったことへのご挨拶や、ラシャ殿とのご関係をお尋ねするのは、失礼ながらあと回しにいたします。どうしてあなたがそれを。どういうことなのか、そのことからどうかお聞かせください」
「――陛下?」
アンエスカはまばたきをした。
「こちらへ。アンエスカ、お前も早く」
「ハルディール、様」
瞬時に、アンエスカは理解した。
これはフェルナー・ロスムではない。
「ハルディール様」
彼は繰り返した。
これは、彼の王だ。
「仰せのままに、我が王」
深々と、彼は礼をした。
ただ「こちらへこい」というだけの命令に対する返答としては、ずいぶん大仰なものであった。だがこのとき、示す敬意は、示したい忠義は、これだけでは足りないくらいだった。
目前にいる人物が紛れもなくハルディール・イアス・シリンドルであるという、当たり前であるはずのことがどれだけ喜ばしいことか!
「アンエスカ」
ハルディールもまた目をしばたたき、かすかにうなずいた。
自分の上に起きた出来事の話もあとだと、少年王が声に出さずに言ったのが、まるで魔術師たちの〈心の声〉を聞いたかのようにアンエスカに伝わった。
どうしてかはともかく、いまこの瞬間、この場にいるのは間違いなくシリンドル国王ハルディールその人であった。
そうであるならば理由などはどうでもいいと、アンエスカはそう思った。
「ヴィロン殿、何故、あなたがこれを」
室内に戻り、ヴィロンに座るよう促すと、ハルディールは急いて繰り返した。
「タイオスと会ったのですか」
「会った」
神官はうなずいた。
「私は、ラグールという町でコズディムに仕える者だ。キルヴンの町のフィディアル神官ラシャとは交流があり、ふとしたことで呼ばれたのだが」
「キルヴン」
少年は目を見開いた。
「ナイシェイア・キルヴン閣下のご領地ですね」
「ご存知か」
「以前、カル・ディアを訪れたときに世話になりました」
ハルディールは答えた。
「それから……閣下のご友人にも、とても」
「左様か」
神官は少年王の様子から何かを感じ取ったか、祈りの仕草をした。
「ラシャ殿がキルヴンの神官でいらしたとは存じませんでした」
フィディアル神官はカル・ディアルからきたとだけ言っていた。
「我らはフィディアルに仕えると言い、コズディムに仕えると言えば、それが身の証になる故」
暮らしている町などは関係ないのだとヴィロンは言った。
「キルヴンに、タイオスが? しかし……彼はたった三日前まで、この国に」
アンエスカは首をかしげたが、はっとしたように片方の拳をもう片方の手のひらに打ち付けた。
「『医師』か!」
「医師?」
ハルディールは目をしばたたいた。
「三日前だって?」
「ああ――陛下、その」
こほん、とアンエスカは咳払いをした。
「ハルディール様は、三日間ほど、お休みになっていましたようで」
「三日……」
少年王は繰り返した。その瞳が、ふっと翳る。
「そうか。あの場所にいたのは、三日間か」
「陛下」
アンエスカは気がかりそうに彼の王を見た。ハルディールは少し笑みを浮かべて心配は不要と示したが、すぐに真剣な表情に戻った。
「医師と言うのは?」
「タイオスは事情あってシリンドルを出ましたが、その際、医師と自称する人物を伴いました。しかしおそらく、それが魔術師か何かだったのではないかと……」
騎士団長は正しい推測をした。ハルディールには情報が欠けていたが、彼はこの場でそれを問うことなく、判ったとうなずいた。
「タイオスは魔術師の力でキルヴンへ行った。そこでヴィロン神官と会った?」
「そうなる」
ヴィロンはうなずいた。
「実は」
「陛下」
そのとき、ハルディールを呼んだのは、アンエスカではなかった。彼らは一斉に声の方を見やる。
そこには金の髪をし、左右色の違う瞳を持つ男が立っていた。
「エククシア」
騎士団長は不自然でない程度に、〈青竜の騎士〉とハルディールの間に立った。彼は左腰の剣も意識した。ハルディールが――どうしてであろうと――戻ったいま、この謎の男の言葉を聞く必要もない。
エククシアは、ふっと笑った。まるでアンエスカの考えを読んだかのように。
「いまだけだ」
「――何?」
「何やらカル・ディアルの神官殿がいらしたとか」
エククシアはアンエスカから視線を逸らし、ヴィロンを見た。ヴィロンはわずかに頭を下げた。
「コズディム神の忠実なる使徒、クライス・ヴィロンと申す」
「ふん、神官とはな」
「何か」
ヴィロンは、無感情なままで、エククシアの金目銀目を見返した。
「姑息な業を使ったものよ。だが無駄なこと。道は既に、できている」
エククシアは、ヴィロンにともアンエスカにとも――ハルディールにともつかぬ調子で言った。
「そのかけらは」
まるで自身が王であるかのように、エククシアは尊大な態度で言った。
「〈白鷲〉の護符か。ヴォース・タイオスが死んだとでも?」
「まさか」
ハルディールは首を振った。
「そんなことは……」
「私は」
ヴィロンはアンエスカが持ったままの護符をちらりと見た。
「リダール・キルヴン殿からそれを託された。ラシャ神官がシリンドルを訪れてきたばかりだと話したところ、どうかシリンドルにこれを持って行ってほしいと言われたのだが、彼はキルヴンを離れることができなかったので、代わりに」
「護符とタイオスに何があったかは知らないと仰るのですか」
ハルディールが尋ねれば、ヴィロンは肩をすくめた。
「済まないが」
「いえ、責めるのではありません」
ハルディールは手を振った。
「ですが……それではいったい、何が起きたのか、私たちには判りようがない」
少年王はそっと息を吐いた。
「――あの男が、簡単に死ぬものですか」
アンエスカが呟いた。
「殺したって死にそうにない」
「だが、護符が」
ハルディールも粉々になったそれを見る。
「神は……護符をシリンドルへ帰した」
「それは……」
「生きているにせよ死んでいるにせよ、護符がヴォース・タイオスを離れたということは、あの男はもはや〈白鷲〉ではないということになるのだろう」
エククシアは肩をすくめた。
「生憎なことだ。だが〈峠〉の神は次の〈白鷲〉を選定する。それならば、かまわない」
「神は」
「『かまわない』?」
アンエスカは謝罪の仕草をして、ハルディールの言葉を遮った。
「どういう意味だ」
「〈白鷲〉であるならばヴォース・タイオスでなくともかまわない、と言っている」
「何の……」
「己の王と、しばしの再会でも楽しんでいるがいい、騎士団長。告げておくが、彼の傍らに居続けたければ、これまでのように従順な態度でいるのだな」
金目銀目がアンエスカを捉え、微かに笑った。アンエスカの右手は、剣の柄にかかっていた。
(この男は何を言っている?)
(また……陛下をフェルナーに乗っ取らせることができると、そう言っているのか)
(事実なのか)
その判定はアンエスカにはできない。ただ判るのは、いまこのとき、ハルディールは間違いなくハルディールであるということ。同時に判らないのは、何故、彼の王がもとに戻ったのかということ。
神官が何らかの業でハルディールを取り戻したのだとしても、それは無駄なことだと半魔は言った。一時的なことに過ぎないと。
〈魔物の誠実〉という表現がある。それは「存在しないもの」のたとえだ。魔物の言うことには一片たりとも真実などない、魔物に誠実など期待してはならないという戒めから生じた言葉。
しかし、半魔たるこの男の台詞をみな嘘だと決めつけて、その判断が誤りであれば。
エククシアに対して剣を抜くことが、本当に、ハルディールが二度と戻らぬことに繋がるとすれば。