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貧乏領主になりました  作者: 木苺
    個性的な港と船
122/123

おまけ:日本の飢饉・地震・噴火と地球規模の気候変動

(※1)天下大変 資料に見る江戸時代の災害 国立公文書館

  https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/tenkataihen/history.html をベースに


(※2)「気候文明史 世界を変えた8万年の攻防」田家康 日経新聞出版社 2010年2月19日 第一刷

を参照してまとめた。

 特に補足のない説明文は この本を参照したものである。


・小氷期(1350年代~19世紀後半まで)

  特に寒さが厳しくなった4回の時期はいずれも太陽黒点数が減少した時期。


第3回目:1645~1715年マウンダー極小期

第4回目:ダルトン極小期


・火山の噴火により噴煙が大気を循環することにより、太陽光が地上にとどきにくくなることにより

地球の気温は下がる(例↓)

1600年アンデス山脈ワイナプチオ火山

1641年フィリピン、パーカー火山

1660年ニューギニア、ロングアイランド


・小氷期には、フロリダ沖の海水の塩分濃度が10%増す⇒北大西洋海流が弱まり熱の輸送が弱まる

 南極のウェッデル海域で海水の沈降が弱まる

  などの海流に変化が生じることにより、熱の移動が弱まり陸も冷える(特に西洋に関して研究が盛ん)


・なお、これらの寒冷化現象を「緩やか・局地的なもの」と評価するIPCC第4次評価に対する反論・反証(南極でえも寒冷化していた)は※2のP205~をどうぞ。


 さらに寒冷化は気候変動幅を大きくするという点に関しても。

  これらは、天保の飢饉に関する各地の年度ごとの記述とも合致する。


(寒冷・湿潤や熱波による虫や病気の害、これらが連続して毎年のように手を変え品を変え襲ってきたのである。


 農家や商家にとっては死活問題だったので、各地の地の人達は毎月詳細にそれらの記録を書きつけ

代々保管してきていたのである。それをつきあわせると 驚くほどの共通性があった。


 TVのコメの買い占めで儲ける商売人イメージは悪意宣伝そのものである。

あれは年貢米を扱う新興勢力であって、

本来の商人(=地の人)は、地元の特産品を売った金で、地元で不足する食料を地元民の為に買い付ける「流通」の担い手であり、その地における食糧確保の命綱であったのである。

 その視点(歴史的観点)を持つか否かで日本史の評価が180度変わると言っても過言ではなかろうかと最近ひしひしと感じる。

 なぜなら 日本の国土の大半が稲作には不向きであっても米を主食とできたのは、適地適作の農林魚産物の物々交換(流通組織)を中世までに作り上げたからこその発展であったのだから。)


①1650年~1700年

 中国直近500年間で、最も寒冷であった。

  ex.太湖・洞庭湖の凍結数

    江西省:霜により果実栽培の放棄


日本

  ・屋久島の杉の年輪:過去2000年間で17世紀が最も平均気温が低い


(1652年 青ヶ島「山焼,されども吹き出さず……地上に煙立つのみ」

 1670~1680年「池より細砂涌いて流れ出づる」)


●寛永の飢饉1641~1642 (※2によると1642~1643):西日本干ばつ・東日本冷害

                西洋では気温が上昇)

 1662京都大地震 1665越後地震 1666諸国風水害


  ・諸国飢饉1674~1675


  ・出雲の飢饉1680


●元禄の飢饉1691~1695(マウンダー極小期:西洋は厳寒)

  ・奥羽・北陸の飢饉1695 :弘前藩と盛岡藩あわせて15万人の餓死と病没

  ・奥羽・蝦夷地の飢饉



・西洋では変化が激しかった

1708~1709年 厳冬 バルト海凍結

1716年 ロンドンテムズ川凍る


1718年 ヨーロッパ全土:猛暑と干ばつ


1720年代~30年代前半 1725年以外はイングランドは20世紀並みに高温

1735~1739年 北海沿岸:その後の200年間のどの時代よりも温暖


1740年代~50年代 寒冷に


1770~1803年 ダルトン極小期 氷河の前進他


日本

・1703元禄地震 1704浅間山噴火 1707宝永地震・富士山噴火 


●享保の飢饉1732~1733:イナゴ:暖かい時代の飢饉 (東アジアでは大雨後の干ばつでイナゴ害)

  西日本で石高 例年の27%になる 飢民265万人 餓死者96万人 「徳川実記」


 1751越後高田地震


●宝暦の飢饉1753~1757:東北 ヤマセ型冷害


 1771琉球八重山地震

 1777~1779三原山大噴火  1779桜島大噴火


●天明の飢饉1783~1788(※2では1782~1787年)日本の人口111万人減少4.3%減

1783年5月~6月アイスランド ラーキ山噴火

    (フランスでは地平線近くの太陽が火山灰にさえぎられて見えない)

    ⇒北半球の夏の気温1.3度低下 (4.5年続く)


     東日本以北では春先より天候不順 関東では長雨・6月になっても冬物をはおる(寒冷)


   7月 浅間焼け


★1780~1785年:青が島の噴火


西洋では1785年まで寒冷

 1788年 熱波・干ばつ フランスでは40万トン(ひょう)→小麦壊滅

 1789年 フランス革命


1812年

4月 カリブ海 セント・ヴィンセント島で噴火

7月 インドネシア スラウェシ島で噴火


1812~1818年 フランス・スイス 1777年以来の寒冷に

 1812年 北欧 寒冷による不作

     ロシア 10月から厳冬に⇒ナポレオン敗退

 1815年 スンボワ島タンボラ火山噴火⇒気温低下と地震によりインドネシアで9,2万人死亡

 1816年 夏がなかった年(欧米)


●天保の飢饉 1833~1839:暖冬・冷夏によるヤマセ型冷害・東日本や太平洋側で被害


天保の飢饉は、四大飢饉の最後であり、幕府にとってかかわりの深い東北に被害が集中していたので

江戸時代の代表的な飢饉というイメージがあるが、

日本国全体への深刻さから言えば 天明の飢饉のほうが 死者数も多く被害地も広くより深刻であった。


その天明の飢饉のさなかに起きたのが 青ヶ島の大噴火であった。


当時の危機的状況、八丈島・青ヶ島に生きた人々の奮闘ぶりを思えば、ネット上でデスリ表現を拡散することを許してはならないと思う。



~~~~~~

1986年11月15日 伊豆大島の三原山が噴火した時には、東宝がゴジラ映画に使うために撮影隊を出したと新聞記事にもなった。

『三原山の山頂火口で噴火が続いている限りは、外輪山の上から安全に見物することができる。各地から多くの観光客が訪れ、連日の賑わいをみせていた』


が、しかし 11月21日午後4時15分、カルデラ床より噴火が始まり、

『5時46分ごろ、噴火割れ目は北側の外輪山を越えて山腹へと伸長した。割れ目に沿って次々と火口が開き、外輪山斜面に真っ赤な火柱が列をなして現れたのである。間断なく地震が襲い、震度5の強震も相次いだ。伊豆大島火山でこのような山腹割れ目噴火が発生したのは、1421年に島の南部で割れ目噴火が起きて以来565年ぶりのこと』

『外輪山斜面に開いた火口の1つから溶岩が流出し、大島最大の街である元町に迫っ』た


午後10時50分、大島町約1万人の住民が全島避難開始

 海上保安庁や東海汽船の客船など38隻に分乗、避難生活は約1カ月


12月22日、全住民の帰島が完了


(『』引用元 https://www.rodo.co.jp/series/73731/ 労働新聞社2019年6月20日)


・今も 伊豆諸島では 突然の 予想外の噴火は怒りうるとして 東京都は、島それぞれに全島避難に関する対策を続けている。


日本列島そのものが 地震と火山の巣に立脚し、つい最近まで台風銀座でもあったので

天災とともに生き・禍転じて福となす精神で生きて来た民族なのであるから

被災・避難活動に関しても、それを日常の一部と考えて対応する精神が重要ではないかと考える


イデオロギーは 軋轢しか産み出さず、悪意のこもった思い込みは 私達を不幸に落とし込む最大の罠である! と、今だからこそ 念入りに主張したいと思う。


「災害調査報告」をしたためる方々にも 自身の思い込み・余談に添った聞き書きなどをなさらないように、まとめを書かないようにとお願いしたい。



被災者を受け入れる側にとっても 「災難」が及ぶのが天災なのである。

 被災者は 己の被害を嘆き、苦しみを訴えることができるが

 被災者を受け入れる側は 何も言えない存在であることを忘れないでいただきたい。


被災民を受け入れるために、公営住宅を提供し、新たな職を提供するときには

必ず、公営住宅の空き待ち(次回受付を待っている)地元民から公営住宅を奪い

本来その職に採用されはずだった地元民を脇に押しやって被災者優先で採用枠を回しているのである。

 記事にはならずとも そうやって定期公募の枠を待っていた地元民たちが、以後2~5年役所の受付で門前払いされているのが現実に起きていたことであった。


 被災者を受け入れるということは、

受け入れる側が己の身を削り 相手の苦しみを肩代わりをする善意の行動であるがゆえに、

被災者受け入れの苦悩や苦しみを口にすることが許されず、

むしろ被災者による八つ当たりの的、

無責任な第三者による誹謗中傷に的にされてしまうのが

今の日本を取り巻く環境であるということを、もっと真剣に考えていただきたい。


阪神大震災、およびその前後の北海道・東北で繰り返された津波、そして東日本大震災後の救援活動・援助活動を通して、つくづくと「火中の栗を拾うに等しい行為だった」という経験をした人間、被災ではなく援助活動により犠牲となった者も多いのである。

  天災を金づるにするメディア・政治家とは異なり、

  庶民レベルでは 被災することなき犠牲者が今も声を上げられないでいる現実があるのだ。


・被災者への救援・その後の生活再建に向けた助け合いとは、

 あくまでも 助ける側の善意、仲間意識にもとづくものであり

 義務ではないことを 今一度 政治家とメディアには心して認識していただきたい。


 苦しむ者に手を貸すことは、他者の痛みを己に引き受ける行為なのである。


けっして「慈善」という名のいじめ(虚栄心の満足)と決めつけ、歪曲した記事種としたり

利権の為に利用させてはいけない。


昨今のメディアは 記者達の自己満足(=いじめ欲求)を満たすために記事を作成・販売し

利権屋を儲けさせるために、国税・地方税をつぎ込むために、被災していない地域の住民を犠牲にしていることを隠蔽するために、政治家とメディアが一体となって動いているようにしか見えない

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