第7話 友達同士の耳かき
突然サユリが指で耳をほじくり始めたのは、私の部屋で楽しく談笑している時だった。
定期テストが終わって思う存分羽を伸ばしたい私たちだったが、しかしバイトもできなかったので悲しいことにお金がない。だからショッピングに行くでも映画を見るでもなく、家の中でお菓子をつまみながら恋バナに花を咲かせていたのだ。
「どしたの? 大丈夫?」
私がオレンジジュースを飲みながら聞くと、サユリは頭を左右に振りながら「んー」と力なく答えた。
「わっかんない。何だか耳の中でゴロゴロいってて。すっごい気になるけど、別に痛くはないんだよねぇ」
サユリは首を右に傾けると、頭の左側を手のひらでポンポンと叩いた。
どうやら耳垢を落とそうとしているらしい。それを見て私はひとりで大笑いしてしまった。
「さすがに耳垢がそんなんで落ちるワケないんじゃない? それだったら電車の中とか、耳垢まみれになってるよ」
私は冗談めかして言う。しかしサユリはクスリとも笑わず、神妙な面持ちで「んー」と唸り続けていた。
「そんなに気になるなら、耳かきしてあげよっか?」
私はテーブルに置いてあるクッキーに手を伸ばした。口元に持っていって食べようとした時、サユリが「本当?!」と大きな声で言った。
その声量にビックリして、思わずクッキーを手元から落としそうになってしまう。
「そんなにテンション上がるもん?」
私はクッキーを齧りながら言った。
サユリは思ったよりも大きな声を出してしまった事に自分でも驚いたのか、手のひらをブンブンと振りながら弁解を始める。
「や、違うの。手先が不器用だから今まで耳かきしたことなかったんだけど、実は耳かきにずっと憧れてて。でも今さら両親に頼むのも恥ずかしいし、でもしてくれる彼氏もいないし。だからずっと我慢してきたんだけど、それが――」
サユリがそこまで捲し立てたところで、私は笑いながら「分かった分かった」と早口を制した。
「つまり、耳かきをしてもらえるのが嬉しいってことね」
私の総論を聞いて、サユリは「まぁ違わないけど……」と口をすぼめた。どうやらまだまだ語りたいことがあったらしい。
しかしそんな謎の弁解を聞かされ続けては敵わない。私は「耳かき取ってくる」と言うと、足早に部屋を出ていった。
私も普段耳掃除をする習慣がないから、部屋に耳かきはない。
だからリビングにある家族共用の耳かきを使う他なかった。
父親のデスクの上にある木製の耳かきを手に取る。
両親が外出中でいないから、耳かきを調達するのは簡単だった。
そのまま部屋に戻ろうとした私は、しかし「さすがに不衛生かな?」と思った。
家族同士なら気にならないけど、さすがに他人であるサユリは気にするだろう。
そう思った私は、ダイニングテーブルの上にあるアルコールティッシュも何枚か拝借した。
それで耳かきの匙の部分を拭きながら部屋に戻る。
「持ってきたよ~。ちゃんと綺麗にしてるから安心してね。ほらっ」
私はアルコールティッシュで匙を拭く仕草をサユリに見せつけた。
するとサユリは「今さらそんなの気にしないよ」と笑って答えた。どうやら長年の幼馴染だけに、サユリも准・家族みたいに思ってくれているらしい。
「でさぁ。どんな感じで耳かきする? 実は私も人にしてあげた事はないんだよねぇ」
指先で摘んだ耳かきをプラプラと振りながら、私はサユリに問う。
耳鼻科みたいに椅子に座ってもらうのか、それともベッドで横になってもらうのか。どっちが王道なのかも分からなかった。だって人が耳かきしているところなんて、滅多に見ないし。
私の問いに対して、ずっと耳かきに憧れていたというサユリは「そりゃあベッドで横になってだよ」と答えた。
「専門の器具がないと、照明が上になる体勢以外は難しいんだよね」
「専門の器具? そんなのあるの?」
「あるよ。あれだよあれ、頭に付けるライトみたいなヤツ」
そう言ってサユリは、おでこの前で手をグーパーさせた。ライトを表現しているらしい。
「あぁ、なるほどねぇ」
私は頷いた。そういえば子どもの頃、耳鼻科に行くと先生がそんなライトを付けていた気がする。
それにしても、そんな発想がすぐに出てくるなんて、どうやらサユリは私が思っていたより耳かきに興味があるみたいだった。
「ってことで、ベッドにお邪魔させてもらうねぇ」
そう言って、サユリは私のベッドの上でゴロンと横になった。
サユリとは長い付き合いだから、もはや気遣いなしである。
もちろん私も細かいことは気にせず、サユリの近くに腰を下ろした。
「じゃあ耳かきするから、横を向いてくれる?」
私が言うと、サユリはベッドの上でもぞもぞと動いて顔を近づけてきた。
「はーい。これでどう?」
サユリが横顔を私に晒す。
私は前屈みになって、サユリの耳の中を覗いた。私が影になってしまうから少し暗くなるけど、角度を調整すれば問題なく耳かきはできそうだった。
「ん。問題なさそう。それじゃあ始めるけど……あんまり腕は期待しないでよ?」
私はサユリに忠告した。普段から自分の耳かきをしているからって、他人にも同じようにできるとは限らない。
むしろ自分でやるのと他人にするのとでは、勝手が全く違うとさえ思う。
「別にいいよー。血さえ出なければ、ねー」
サユリは間延びした口調で言った。すでにリラックスモードに入っているらしい。
「あんた、私のこと信用しすぎでしょ」
突っ込みながら、サユリの耳かきを始める。
暗くて中が見えないから手探りだけど、少し掻くだけで大量の耳垢が発掘された。
「……あんた、いつから耳かきしてないの?」
「んー、いつからだろ。少なくとも中学に入ってからはしてないなぁ」
私はそのサユリの言葉が嘘ではないことを、取れた耳垢を見て確信する。
耳かきの先端には「これでもかっ」と固まった耳垢が大量に乗っている。普段からちょくちょく耳かきをしている私は、たった数週間そこらでこんなに耳垢が溜まらない事を知っていた。
「これだけ溜まってたらさぁ、声とか聞こえにくくならない?」
「どうだろー。でも呼ばれた時にすぐ気づかないことはあるかなぁ。『さっきから呼んでたのに』って言われたり」
「そうだ。そういや呼んでも気付かないこと、結構あったわ」
私はサユリのズボラさに呆れてため息をついた。
いくら不器用で耳かきがしにくいとはいえ、綿棒を使うとか、それこそ私みたいな友だちにもっと早く頼むとか、色々と方法はあっただろうに。
――でもまぁ、アレか。耳かきをしてほしいって言うの、なかなか難しいよね。よっぽどの仲じゃないと。
そんな結論を導き出した私は、自分が『よっぽどの仲』である事に気付いて、少し嬉しくなった。
「んー、ちょっとそこ、かなり痒いかなぁ」
不意にサユリが声を上げる。どうやら私が掻いている場所に耳垢があるらしい。
頑張って覗き込むも、中は全く分からない。
「ここ?」
仕方なく私は、耳かきを動かして耳垢がある場所をサユリに確認した。
サユリが「そこそこ」と小さく答える。確かに耳かきを少し動かしただけで、先端に硬い何かが当たっているような感触がした。
「オッケー。ちょっと静かにしててね、集中するから」
言って、私は全神経を指先に集中させた。
普段自分の耳かきをする時だって、耳の中は分からない。しかし耳かきから伝わる感触だけを頼りに、問題なく掃除できている。ならば今だって問題なくできるハズだ。
指先に神経を集中させると、私は目を閉じて脳内で耳の中を思い浮かべた。
耳かきで掻いても全く動かないところを見ると、かなりベットリと壁にへばり付いているらしい。これは大物だ。
耳かきを慎重に奥へと進ませて、耳垢の端を探す。
さすがに奥に入れすぎだろう――と思ったところで、不意に突っかかりがなくなった。どうやらここが耳垢の端らしい。
耳かきを少し壁側に寄せると、そのまま少しカリカリっと掻き始めた。
大きな耳垢を掻いている振動が、耳かき越しに私にも伝わってくる。
「なんか、ゴリゴリ言ってる」
サユリが眠たそうな声で呟いた。
しかし眼の前の大物に集中している私は、サユリの言葉を聞き流しながら耳かきを続ける。
「うーん……なっかなか取れないなぁ……」
思わずため息が漏れてしまう。カリカリと小気味いい音は立てているものの、一向に取れる気配がない。
どうやらかなり強力にくっついているようだ。
しばらく悪戦苦闘していた私は、あることを思いついた。
「ごめん、ちょっと待っててくれる?」
サユリに言ってから、私は棚のメイクセットから毛抜きを取り出した。
毛抜きといっても先端が平べったいものではなく、ピンセットみたいに尖っているものである。
「これなら、耳垢を掴んで取れると思うんだよねぇ」
毛抜きを持ったままベッドに戻ると、サユリが「わっ」と声をあげた。
「それ、ピンセットじゃん。なになに、そんなに上級者だったの?」
「ピンセット持ってたら上級者なの? というかこれ、毛抜きだよ。先端細いからピンセットみたいだけど」
言いながら、私はまたもやサユリの耳の中を覗いた。
さっきと相も変わらず、大きな耳垢が壁にベッタリとこべりついている。
その耳垢に対して、毛抜きの先端を伸ばす。
先端で大きな耳垢をガッチリと掴むと、ゆっくりと持ち上げた。
「んっ、ぁぁあぁ」
耳垢を持ち上げた瞬間、突然サユリが今まで聞いたこともないような呆けた声を出した。思わず手が止まる。
「ごっ、ごめん。痛かった?」
「ううん、違うの。ゴゴゴって、耳垢が動く音がしたから。それが気持ちよくって」
「あぁ、そういうことね」
サユリの言葉に納得した私は、また手を動かし始めた。
耳垢が動いただけで気持ちがいいのは、私も何度か経験があるから気持ちが分かる。
でもそんなものより、この大物が取れた方がきっと何倍も気持ちがいいだろう。
深呼吸をしてから、慎重かつ大胆に耳垢を引っ張り上げる。
――ベリッ。
私には聞こえるハズもないそんな音を立てながら、サユリの耳から大きな耳垢を掘り上げた。
「うっわ~。すっごいよ、これ」
毛抜きの先端で掴んでいる耳垢を見つめながら、私は感嘆の声を漏らした。
さっきまで耳の中に入っていたとは思えないほど平べったい耳垢がそこにはあった。
普段ならそのままゴミ箱に捨てるけど、ついつい広げたティッシュの上に保管してしまう。
「なぁに、そんなにおっきかったぁ?」
サユリがモゾモゾとベッドから起き上がる。そして布団の上に広げたティッシュを見るなり「わっ!」と大きな声を出した。
「すっごい! 大物だよ、これは!」
そしてサユリはティッシュの両端をやさしくつまむと、そのまま目の近くまで持ち上げた。
「こんなに大きいのが入ってたんだぁ。そりゃあ耳も痒くなるよねぇ」
サユリはうんうんと、何かを納得するように頷いた。
「そりゃあねぇ。それより、まだ細かいのあるから。早く寝っ転がって」
大物を掘り上げてテンションの上がっている私は、急かすようにサユリに言った。
サユリも耳かきされるのが嬉しいのか、急かされているのに文句も言わず横になった。
――これからも定期的に、耳かきをしてあげるのもいいかもしれないな。
そのためには、サユリが一人で耳かきをするコツを聞いてきたら、断固として止めないと。
木製の耳かきに持ち替えた私は、横になっているサユリを見下ろしながらそんなことを思った。