おまけの話:「時期尚早」から見た 母語の獲得と日本語のあいまいさ
エープリルフールにかこつけて、物語とは無関係な雑談の挿入です。
(すみません)
イントロダクションで使った「時期尚早」という熟語から派生した雑文です。
子供のころ まだ文字を知らなかった頃、ラジオ番組(主に朗読系)やNHKのニュース番組を聞いて覚えた言葉は多い。
それゆえ「じきしょうそう:事を成すには早すぎる」という言葉を、正確に聞き覚えていた。
聞きなれない言葉だったので、親に意味を尋ねて教えてもらってもいた。
しかし「じきしょうそう」の漢字は知らなかった。
この10年ほど ほかの人のブログや投稿作品などで、「時期早尚」の文字を見ることが増え、その一方で「時期尚早」の文字を見ることがまったくなく、昨今のTV出演者の中には 時にはアナウンサーですら「ジキソウショウ」と平気でいう人が目立つので 変だなぁ、もしかして私の記憶違いなの?といささか自信なくなっていた。
「ジキショウソウ」とPC入力したら、すんなりと「時期尚早」の文字が出て来たのを見て
漢文書き下し分で言えば「時期 尚 早し(時期 未だ 早し)」の意味だったのねと気づいた。
そこで ふと 今は この言葉がどういうニュアンスで扱われているのかな?と興味がわいて「時期尚早 意味」でググってみた。
すると最初に出て来たのが
”時期尚早は、「事をするには早すぎる」という意味。 訓読すれば「尚、早し」となります。「 しょうそう」という読み方が発音しにくいこともあり、近年は「そうしょう」と勘違いする人が増えています。 しかし、言葉の意味を考えても「早尚」では意味をなしませんし、パソコンで入力しようとしても「早尚」と自動変換されません。「2018/03/02”
という一文。
よかったぁ、私の記憶違いではなかったと思って この余談を書き始めた。
そして念のため、私の独りよがりの主張ではないのだよと記すために、この項目のアドレスを添えようとクリックしたら
https://www.kokuyo-furniture.co.jp/solution/mana-biz/2018/03/post-265.php
「時期早尚」と「時期尚早」 どちらが正しい?
が出てきて、上記に私が記したのと まったく同じ書き下し文書いてあって笑った。
(ちなみに 検索結果の飛ばし読みが日常化している私は
コピペするまで、「訓読すれば 尚 早し となります」の一文の存在に気が付いてなかった。
><;
「しょうそう」と「そうしょう」の文字しか見てませんでした。(;^_^A)
”監修/篠崎 晃一(Shinozaki Koichi)
東京女子大学教授。専門は方言学、社会言語学。”
ちゃんと国語の基礎を身に着けたうえで 日常的に使われる言葉を研究する語彙論の手法に添って 日常語の変遷を追いかけていらっしゃる方なのだろうなぁと思った。
(昨今は 流行語を追いかけて もっともらしいことをネット権威・TV権威として発信して さらに日本語の誤謬を増幅する人が増えているのだけど
そういう「先生」達とは違って この方は ちゃんとした研究者・学者なのだろうと勝手に想像してしまった。
昨今、私学の教官や辞書の編集者を名乗る人の中にも、もどき「先生」が潜り込んでいますから><
そういう末世だからこそ まっとうな研究者が ネットで発信する意義は高いと思う)
このサイトの運営者が
事務用品・学用品でお世話になっている会社コクヨ(KOKUYO)であることにも 心を動かされた。
かつて職員室に入れば ずら~と並んでいた灰色の机の群れ
あれが コクヨの商品であることを知った時にも驚いたのだけど
(だって コクヨと言えば ノートの会社だと思ってたんだもん!)
そして今では オフィス用品のメーカーとして様々な商品を販売していることも知っているけれど(ネットカタログのおかげw)
仕事で「文字」を扱う人間を顧客とするコクヨだからこそ、
「チェックワード」というサイトの運営もするのかぁ
と、コクヨという会社の見識の高さ・気概を感じました。
と同時に、思ったことを蛇足として付け加えます。
◇
明治に至るまでの約2000年間、
日本語は 話し言葉・語りとして、連綿として聞き繋がれ
書き言葉としては漢語から派生した漢字・熟語を利用しつつも
日本古来の話し言葉を書きあらわすために「かな」を用い
漢字にも訓読みをあてはめることにより、
日本の聞き語り文化を保持。
だから、たとえば「いる」ということば
日本人なら、日常会話で聞いただけで、
「居る 入る 射る」のちがいなどその場の状況で判別できる。
その一方で ちゃんとした国語教育を受けた日本人ならば
書きあらわすときには 正確に「居る 入る 射る」を書き分けることができるし、
ちょっと度忘れして漢字が思い出せない あるいは漢字に自信がない時は、「いる」とひらがなで書いても全く問題がない。
読み手が ちゃんと その場の状況に即して意味を読み取ってくれるから。
(私の場合は、手書き(=縦書き)の時は、なにげに「いる」と表記していましたが
PC横書き表記になると、なぜかひらがなだと意味が読み取りにくいので
あえて漢字を多用するようになってしまいました。
いわゆる速読では、横書きの場合 漢字の多い文章の方が楽に読み取れるのです。)
日常的に、ひらがな表記の「いる」で問題ないのは、
「いる」ということばを、日本人ならば、文字を覚える前の段階で
日常的に聞いて その意味を覚えるからである。
さらに 漢字「入」の意味に添った日本語の話し言葉としては
「はいる」という音声言語がある。
これを漢字でかけば「入る」である。
一方 日本語としては「いりぐち」ということばが日常的に使用され、その書き言葉は「入口」である。
これもまた 幼いころに「いりぐち」ということばを覚えて育った日本人ならば、学校で「入口」という書き言葉を習っても
あるいは町で「入口」という表記を見ても
そういうもんだなとすんなり受け入れる。
さらに 通常 文字を習いだすころに知る言葉として「入門」ということばがある。
これもまあ「ふーんそういうものか」とたいてい 漢字の読みは複数あるんだなぁくらいの感覚で 読みと意味と文字を同時に覚えてしまう。
日常生活では、”仲間に「はいる」・仲間に「いれて」”と言葉を聞き覚えているから、
漢字の読みとして「入る、入る」があっても違和感はない。
文章を読んでいるときに 「入る」がでてきても、なんとなく「いる・はいる」を読み分けてしまう
言語学的観点からは、「いる・はいる」の区別は 動作の起点や話者の視点をどこに置くか云々という 一つの言語体系を示すものらしいが、
そういうことを知らなくても 日常生活の言葉の使用にまったく困らない。
一方、漢字の起源、中国においては、「入」は「入」であって
「いる・はいる」と言った区別がない。
(大雑把に言えば、中に入っている状態や存在を示しているのが「入」ではないだろうか?たぶん)
つまり日本語は 話し言葉と書き言葉において、異なる言語体系を含んでいるが
日本人はそんなことに頓着せずに(気づくことなく)日常的に話し、読み書きしているのである。(補足1参照)
さらに、漢文の学習においても、かつては 書き下し文の音読の範唱を復唱することによってその意味理解と記憶の定着をはかるなど、「聞き覚え」の学習法を用いて来たので、
方言や時代に伴う語彙の変遷はあれども、書き言葉としての熟語の乱れ・混乱はあまりなかったのかもしれない。
というか 日本語の世界にどっぷりつかった日本人の書く漢文は
いつの時代でも中国人には通用せず
遣唐使や通事として リアル中国人と付き合った人の書く漢文は
その当時の中国人から「素晴らしい 高い教養を持つ(つまり中国語を理解した)日本人」と評価されていた。
ところが 庶民の識字率の上昇と印刷物(木版刷り)の流布により
江戸での話し言葉の変化とそれに応じる印刷物の言葉の変化が活発になりはじめ、
続いて 明治以後の義務教育と新聞の普及、活字による大衆文学の普及、
さらに1945年以後の国民すべてに対する義務教育(完全に実施されたのは、昭和54年)に伴う
粗製乱造された教師たちによる、教科書と黒板を使った 書き写し教育法と〇X採点と恣意的評価法の氾濫に伴う教育の崩壊と同時並行ですすむ 印刷物の商品化の進展がおきた。
そこでまず 漢字のうろ覚え(意味・用法・読みすべてにおいて)が国民全体に広がり、
さらにPCソフト「ワード」の低レベル機能の氾濫
(基本が外国製ですから 漢字変換がむちゃくちゃ、
日本語の体系にそった ハードウエェアと一体化したワープロソフト一太郎などは
パソコンソフトとしては ワードに完全に押し負け、
互換性が低いという理由で一般市場からは駆逐されたも同然。
官公庁で一太郎ソフトが利用されていなければ 役所に文書提出せざるを得ない企業でもオフィスソフトとしては一太郎を採用できない。
本当に 日本政府は、日本製品と日本文化をないがしろにしてばかり!!)
もあいまって、思い違いによる日本語の乱れが定着・加速の一方なのではないかしら?
(最近ようやく 慣用語句についてはワードの変換能力もだいぶんマシになってきましたが、
今でも 誤入力でもなんでもそれらしい漢字に置き換える
&
大衆的に間違って流布されている語句を優先的に扱うという弊害が顕著ですよね。
ex「いっしょけんめい⇒一所懸命」の変換ができない
なまった言い方「いっしょうけんめい」から派生した「一生懸命」)のみを語句変換することにより、本来の日本語にはなかった「一生懸命」をあたかも正当な日本の熟語であるかのように大衆に印象づけてしまった。
本来 「一所懸命」とは 武士が所領獲得と維持に命を懸けた生き様から生まれた日本固有の日本語(語彙・熟語)であったのに!!)
◇
言い換えるならば、日本で生まれ育った人間が、
親子・兄弟姉妹・遊び友達を通して、日本語を聞いて覚え
聞き覚え学習により文字を覚え使用していた半世紀前までと違って
今では、核家族化、人の流動化と会社勤めの人の増加に加え最近では少子化により
地域で家族ぐるみのつきあいをするご近所経験が減少して、
語彙を日常生活の中で聞き覚えるよりも、
学校や最近では幼児教室で習う文字・書き言葉として覚えることが増えてしまった。
(マンガもまた 絵と文字の併用により成り立っている書き言葉の世界である。
話し言葉風ではあっても 話し言葉そのものではない。)
一方TVには、一般企業に就職できるだけの学力のない芸人・タレントや
高校卒業前のアイドルの話す言葉が氾濫><
だからこそ 教養を振りかざす芸人・タレント(じっさいの教養の有無は不問)が権威ぶって誤謬を拡散する現象も><
(TV出演者の学歴や学力が問題なのではなく
年齢その他の要因により、未熟であったり、国語を完全に習得していない人間の過ちが
演出その他により「権威あるもの」として大衆に印象づけられたり、
若者のモデルとなることにより生じる問題点を放置して垂れ流し続けていることが大問題なのである!
この「「誤った発信」が社会に深刻な打撃を与える」と、アメリカや・仏英においては 非常に問題視されており
国・政治家のみならず業界からも常に監視の目と規制の手が張り巡らされています。
日本では なぜか それとは真逆の方向性だけを擁護する声ばかりが力を持つといういかがわしさですが。)
つまり 外国人が日本語を学ぶ環境と似てきているのが
今の日本の子供達ではないか?
だから 外国人から見た 日本語のあいまいさ・わかりにくさ・誤解・珍解釈発生の源と同じ点が、
今の日本の子供達~若者が 国語としての日本語を学ぶときの学習困難となっている可能性があるのではないか?と
コクヨの「時期尚早」のページを読んで思った。
◇
ちなみに 言語学習の観点からすと ことばの中には生涯に1・2度しか使わない言葉もあり、
それらも含めて場に応じて正しく使えるようになるのは、
例えば現代日本の場合では 高等教育を経て社会人経験も積んだ20歳~25歳であると
発達も含めた「言葉の学習過程」の追跡研究により実証されている。
つまり 社会人となってからも身近な大人たちから 大人にふさわしい話し言葉としての日本語を学ぶことにより、日本人としての日本語(国語)の習得が完成するということなのだ。
そして それは どんな文化圏においても 母語の習得過程として 同じ事が指摘されている。
でも 大人が 若者からの反発や揶揄を畏れて、
社会人としてのしつけを 若者に対して行わなくなれば、
そして日本のメディアは 「若者文化」と称して年長者をバカにする風潮を80年代以降強力に推進してきているので
日本の若者が 日本人としての正しい・ふさわしい言葉遣いを継承することがより困難になっているのではないだろうか?
嘘マナーの氾濫と同じ問題が 日本語の継承においても起きている!><
書き言葉で学習した語彙というのは、普段使わないと
覚え間違い、うろ覚えによる思い間違い・解釈間違い・そこから発展した誤使用の伝播が発生しやすい。
誤使用の伝播というのは、だれかが間違って使った言葉を聞きおぼえて それが正しいと思い込んでしまったり
私が「じきしょうそう」としっかりと覚えていても
回りで自信満々に「じきそうしょう」と言う人が増えると
自分の記憶に自信をなくす現象のようなことである。
習ったことを早速使って自慢したいのが若者心理でもあり
自信満々の人の前で「自分は知らなかった」というのが恥ずかしくて その人のマネをしてしまうのが人のサガである。
さらに 自信家に対して「それまちがい」と指摘すると
恨みを買ってしまって 日常生活に支障をきたすのも世の常
間違った使い方をする集団に取り囲まれてしまうと
正しい言葉を使う方が「おかしい」と攻め立てられたり
「間違いを認めない恥知らず」と侮辱されたり誹謗中傷に悩まされたり煩わされことになるから 保身の為にだんまりを決めこんでしまったり それが今の主流になっちゃったの?とあきらめたり・・
そういう意味では 語彙の流行も 権威ぶった人の圧力や権力によって決まることがあるのかしらん??
国語の乱れは 国の崩壊進展の指標と 先人が言っていたのはこういう現象あらわしていたのかしら???
移住者や無教養な者が幅を利かせば、文化の継承に横やりがはいり良心的な生活者が消滅するという意味だけではなくて
「生活スタイル」の変化がダイレクトに「語彙の伝承」を直撃する事態も起きうるとは
「時期尚早」と「早尚」の誤使用に関する考察をするまで、
夢にも思わなかったわ。\(◎o◎)/!
◇
「言語の消滅(危機)」というと、少数民族や、 グローバル化により「固有言語・方言の継承者」の相対的比率の減少、といった「人数の少なさ」を指すのかと思っていたけれど
日本語の語彙のように、国語習得環境の変化(学習形態の変容)に伴って生じることもあるのだと気づいて びっくりしました。
もっとも 外国人への日本語教育の旗振り役の人のほとんどが
国語教育を毛嫌いしている人たち=イデオロギーで歪んだ価値観を持った人達であり、
言語学的観点から日本語教育を論じるには、「国語教育攻撃に血道をあげる勘違い(言いがかりの権化である)イデオロギー集団の的になる覚悟」が必要であったという
日本事情にも問題があったと思うのだけど。
(こどもの発達に即した言語教育・外国人への日本語教育・「障害」とはなにかの3点を「コミュニケーション障害」ととらえ、
さらに国語教育や「教育とは?を様々な観点から問う講義」を開講していた某大学の制度なんて、
一瞬のあだ花のように儚く消えてしまいましたものねぇ
あそこは 「教育」を学習者・教える側・教授法・発達(人の育ち方・能力の伸長過程)・心理(個人の受け止め方)・社会と教育のかかわり、と多様な観点で様々な講義を ノンポリで開講し
各分野におけるトップクラスの教官を自前で抱えるだけでなく、
集中講義の形式で、日本中から幅広い分野から各種のエキスパートを招聘し、
分校体制の利点を生かした「偏らない」研究・教授体制で「教育とはなにか?教育が果たす役割とは?」を追求していたように思うのだけど。
それこそ「実」を重んじる精神の発露だったのかもしれません。
そこに言語学・語彙論のメッカ国立国語研究所が加われば、「最強の日本語教育」メソッドができたかもしれないのに・・
民間の教育団体・教材販売会社が強力に押し進めた「日本語検定」が
国立国語研究所で系統的多角的に実証研究実践して構築した「日本語研究・日本語教育」を
を強引に否定して、今の来日研修生・就学生に対して「誤った日本理解」を広げてしまった罪
その結果生じた各種問題に悩まされ続ける今の日本人と日本企業
それは「言語聴覚士」「臨床心理士」資格発足とその後の経過と全く同一パターンであります。
政治的立ち位置の弱い学者集団は あらゆる意味において押し負けてしまう><
野心家&利権屋集団と実践的研究者が争えば、理論と実践の両道を目指す研究者・現場を大切にする実践者の方が負けるとは哀しい現実だ。
以上 市井のおばちゃんの独り言でした。
読んでくださった方に感謝です
そして 余談が長くなってごめんなさい。
・・
(補足1)
「いりぐち」という語彙を漢字で書くと、「入り口・入口」二つの表記法があり どちらも正解である。
一方「いけす」は「生簀」と書くのが一般的で、「生け簀」とはあまり書かない
なぜか?
「いりぐち」に関しては 日常的に使用することばである
それを文法通りに書けば「入り口」となる
しかし 動詞+名詞の複合語を漢字表記する場合には、動詞の活用語尾を省略することができる
という法則により「入口」という表記OK
とたしか 小4の時に使っていた学習参考書には書いてあったような気がする。
でも外国人にいわせると「「入口」(口の中に入る)のがなんでドアの意味だ? 日本語難解><」
漢字表記を母語にしていたかつての中国人(最近のピンイン表記しか知らない中国人は別)なら「入口」とか日本式の熟語は意味不明 ってことになる。
ついでに言うと「いけす」がなんで「生簀」になって「生け簀」と書かないのか?と言えば
「生贄」と同じ扱いなんだろう たぶん。
でも、生贄と生簀の文字は、見分けがつかないから、
あえて「生け簀」という表記する人も居る(というか見かける)
そもそも 日本語の文法というのは、欧米の文法論に無理やり日本語をあてはめているところがあるようで、
細かい用法になってくると よくわからんと 子供心にも思ったし、
大学で 今となっては講義名すら忘れたが、英語の論文を読みながら「シンタックスがどうのこうの 文法論の二つの違いがどーたら」と習ったときにも思った。
ちなみに学習参考書の「国語の文法」の本の中身のわかりにくさは
日本人の歴史的生活の中で生み出された「国語運用上の様々な工夫」ではなく
まるで万物不変の法則であるかのように「今の事象共通の原理=文法」としての型にはめようと
アレコレ解釈を連ねている部分があったからではないかと思う。
それに対して 日本語を「生きたことば」として研究を続けてきたのが
「国立国語研究所」なのではないかと、浅学の私は思っている。
国立国語研究所からの書籍は、大蔵省印刷局発行の政府刊行物扱いなので、一般の書店では
入手しにくいのであるが、とにかく平易な日本語で書かれていて読みやすく、
小学生のころ「先生のお手伝い」としてほこりだらけの本の詰まった部屋の掃除をさせられた時に
偶然目にしたことがきっかけで、近所の本屋さんを捜し歩いた末に「政府刊行物取扱店」の存在を教えてもらって、「一人で校区外に出る」という校則やぶりにドキドキしながら、バスに乗って
街の中心地まで本を買いに行き、乏しい小遣いで買えるのは1冊だけだったから、どれを買うか選ぶために4・5冊手に取った本の中から1冊だけを買って帰った記憶がある。
(当時の店主に心から御礼申し上げる。財布の中身と本の値札を見比べ、立ち読みして購入する本を決めていた私は、今から思うと とんだ子供だったなと思う。
目次をしっかり読んで、重点的に読む個所を見定めて内容理解に時間のかかるものから購入し、次回購入したい本の題名と価格&今後の学習課題となる用語・新説の流れを記憶するために立ち読みしなくては、と当時は本気で思ってたから。
もちろん、個人商店で立ち読みすると、その店に迷惑になる(=店主の生計のじゃまになる)からダメという親からの教えは 幼いころより守っていましたが。)
国立国語研究所の沿革については
https://www.ninjal.ac.jp/info/aboutus/history/
だいたい高校の古典文法で、言葉を品詞に分解する授業にお手上げして、どーせ大学受験でその部分の配点や設問は少ないからと、理解を放棄・暗記もパスしたので、今となっては基本原則すら思い出せなくてすみません。
(小6の時の現代語(国語)の品詞分解は まだまじめに理解に努め 理解しきれなくて 必死で暗記したけどもう忘れた><)
「謎とき」の魅力につかれて、参考書も専門書も「手引き」の類も区別なく乱読する子供時代を通して、「ある事柄についての解釈は複数あり、人との円滑な付き合いの為には、世俗的に認められた説を学ばなければ生きていけない、でも自分が納得できる説を追いかけるのが心の自由という楽しみ。
その両方を満たすためには 学習時間がいくらあってもたりない」と心底思ったので、
受験勉強に関しては 合格に必要な点数さえとれればいいと割り切ってましたw)
私の個人的な経験と個人的解釈では、「入り口」ということばは、幼いころからなじんだありふれた言葉だから
「入口」:公の場の表記 短く書いて読みやすい、
「入り口」幼いころに覚えてそのまま書き現わす言葉、
「生簀・生贄」は限られた状況でしか使わないから、語彙(音声)を覚えると同時に熟語もそういうもんだと覚えてしまい、世俗的にもそれで通用している、ってことではないかと思う。
だから 昔は 「いけもん(活きのいい魚、生きてる魚をさばいて刺身にするために用意している魚)」と同じ感覚で「生け簀 」と書くのもアリだった気がするのだけど・・・
ちなみに 寿司屋で「活魚」と書いてあるので、「何と読むの?」と店の人に聞いたら
「いけもんのことやで」と返事が返ってきたこともある。
ゆえに いまだに「活魚」を正式には何と読むのか 私は知らない。
先ほど ネットでググったら「いけうお」って読むと書いてあったが、そんなことば(音声言語)を聞いたことありません!!!
むしろ イメージで「活魚」と書いて「いけもん」の意味で押し通しただけじゃなかろうか?
大阪の寿司屋の兄ちゃんは。
それに漢字を使った日本的造語法としては「活魚」は あってるし(笑)
ついでに言うと 魚と書いて「うお」と呼ぶのは生きてるの、「さかな」と呼ぶのは死んでるの
と読み分けると以前なんかで読んだ覚えはあるが
私個人の生活感覚からすれば 海川池で泳いでいる(=捕まえる前)のが「うお」
料理用が「さかな」である。
ゆえに
生け簀の中は「さかな」に近い感覚で むしろ昔の「さかな屋」さんの平台の上にならんだ
ビチビチ跳ねる魚を指さして「タイください、ひらめください」というように
生け簀の中の魚も魚種名で呼ぶべき存在のような気がする
だって 昔のさかな屋さんの魚は 昼過ぎくらいまでは、生きてる(はねてる)ものが多かったのよ。(漁港から車で30分くらいの距離だから 住人感覚では海の近くではなかったけど
だって徒歩圏内では海は見えなかったから)
でも さかな屋で売っているのは 生きていてる「さかな」でしたから。
しかも 昔、妻を軽視することばとして「釣ったさかなに餌やらん」という言い回しがあった。
ここでは明らかに釣り上げた生きた魚のことを「さかな」と呼んでいる
なにしろ、上記の言い回しに対する ウーマンリブの言い返しが「飼い殺しは御免です!」
だったものw
(念のために書くと、「飼い殺し」とは「自分用に閉じ込めて(=飼う)働かせる(その者の成果を外部に公表しない)」ことを指すので 当然生きてます。
だから 生け簀の中の魚も、「さかな」であって「うお」じゃない!
ゆえに「活魚」と書いて「いけうお」と呼ばせるのは違和感があるなぁ・・
まだ「かつぎょ」と呼ぶ方がしっくりするけど、これ日本語の音声語彙としては完全にイミフ
でも造語の場合は とりあえず音読みして 音声言語としても定着したものが残るのが
日本の熟語の歴史ではなかったっけ?「一所懸命」のように
ゆえに目下のところ
「活魚」は『一種のイメージ言語=漢字を使ったシンボルであって 語彙じゃない』
とみなすのが 私としては一番しっくりくる。
まちがっても 「いけうお」なんて音声語彙が定着してほしくないわ><
日本語の語彙として後代につなげるなら「活魚」として残ってほしい。
「いけもん・いけす」はあくまでも 食べられるのを待つ身(の魚及びその待機場所)を指すのだから、
その存在を「うお」と呼んではいけない。自活している魚への侮辱になるぞ(笑)
天然⇔養殖 市場価格の差の基準となる重大な定義から派生して
必ずしも天然もの(釣ってきた魚)を生け簀に入れてるわけじゃないけど
とにかく ぴちぴちの活きの良い魚なんだから!という意味で
「いけもん・活魚」ということばができた(一般的に使われだした)のは
ここ3・40年ほどの造語じゃなかろうか?
昔は 漁港の側か 漁師と直でつながっているよっぽどのこだわりの店でなければ、
容器の中で泳いでいる魚を料理なんてできなかった。
(かつては、伊勢の漁師が毎朝 近鉄の始発前の専用列車で生きた魚を大阪まで運んでいた)
アクアリウムの普及と同時に 寿司屋が一斉に水槽タイプの生簀を導入したのだ。
それ以前は 金属製のマスというか、四角い大型のたらいのようなものが使われていた。
そして ピチピチのお魚の流通形態もずいぶん変わった。
その結果天然より養殖のほうが、生きた魚が入手しやすくなったのかもしれない
客のいない時を見計らって入店して いろいろ注文してあれこれ尋ねた時の印象では。
(当時は娘一人が寿司屋で飲み食いするのは非常に珍しかったので、
逆にいろいろ話が聞けた。
私も片っ端から食い歩きして見聞と味覚を広げていたw)
とまあ 日本語の中には、中国の文法法則に添って作られた熟語と、
日本人の感性に添って作られた熟語・造語があるから、
日本人にとっても 「文法むつかし~ めんどうパス」
まして外国人に取ったら「イミフで難解」になるのでは?と思う。
小4の時は 日本語の辞書と漢和辞典を片手に必死になって勉強し、漢和辞典も 編集者(出版社)によって、語義の解説に重点をおいたものと、熟語の成り立ち(今から思えば文法と語彙変遷の歴史)に重点を置いて解説したもの、と説明が全然違うタイプのものがあったので、
机の上に 辞書を4・5冊積み上げて読み比べたり、図書館にしかない でっかい辞書を広げて
一つの熟語について、自分が家で調べて解説を書きだしたノートに図書館の辞書の説明を 書き加えたりして過ごしたものです。
そのあらかたを さっぱりポンと忘れてしまって思い出せないのが残念ですが。
それでも 日本語というのは 語彙も表記も 幾重にも異なる法則が積み重なり でも全体として調和?まとまっている そういう言語であり 音声語彙であり 文字表記であり 書き言葉なんだと思います。
だから 誤用も致し方ないと思いますが
誤用を正当化していては、祖父母と孫とで日本語での会話が成り立たないどころか、親子ですら会話がままならないほど日本語が乱れきってしまうようになりかねない、というかすでに、そういう現象も発生しています。
それは 集団内コミュニケーションツールとしての「言語」としての日本語の崩壊であり
母語が 親しい身内や家族、同じ地域に住む住民間ですら通用しなくなるということは
国家としての要件の一つ「外交を有する能力を持つこと=集団としての意思決定を下し 集団の代表が交渉して外国と取り決めた条約を実践することができる」を満たさなくなるということにつながります。
昨今の日本政府が 国民の意思・多数の認識に反する政策ばかり打ちだし、外国政府の言いなりになっている現実と かぶってきませんか?
「流行語」とかいう「一部の者にしかわからないことば・カタカナ語ほか」を、さも意味ありげに喧伝し、
知らない人間を無視すべき・嘲るべきと言わんばかりに
言い出しっぺのわからない「造語」を珍重・濫用・押し付けてくるメディアと、それに迎合する政治家の姿に。
・「消滅言語・絶滅の危機にある言語」というのは、なにも少数民族固有の問題ではなく
地域住民の文化的・社会的グローバル化により、1億近いその土地固有の集団がいても
その住人集団が自分達の生活習慣・言語を意識的に継承する気持ちが薄く
(=当たり前すぎるモノとしてぞんざいに扱って 子供達や流入者に正しく伝える努力、誤りをただす行動を起こさない
どころか「教育という名の押し付けハンタ~イ」なんてイデオロギーに毒されてしまっている)
流入してくる情報に迎合したり、目新しさに飛びついたり、
舶来モノに権威をもたせて自分の意見をごり押しする者に流されることにより
たったの75年ほどで 崩壊が始まるほど儚いモノだったらしい・・・・
思えば現地文化を自然淘汰のごとく衰退させることなんて3世代で可能なことは 植民地の歴史が証明していることでありました。
それを 占領地に対する「教育介入・情報統制・レッドパージ」で実現させたGHQと
現地人為政者・メディア従業員候補に対する思想教育を「フルブライト留学生制度」で実施したアメリカはすごいわ
(一般的な「奨学金つきの留学制度」と思ってフルブライトの募集要項を読んだ時、ほんとビックリしました。
そして フルブライト奨学生の日本帰国後の活動を調べて げっそりして、応募をやめました。
かわりに 各国の制度を調べて比較して、日本の奨学金や日本人の「留学に関するイメージ」と、
欧米のそれらに関する思想の違いにも気づきました。)




