第2話 退院直後の耳かき(前編)
軽い交通事故で足を骨折してしまった俺は、四週間近く入院することになった。
入院は気楽――という俺の想像はものの見事に打ち砕かれ、狭い大部屋で窮屈な日々を過ごしていた。
とにかくお風呂が週三回なのが辛い。
普段は一日二回は湯船に浸かるほどのお風呂好きなのに、入院中は自由に入れない。
さらに入浴時間が十五分と決まっていて、全くゆっくり出来ないのもストレスが溜まるポイントだ。
そんな鬱々とした日々を乗り越え、ようやく退院して自宅に戻った俺は、思う存分湯船に浸かった。
普段は使わないような高級な入浴剤をドラッグストアで買い、浴室に防水のBluetoothスピーカーまで持ち込む始末だ。
鼻歌を唄いながら湯船でどっぷりと汗をかいた俺は、洗面所にある綿棒を見て、入院してから一切耳かきをしていない事に気付いた。
――そういや、四週間も耳かきをしていないのって初めてじゃないか?
もともと耳かき好きであった俺は、毎日のように耳かきをするのが習慣だった。
しかし入院をしてしまうとそうもいかない。売店に綿棒は売ってないし、家族に頼むのも恥ずかしい。
結局はこの四週間、半ば強制的に耳かきを封じられていたのだ。
入院中は毎日がストレスの連続で全く気にもしていなかったけど、耳かきを意識した途端に耳がむず痒くなってくる。
俺は髪を乾かすのもそこそこに、綿棒のケースを持って洗面所を出た。
そしてリビングのソファーに飛び込むと、そそくさとケースから綿棒を取り出す。
親指と人差し指でしっかりと綿棒を掴んで、そのまま右耳の穴に突っ込んだ。
ガサッガサッガサッ――。
綿棒を耳穴に入れた瞬間、大小様々な耳垢とぶつかるような音がして、思わず身震いしてしまう。
ここまで"獲物"が溜まったのはいつぶりだろうか。いや、いつぶりなんてものじゃない。初めてなんじゃないだろうか。
いつもは暇さえあれば耳かきをしていたからなぁ。
さすがに歯磨きをしながら綿棒で耳かきをしていた時は、自分でも病的だと思ったぐらいだ。
などと考えているうちに、身震いが収まる。
それを待ってから、再び綿棒を耳の奥に入れ始めた。
ゴチャッ、ヌチャッ、ゴチャッ――。
乾燥しがちな俺の耳垢も、お風呂の湿気とシャワーによってかなりフヤケているらしい。
綿棒を取り出すと、先端の綿の部分に黄色い塊が付着していた。四週間も放置していたから、真っ黄色になっている。
久しぶりに"獲物"を見た俺は、興奮冷めやらぬまま綿棒を取り替えて再び耳穴に入れた。
普段は反対側の綿も使って耳かきするけど、今日に限っては獲物が大きすぎるからすぐに綿棒を取り替えた。
さすがに四週間も温めた"獲物"に直接触れるのは抵抗があったからだ。
あれだけ汚かった耳の中も、二本三本と綿棒を取っ替え引っ替えすれば大分キレイになる。
四本目の綿棒に至っては、ほとんど耳垢が取れていなかった。
しかしこんなに綿棒で掃除しても、耳の中の違和感は消えない。どこかに大物が潜んでいる予感をヒシヒシと感じていた。
――うーん……。どこにあるんだろう?
綿棒をまた耳奥に入れる。しかし先端の綿には何も引っかからない。
このまま綿棒で掃除を続けても埒が明かないと思った俺は、今度は棚の引き出しから竹製の耳かきを取り出した。
ミミカキスト御用達の『匠の技』だ。今までいくつもの"大物"をこれで引き上げてきたか、今ではもう覚えていない。
――四週間も耳かきをしていない耳。
さっき綿棒であらかた取ったとはいえ、すべて取り切れているとは思えない。ひょっとしたら、とんでもない大物に出会えるのではないか。
期待を胸に、俺は意を決して『匠の技』を耳の穴に突っ込んだ。
そして右上あたりの壁を『匠の技』の匙で何回か弾くように掻く。ここは俺が何度も大物を見つけ出してきた『穴場スポット』だった。
ガリッ――。
見事に硬い耳垢と遭遇する。俺は思わず笑みをこぼしていた。
やはりこの穴場スポットだけは裏切らない。今まで獲物がなくてへこんでいたとき、いつもここに立ち戻れば大物が待っていた。今日もそうだったのだ。
お風呂に入ったのにここまで硬いってことは、並大抵のことでは取れないだろう。
俺は一度『匠の技』を取り出すと、おもむろに深呼吸をした。ここから先は集中力と根気の勝負だ。少しでも気を抜くと、たちまち大物が鼓膜の近くへとダイブしてしまう。
ガリッガリッガリッ――。
何度も耳垢を掻く。時には薄皮を剥がすようにゆっくり、時には岩を砕くように素早く。
何の効果があるのか知らないけど、耳かきをする時には緩急をつけるのが俺の癖だった。
ガリッッッッ――!!
耳垢が取れたような、大きな音が聞こえる。
俺は匙に乗っかった耳垢が落ちないように、慎重に引っこ抜いた。
耳穴から取り出した『匠の技』を見ると、匙には大きな耳垢が乗っていた。
真っ黄色で、耳垢が何層にも重なっているように見える。四週間近くも耳垢を溜めているとこんな風になるんだな、と感慨深くなる。
ジーッと匙の上の大物を眺めていた俺は、ふとある事に気付いた。
――綿棒をやった後でこれなら、まったく触っていない左耳はどうなっているんだろう?
思わずゴクリ、と喉がなる。
左耳に小指を突っ込んでみると、すでに中は乾いていた。今なら耳垢も乾燥しているから『匠の技』でも十分に耳かきできるだろう。
俺は『匠の技』を左手に持ち替えると、そのまま耳かきを再開した。




