09 みんな消してしまえ
何の話だった、と問いかける声は、何の前触れもなく小屋のなかに生じた。
聞き慣れない声に仮面の男は少しだけぴくりとして、それから振り返った。
「お前は、アトラフか」
呼んでヨアティアは、じろじろと相手を見た。
「以前とは似ても似つかない顔つきだな」
「外見など関係ない。私は私だ」
ソディの男は淡々と言った。
「本気でそう思うのか?」
仮面の男は肩をすくめた。
「俺は、そうは思わない」
と、彼は仮面を外す。アトラフは顔をしかめた。
「よせ。それにかけた術が消える」
「他人の顔のように見せるとかいう術だったな。消えてけっこうだ、気味が悪い」
ヨアティアは言い捨てた。
「死んだ子供に俺の身体を使われているというだけでも充分すぎるほど不快だと言うのに、仮面を外せば違う顔とはな」
「フェルナーがどうしても仮面を外さざるを得ない状況に陥ったときのための備えだ。何もお前の顔を変えてしまった訳ではないし、数分もすればもとに戻る」
「気に入らないと言っているんだ」
ヨアティアは唇を歪めた。
「説明を聞きたい訳ではない」
「……もっとも、もうその術も必要ない」
仕方なさそうにアトラフは息を吐いた。
「シリンドレンの家系を前面に押し出してこその、神殿長の座だ」
「この俺でなければならないということだな。けっこうなことだ」
ヨアティアは鼻を鳴らした。アトラフはじっとそれを見た。
「伝えておこう、ヨアティア・シリンドレン」
それからアトラフはゆっくりと言った。
「エククシア様は、お前とあの騎士のことをみなご存知だ。〈月岩の子〉に隠れて何かできるなどとは思わぬことだな」
「む」
ヨアティアは顔をしかめた。
「俺は何も、あれと手を組んだつもりなどはない。利用してやろうと言うだけだ」
「無論、そうだろうとも。お前は、エククシア様や私のことも利用できていると思っているのだろうな」
それはたいそうな皮肉だった。ユーソアを利用するつもりが、逆に利用されても気づかないだろうと言うのである。ヨアティアが「全て判っているのだから出し抜こうなど無駄だ」というアトラフの、それともエククシアの言葉にどう返すか決めかねている内、アトラフが続けた。
「だがこちらこそ愚かな騎士を利用してやってもよい」
ソディの若者は口の端を上げた。
「明朝に神殿でということだったな」
「……ああ」
むっつりとヨアティアは認めた。
「騎士の言うことに従うふりをしろ。奴は神殿で『フェルナー・オーディス』を神官たちに知らしめるくらいのつもりでいるのだろうが、そのような必要もない」
「俺がこれを外し」
と、ヨアティアは仮面に触れた。
「正体を明らかにすれば、シリンドレンを支持する者は必ずいる。ルー=フィンもタイオスより俺を支持するのだからな。殊に神殿では、ハルディールやアンエスカが考えているより、父上の体制に戻りたいと思う者たち多いはずだ。奴らは俺とルー=フィンを信じるだろう」
自信たっぷりにヨアティアは言った。それは彼の誇大な想像とも言えなかった。実際、シリンドレンの血の薄い者が神殿長で大丈夫かだの、いまの神殿長は王や騎士団長の言いなりで頼りないだのという声は皆無ではなかった。
神官や僧兵らがそうして、ヨアフォード時代の、言うなれば王家から独立していた状態を懐かしんだのは、変遷のあとに必ず起こる齟齬のひとつだ。変化を嫌い、過去を美化する。何年かすれば駆逐されるか、「年寄りの戯言」で済まされるような。
だがその声はまだ、たとえ一部だとしても、確かにくすぶっていた。
ヨアティアの指摘は決して誤りではなかった。
「演説の文句でも考えておくのだな」
アトラフは手を振った。
「もとより、私は以前から繰り返しこの国を訪れ、主だった者を選んであらかじめ術をかけてある。積極的に支持する声が素早く上がり、賛同者が続けば、人間の心なんて簡単に変わってしまうものだからな」
「だがボウリスはどうする」
ヨアティアは顔をしかめた。
「あれはもともと、シリンドレンから追い出された女の孫と聞く。シリンドレンに従うことをよしとはするまい」
「何、簡単だ」
アトラフは言った。
「その場にいなければいい」
「……は」
ヨアティアは笑った。
「お前もユーソアも、邪魔者はみんな消してしまえという訳だ」
「愚かな騎士の企みが何であるにせよ、明日というのは都合がいい」
アトラフは口の端を上げた。
「幾人か、古参の神官や僧兵に暗示をかけてある。表立っては口にしないが、ヨアフォード・シリンドレンの頃の方がよかったと考えている者たちだ」
「ふん」
反逆者の息子は鼻を鳴らした。
「つまりは奴隷どもだな」
彼は手を振った。
「父上の敷いた体制では、何も考えずに父上に従っていればよかった。楽でよかったという訳だろう。そういう愚者ばかりであればこちらも楽だが、ひとりふたりは頭のある者も欲しいところだな」
その言いようにアトラフはくっと笑った。
「何が可笑しい」
ヨアティアはむっとしたように問うた。
「いいや」
ソディの若者は手を振る。
「〈羽虫が蟻を語る〉とはこういうことを言うのだなと思ってな」
「何だと」
ヨアティアはアトラフを睨んだ。
「貴様」
ぱっと彼は片手を上げた。生意気な若造を少し脅してやるつもりでいた。だがその指先から何らかの力が発せられるより早く、ヨアティアの手は見えない力で下方に押さえ込まれた。
「〈魔術師の腕〉で私に挑むのはやめておくのだな。力を手に入れたはお前よりあとであっても、私とお前では行った努力も才能も違うのだから」
「何、何だと、この……」
ヨアティアは顔を真っ赤にして罵倒の言葉を探したが、アトラフは相手にしなかった。
「勘違いするな。お前の価値は、シリンドレンの血を引いている、ただその一点にあるのだ。ライサイ様は、その血のために、お前に神殿を返してやることになさった」
「『返してやる』だと」
ヨアティアはうなった。
「もともと、俺のものだ!」
「だが捨てた」
「身を守っただけだ」
「保身を図って逃げた。われわれに救われ、力を手にしてから『自分のものだ』などとは片腹痛い」
「恩を感じろとでも言うのか」
ヨアティアは嘲笑した。
「俺を利用したいと考えて救ったのであれば、損得の勘定は合っていることになる。お前たちは俺をシリンドルの王か神殿長に据えておくのが望ましいと、お前たちの利益のためにそう考えた。そのために俺をここに連れ、神殿へ連れようと言う。俺は俺自身のために、本来手にするべきだった地位を取り戻す。そう、損得の一致」
感情に任せて、ヨアティアは一気に喋った。
「借りも貸しもない」
「――いいだろう」
とアトラフが言ったのは、ヨアティアの意見を認めたと言うよりも、「好きに思っていればいい」という意味合いであった。
「明日。騎士の迎えによってであろうと何であろうと、麓の神殿へやってくるがいい。言ったように数名の追随者が必ず出る故、お前の思うように振る舞ってかまわない。時がくれば、さも神がお前を認めたかのように巧く言うのだな」
アトラフは手を振った。
「神殿長の座に就き、王姉を巫女の座から下げて妻に。そういう話だったか」
「ああ」
ヨアティアは肩をすくめた。
「シリンドルとシリンドレン、和解の象徴という訳だ」
言って男は笑う。
「今度こそ、あの小娘が俺のものか。欲しかった訳でもないが、一度は俺のものになるはずだった女が他人に取られるとなれば腹立たしいからな。遠慮なく、いただこう」
「だが」
アトラフはすっと窓の向こうを見た。
「全ては、幻夜を留め終えてからだ」
「何でもいい」
ヨアティアは手を振った。
「俺が神殿長になれば、お前たちの都合のいいようにしてやる」
「――裏は表に。影は光に」
ソディの男は呟いた。
「ライサイ様とソディに栄光あれ」
ヨアティアがそれに唱和することはなかったが、かと言って〈峠〉の神への祈りも口にすることのないまま、彼は手に入るもののことだけを考えた。