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月野郵便、今宵も配達中  作者: 百川 凛
2.春の秘密箱
20/47



 ……美菜が死んだ。



 それは突然の訃報だった。バイト先から連絡がきた瞬間、文字通り目の前が真っ暗になった。


 過労による貧血で階段から落ちた美菜は頭を強く打って病院に運ばれたらしい。打ち所が悪かったようで、搬送先の病院で帰らぬ人となった。


 何がなんだか、もう訳がわからないまま通夜も葬儀も終え、春子はすっかり抜け殻のようになってしまった。


 娘が親の自分より先に死ぬなんて、一体誰が考えよう。それもこんなに突然に。あの子はまだ……まだ結婚すらしていないというのに。


 胸に渦巻くのはあの男への憎しみだけ。狭い部屋の一室で美菜の写真を見ていると、とっくに枯れたはずの涙が音もなく出てきた。


「おばあちゃん? どしたの? イタイイタイしたの?」


 部屋に入ってきた桜の小さな手が春子の頭をそっと撫でる。


「なんでもない。なんでもないんだよ、桜。ありがとうね」


 春子は桜をぎゅっと抱きしめた。


 ……この子が、桜だけがアタシの希望だ。美菜が残してくれた、たったひとつの最後の希望。だから何があっても、どんなことがあっても、桜だけは守ってみせる。


 春子は固く心に誓った。




────

───

──





 美菜が死んで半年以上過ぎた頃、あの男が家にやって来た。


 時間がかかったけど海外での事業が成功してようやく両親を説得出来た、美菜と今すぐ結婚したい、と。顔を綻ばせ、息を弾ませて。


 ……何を言ってるんだ、この男は。


 何も知らないくせに。美菜が今までどんな思いで過ごしてきたのか、どれだけ苦しかったのか、辛かったのか。子どもを一人で産んで育てるという覚悟が、どれほどのものだったか。その苦労を一ミリも知らないくせに。今頃のこのこ現れて、結婚?


 カッと頭に血が上るが、出てきた声は自分のものとは思えないほど冷たく、冷静だった。


「………………美菜は死んだよ」

「……え?」

「働き詰めで無理して倒れて、そのまま」

「な、にを……」


 サッと男の顔から血の気が引いた。


 その狼狽える様子を見て、自分の中の何かがプツリと切れた。


「アンタのせいだ! アンタがいつまでも迎えに来ないから!! だから美菜は……!!」

「待って下さい!! どういうことですか!? 死んだって……美菜が……どうして!?」

「アンタのせいだよ!! アンタのせいで美菜はウェディングドレスも着られないまま幸せな家庭も持てないまま死んだんだ!! いつまでも来ない最低なアンタを信じて、一人で悩みを抱え込んで!! 幸せにするなんて、一生かけて幸せにするなんて、そんな出来もしない約束のせいで!! アタシが、アタシがあの時アンタの言葉を信じなければ……!!」

「そんなの……嘘だ」

「今更どのツラ下げてここに来たんだ!! さっさと帰れ!!」

「そんな……。ようやく……ようやく両親を説得出来たんだ……。今まで頑張ってきたのは全部そのためだったのに……美菜が死んだ? そんな……そんなのって……」

「アンタの顔は見たくない。もう二度と来るな!!」


 大声を聞きつけたのか、後ろのドアが遠慮がちに開かれた。


「……おばあちゃん?」

「桜! 出てくるんじゃないよ! 中にお入り!!」


 春子の怒鳴り声にびくっと肩を震わせると、桜は慌てて中に引っ込んだ。


 輝喜は目を見開いて桜を見た後、声を震わせながら春子に問う。


「今の子は……?」

「アンタに関係ないだろ」

「関係なくない! 答えて下さい!! 今の子は、今のは誰の子なんですか!!」

「……美菜の子だよ」

「相手は……父親は誰なんです!?」


 春子は固く口を閉ざす。


「もしかして……もしかして、俺の」

「ふざけるんじゃないよ!! 誰がアンタの子だ!! この子は美菜の子だ!! それ以外のなんでもないよ!!」

「じゃあ父親を教えてください!! その子は、その子は俺の子なんじゃないですか!?」

「うるさい!! もういいから帰ってくれ!!」

「待って! 待って下さい!! その子がもし俺の子なら、」

「アンタ、美菜の次は桜を奪うのか!!」


 春子の叫び声に、輝喜は刃物で心臓をひと突きされたような衝撃を受けた。そのままぐりぐりと(えぐ)られるような痛みが襲う。


「お願いだから……これ以上アタシから大切なものを奪わないでおくれ……頼む……頼むよ輝喜さん」


 ぼろぼろと涙を流す春子の姿に、輝喜は動揺を隠しきれなかった。


 いつの間にか降り出した雨が二人の体を冷たく濡らす。雨の勢いは増すばかりだった。





 あの男から手紙が届いたのはそれから少し経ってからだった。読まずに捨ててしまおうかと思ったが、わずかに残る良心で一応目を通す。


 そこには謝罪と反省と後悔、自分を責める言葉が書き連ねてあった。そして、春子ともう一度会って話がしたいと。


 こっちは会う気なんてさらさらない。そう思って手紙をゴミ箱へ投げ捨てた。


 だが、それからもあの男からの手紙は続く。あまりのしつこさに観念して一度だけ、顔を合わせて話をする事にした。


「アンタもしつこいね」

「……すみません。だけど、どうしても話がしたかったんです」


 こじんまりとした喫茶店で向かい合わせに座る。店内には店の主人以外、人の姿は見当たらない。


「来て下さってありがとうございます」

「迷惑な手紙をやめてもらおうと思っただけだ。本当は顔も見たくない」


 輝喜は先日見た時よりも随分とやつれていた。頬は痩せこけ、目は虚ろだ。気力だけでなんとかここに立っているような状態だ。


「すみませんでした。俺が、俺が至らないばっかりに……美菜さんに苦労をかけて」

「そうだよ。アンタがさっさと美菜を諦めてくれてれば。アタシがあの言葉を信じていなければ。アンタがもっと……もっと早くに美菜を迎えに来てくれてたら。美菜は死ななくて済んだんだ」

「……はい」

「たらればばかり言ったって仕方ないんだけどね。でも、アタシはアンタを許さない」

「……はい。俺は、恨まれて当然の男です。あの女の子は……美菜の子なんですよね?」

「そうだ」

「お金で解決なんてことは考えていませんが、もし良ければ俺にお子さんの養育費を出させてほしいんです」

「あの子はアンタの娘じゃない。金なんていらないよ」

「でも、春子さんだけに負担はかけられません。あの子の将来のために使ってやってほしいんです。情けないことに俺が出来るのはこれくらいしかないから……お願いします」

「だから、アンタの娘じゃないって言ってるだろ」

「いいんです。例え俺の子じゃなくても、美菜の子供ですから」


 間髪入れずに返された力強い言に溜息がこぼれた。


「……馬鹿だねぇ。美菜が他の男に目移りするとでも思ってるのかい? あんな夢物語を信じて待ってるような子が」

「じゃあ、あの子はやっぱり……!」

「いいかい。うちには父親がいない。もうとっくに()()()()んだ。アンタはこの世にいない幽霊なのさ。アタシはあの子に……桜に、アンタの存在を言うつもりは一生ない」

「……はい」


 小さな声は震えていた。



「俺はもう、お二人の迷惑になるような事はしません。あの子の邪魔になることはしません。だから、その代わり。手紙を……手紙を書かせてくれませんか。彼女には、桜……ちゃんには、渡さなくてもいいですから」

「嫌だよ」


 冷たく言い放った春子にめげず、輝喜は言った。


「年に一度! 一度だけでいいんです! 渡さなくていい、捨てても構わない。匿名で出しますから、だから」

「さっきも言ったけど、アタシは桜にアンタの存在を言うつもりはないんだ。手紙が届いても絶対にあの子には渡さない。それでもいいっていうなら勝手にすればいい」

「……はい」

「アタシはもう話すことはないよ。アンタとはもう二度と会うことはないだろうね」


 春子が立ち上がって背を向けると、輝喜は慌てたように「あの!」と呼び止める。そして、春子に向かって深々と頭を下げた。


「美菜さんのこと、本当にすみませんでした。……約束、守れなくてごめんなさい。俺のせいで、ごめんなさい。だけど、これだけは言わせて下さい。俺は今も昔も、そしてこれからも、美菜さんだけを愛しています。本当にごめんなさい。お二人とも、どうかお幸せに。さようなら」





 それから十六年の間、あの男には一度も会っていない。


 もちろん桜にも父親のことは一切教えていない。もう死んだのだと、追求を避けるようにただそう言い聞かせているだけだ。


 その代わり、通帳に毎月振り込まれる養育費と、年に一度、匿名で届く分厚い封筒に入った手紙のせいであの男が生きていることだけはわかった。


 だからと言ってどうってことはないのだけれど。心の引っかかりには気付かない振りをしていた。


 だが、桜が学校で両親のことを聞かれるたびに落ち込んでいる様子を見て胸が痛んだのは事実だ。


 あの子にあんな思いをさせているのは自分なのだ、と日に日に罪悪感が押し寄せる。


 本当にこれでいいのだろうか。本当にこのまま、桜に何も言わないままでいいの? 寂しそうな顔をさせたままでいいの?


 だけど今さらなんて説明したらいいのか分からなくて、ただただ自問自答ばかりを繰り返す。アタシにあの男を責める資格はない。意気地なしは自分だった。


 そうこうしている間に病に侵され、実にあっけなく天国(こっち)の世界に来てしまった。胸に残ったのは張り詰めるほどの罪悪感と後悔。


 だからアタシはこの郵便局に来て、桜に本当のことを話す決意をしたんだ。

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