第1話 同級生と、教室で。
プリントを解き終えた僕は、シャーペンを机に置きながら時計をちらりと見た。
今は十一時三十分。先生がプリントを取りに来るまで、まだ二十分も時間が残っている。
教室の中央の机に座っていた僕は、視線を窓の外に向けた。赤々と照り輝く太陽が、眩しく教室内を照らしている。
外のグラウンドからは、野球部らしき人たちの掛け声が聞こえてきた。
――どうしてこう、せっかくの夏休みに補習なんかしないといけないのかな。
手持ち無沙汰になった僕は、いつもの癖で右手の小指で耳をほじくる。そして思考に耽った。
――まぁ僕の成績が悪いのが原因なんだけど。でも試験の前に熱を出しちゃったら、苦手な教科で赤点ぐらい取っちゃうよ。
などと内心で愚痴をこぼしていると、右手の小指が「ガリッ」と硬いものに当たった。
どうやら耳垢にぶつかったらしい。
――うおっ、これは結構な大物だぞ。
耳垢が見つかって嬉しくなった僕は、先生が来るまでの二十分をこの大物に費やすことに決めた。
本当は耳かきでガリガリっとしたいところだけど、さすがに学校に耳かきは持ってきていないし。ここはひとつ、小指で勝負と洒落込もう。
小指を奥へ奥へと突っ込む。
しかしいくら小指と言えども、耳の穴よりは確実に大きい。最奥までは入りきらず、爪先で硬くなった耳垢を引っ掻くのが精一杯だった。
――うーん、これは結構苦戦しそうだぞぉ。
とはいえ、取り難い獲物を前にして気持ちが昂ぶるのが耳かき好きというもの。僕は鼻息が荒くなるのも押さえずに、ゴリゴリと小指を耳に突っ込み続けた。
「……あの」
そんなことをしていると、突然後ろから声を掛けられた。
狭い教室に響く少し高い声。それは間違いなく、右斜め後ろに座る女の子から発せられたものだった。
耳から右手を引っこ抜くと、後ろに振り向いた。
「なんですか? どうかしました?」
その女の子とは初対面だったから、敬語で話しかける。
髪こそ染めてはいないけど、ギャルっぽい色黒の女の子だった。
「さっきから耳を掻いてるけど……もしかして、痒いの?」
女の子が僕の耳を指差す。その言葉にハッとした。
てっきりプリントに集中しているからバレないと思っていたけど、耳をガリガリと掻いている姿を見られていたようだ。
「あぁ……ごめん。気をつけるよ」
それだけ言って、前を向く。女の子がタメ口を使ってきたから、僕もそれに倣った。
前を向くなり、僕は目元を押さえて少しうなだれる。
――やってしまった。けっこう可愛い娘なのに、絶対に変な人だと思われてしまった。
この教室には、僕とその女の子しかいない。一年生の夏休み前のテストで赤点を取る不届き者なんて少ないのだ。
だから油断して耳をほじくってしまったけど……失敗だった。もし変なことをしていなければ、この機会に仲良くなれたかもしれないのに。
――まぁ良いか。どうせクラスは違うし、何より夏休みに補習を受けるような男が、かわいい娘と仲良くなれる筈もないだろう。
そう開き直ると、さっきの失態が無かったことになったようで、幾分か気が楽になった。
とはいえさすがにまた耳をほじくる気持ちにはなれない。結局耳に違和感を抱えたまま、残りの補習時間を過ごす事になってしまった。
それから十数分が経って、先生がプリントを回収しに来る。
先生が一言二言話して補習がお開きになった直後、僕はすぐに帰り支度を始めた。
今は一刻も早く、家に帰ってお気に入りの耳かき『匠の技』で耳をほじくりたかったのだ。
「……ねぇ」
リュックサックを背負って教室を出ようとした瞬間、いきなり右斜め後ろの女の子から話しかけられた。
まさかまた話しかけられるとは思っておらず、一瞬ビクッと身体を震わせてしまう。
「……な、なに?」
ぎこちない笑みを作って、僕は女の子に問いかける。
女の子は少し神妙な面持ちをして、僕の目の前に立っていた。
――どうしたんだろう。別に同じクラスでもないし、話すことなんてないと思うんだけど。
僕が訝しんでいると、女の子が手に持っている細長い物を見せてきた。
それは竹製のようで、先端には細い匙がついていた。これは間違いない。
――匠の技だ。この女の子は、耳かきを持っているのだ。
どうして女の子が耳かきを持っているのか理解できない。
しかし僕が好きな耳かきを女の子も持っている事が嬉しくって、思わず口角を上げてしまっていた。
「さっき、耳を掻いてたじゃない? だから耳が痒いのかなって」
「あ、あぁ。実はそうなんだ。だから早く家に帰って、耳かきをしようと思っててさ。その耳かき、良いよね」
女の子が持っている匠の技を指差しながら僕は言う。
それにしても、学校にまで耳かきを持ってきているなんて、相当な耳かき好きだ。
学校だと耳かきできる場所なんて、トイレぐらいなものだと思うけど。
「うん。うちは弟と妹がいるんだけど、二人とも耳かきが好きでさ。うちがしてあげてる内に、自分まで好きになっちゃって」
「へぇ~。兄弟がいるんだ」
それを聞くと、さっきまでギャルにしか見えなかった女の子が「家庭的な娘」に見えてくるから不思議だ。
言われてみれば、長女っぽくて姉御肌な気がする。
「そう。……でさ、もしよかったらどう?」
そう言って、女の子は僕に耳かきを差し出してきた。
その申し出を、僕は慌てて断る。
「いやいや。それってキミのものでしょ? だったら使えないよ」
いくらなんでも、女の子が使っている耳かきを使い回すのはご法度な気がする。
何ていうか、歯ブラシを使い回すのと同列な感じがした。
「……別に、アルコールで拭いてあるから汚くないよ?」
「別に汚いとかじゃなくって、女子が使っている耳かきを使うのはさすがに気が引けるというか、なんというか……」
弁明しながら胸の前で腕を左右に振った瞬間、いきなり右耳から「ガサッ」という音がした。
思わず右耳を押さえ込む。どうやらさっき小指に当たった耳垢が動いてしまったらしい。ううー……っ。早く耳かきがしたい。
「どうしたの? もしかして耳垢が溜まってるの?」
女の子の問いに、僕はゆっくりと頷いた。
あまり急激に動くと、耳垢が奥に落ちてしまいそうな不安があったからだ。
「だったら、今すぐ耳かきしちゃおうよ。鼓膜の近くにでも入り込んじゃったら、しばらく不快な気持ちになるでしょ」
女の子は言いながら、スクールバックから『匠の技が入ったパッケージ』を取り出した。
それを見て、思わず目をひん剥いてしまう。どうしてこの娘は、新品の耳かきを持ち歩いているのか。
「匠の技って、気持ちいいけど細いでしょ? よく折れるから、予備をいつも持ち歩いているんだ」
匠の技のパッケージに付いている小さいセロハンテープを外すと、女の子は新品の耳かきを一本取り出した。
匠の技は二本一組になっているから、もう一本はそのままパッケージに入れておくつもりらしい。
「さっ。これなら文句はないでしょ?」
ニッコリと。女の子は微笑みながら、僕に耳かきを見せてきた。
☆
補習後の教室。僕はグラウンドから聞こえる「カキーン」というバットの打球音を音を聞きながら、四つ並べた椅子の上で横になっていた。
――どうして、こうなってしまったんだろう。
女の子から耳かきを受け取るとき、雑談のつもりで「不器用だからあんまり耳かきしても意味ないんだよね」と言ってしまった。
すると女の子が「だったらうちが耳かきをしたげる」と提案してきて、あれよあれよと言いくるめられたのだ。
「じゃあ、耳かきしていくね。痛かったらすぐに言ってね?」
女の子は僕の背中越しにそう言った。いま僕は女の子に背を向けて横になっている。
さすがに正面を向いていると、女の子が椅子に座ったときにスカートの中が見えてしまいそうで怖かった。
「うん、よろしく頼むよ」
僕はまるで「いつも耳かきしてもらってる」みたいなテンションでそう言った。
何だかすべてがいきなりのこと過ぎて、現実味がない。
やがて後ろからティッシュを取り出した音が聞こえると、耳にひんやりとしたものが当たる。
どうやらウェットティッシュで耳を拭いてくれているらしい。やけに本格的だ。
ゴシュッ、ゴシュッ、ゴシュッ――。
女の子の操るウェットティッシュが、耳の裏や溝まで丁寧に拭いてくれる。
マッサージも兼ねているようで、ときどき心地良い刺激が耳を襲った。
「……随分と本格的だね。いつもこうなの?」
マッサージが気持ちよくて少し眠くなった俺は、目を覚ますために女の子に問いかけた。
さすがに初対面の間柄で、耳かきの最中に居眠りをする図太い神経は僕にはなかった。
……いや。初対面の女の子に耳かきをさせているだけで、かなり神経が図太い気もするけども。
「いつもこうだよ。小さい子だと、結構耳の溝に垢が溜まったりするから。耳かきで擦るより、こっちの方が安全だしね」
そう言って女の子はなおもウェットティッシュで耳を掃除する。
「そうなんだ。そういえば兄弟って、いくつなの?」
「妹が小六で、弟が小四」
「へぇぇ。結構離れてるんだ」
「そうかも。弟はそろそろ思春期に入りそうだから、耳かきしてあげられるのも後少しかも」
「どうかなぁ。意外と男って、お姉ちゃんには何歳でも甘えるもんかも知れないよ」
などと雑談をしている内に、女の子が耳かきに持ち替える音がする。
どうやらこれから耳かきが始まるらしい。
――そういえば、最後に耳かきをしてもらったのっていつだっけ。小学生のときにお母さんにやってもらったのが最後な気がするけど。
シュリッシュリッシュリッ――。
耳かきが、僕の耳の溝を優しく擦る。
普段は耳かきしないところを刺激されているから、心地よい。
「けっこう取れた。随分と溜め込んでたんだね」
女の子が楽しそうに言う。どうやらこの娘もミミカキスト――耳かき愛好家らしい。
まぁそうじゃなかったら、僕に耳かきしたいだなんて言い出さないか。
「取れた? でも溝を掻いてただけだよね?」
「うん。意外とここ、汚れるんだよ」
そう言って、女の子は僕に耳かきの匙を見せてきた。
そこにはこんまりと、黄色い耳垢が盛られている。横になったまま、思わず肩をふるわせた。
「えっ。こんなに取れるの? だって耳の中じゃないんだよね? それにさっきティッシュで拭いてくれてたじゃん」
「こびり付いてたからね。拭いただけだと取れなかったのかも」
女の子はまたも耳の溝を掻き始めた。
耳の奥にデカい大物がひとつだけ鎮座してるイメージだったけど、どうやら耳全体が汚いらしい。
――話が変わってきたなぁ。途端にこの状況が恥ずかしくなってきた。
この娘も娘である。知らない同級生の汚い耳を掃除して、気持ち悪くならないのだろうか。
しかしそんな不安も、すぐに払拭される。
いよいよ僕の耳の中を覗いた女の子が「大きいのいるよ!」と弾んだ声ではしゃぎ出したのだ。
ミミカキストにとって、汚い耳はむしろ好物らしい。
そう思うと、恥ずかしい気持ちが徐々に薄れていった。
「大物がいるの? どんな感じ?」
僕の質問に、女の子はすぐに答えない。
女の子の息遣いがすぐ近くで聞こえてくるから、耳の中を凝視している最中なのだろう。
「うーん……何か、すごい感じ! 耳壁にへばり付いてて、ちょっとめくれてるの。この部分から掻いたら、全部一気に剥がれそうな感じっ」
そう言って、女の子が楽しそうに僕の耳に匠の技を入れる。
ゴソッゴソゴソゴソゴソッ――。
その瞬間、まるで地鳴りのような音が耳中に反響した。
相当な大物に耳かきが触れているらしい。
ガリッ――ガリッ――ガリッ――。
耳かきの匙が、僕の耳垢を何度も掻く。
しかしよほど硬くなっているのか、全然取れそうな気配がしなかった。
「どう? 取れそう?」
「んー、ちょっと待ってね。けっこう、頑固かも」
言いながら、女の子はなおも耳を掻き続ける。
「取れなかったら無理しなくてもいいよ。大変だろうし」
「全然。むしろこれぐらい強敵な方が、取れた時に感動するからっ」
女の子は嬉しそうに言った。
そうだった。ミミカキストにとって、耳垢の取れにくさと取れた時の感動は比例するのだ。
「生粋のミミカキストだねぇ」
思わずそんな言葉が口から出てしまった。
女の子も当然「ミミカキスト」という言葉を知っていたのか、ふふっと小さく笑ってくれた。
ガッガッガッガッ――。
さっきよりも音が大きくなる。もう少しで取れるような予感がした。
ゴリッ。
大きな音を立てて、一気に開放感が耳の中を満たす。
大物が取れた。そう確信した。
「どう? どんなのが取れたの?」
耳の穴から耳かきが出たのを確認してから、俺は身体を起こして半身を捻った。
女の子が握っている耳かきの匙には大きくて真っ黄色の耳垢が乗っている。まるで和紙みたいに硬そうな印象だった。
どうやらこれが僕の耳の中で悪さをしていたらしい。
――そりゃあ痒くなる筈だよなぁ。
僕はそう思いながら、いつもの癖で右手の小指を耳の中に入れた。
さっきまで触れていた耳垢は、もうない。
「ありがとう、助かったよ。おかげで痒いのがなくなった」
そう言いながら椅子から立とうとした僕を、女の子が片手で制す。
「まだ、残ってるから。横になって?」
女の子は笑顔で言った。どうやらまだ耳垢が残っているらしい。
しかしこれ以上はさすがに申し訳ない――と断ろうとしたが、すぐに思い直した。
ミミカキストのこの娘にとって、耳かきを途中で取り上げることこそ、一番してはならない事だと思ったのだ。
なのでそのまま大人しく椅子の上に横になる。
そしてまた耳かきが入ってくるのを待ちながら、僕はある事に気付いた。
「――そういえば、さ。名前……なんていうの?」
そうなのだ。僕は耳かきをしてもらっている癖に、この娘の名前すら知らない。
成り行きで耳かきをしてもらう事になったから、聞く暇がなかったのだ。
「うちの名前? 知りたいの?」
女の子が当たり前の事を聞いてくる。
僕は横になったままの姿勢で「うん」と答えた。
「そっか。それじゃあね……」
女の子の声が僕の耳元に迫る。小さい息遣いまで聞こえてきた。
「――やっぱり、内緒」
そう言って、女の子は「ふふっ」と笑う。
「なんでよ。何で教えてくれないのよ」
僕が抗議しても、女の子は名前を教えてくれなかった。
そのまま僕の耳たぶを掴むと、耳かきを続けてくる。
――ずいぶんと、不思議な女子だなぁ。
お互いの名前すら知らないのに、こうして丁寧に耳かきをしてくれる。
こんな女の子、普通はいないだろう。
大体普通だったら、同級生の耳に触れることすら気持ち悪い筈だ。
いくらミミカキストといっても、そこは限度があると思うし。
やがて耳かきが終盤になったのか、女の子が耳に綿棒を入れてきた。
コシュッコシュッコシュッ――。
竹製の耳かきとはまた違う感覚が耳を刺激して気持ちいい。
思えば、最近は綿棒のことを軽視していた。耳掃除は竹製の耳かきこそ正義だと思っていたのだ。
しかしこうして久しぶりに綿棒で耳かきをすると、かなり気持ちいい。
綿が耳壁を擦るたび、言いようもない快感が身を打ち震わす。
「――ねぇ」
何回か綿棒が出し入れされた後、ふと女の子が呟く。
僕は眠りそうになっていた眼を開けて、女の子の声に集中した。
「――もう片方の耳が終わったら、名前……教えてあげるっ」
女の子は、僕の耳元で囁くように言ったのだった。