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貧乏領主になりました  作者: 木苺
    個性的な港と船
121/123

余談2:青ヶ島の噴火と八丈島への全島避難に関連して

挿絵(By みてみん)


・天明の大飢饉(1782~1788)と同時期に起きた青ヶ島の噴火(1780~1785)と帰島まで↓は、 (※1)をベースに(※2)(※3)の記述を加筆してまとめした。


『天明噴火の推移は『青ヶ島諸覚』,『青ヶ島山焼御注進書并渡海之役人其外乗組より差出候書付控』,『伊豆国附八丈枝島青ヶ島山焼ニ付八丈島江惣人数引取候ニ付御救伺書』等などに詳しく記録されている(津久井,2012,青ヶ島噴火史料集)


・海面上の青ヶ島火山は,北部の黒崎火山とそれを覆う南部の主成層火山の2つの火山体で構成されている(※2)



記録に残る 青ヶ島の火山活動(含む地震)は1652年以後である。(どの資料においても)

 https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/322_Aogashima/322_history.html 気象庁 


・1652年「山焼,されども吹き出さず……地上に煙立つのみ」(『南方海島志』『八丈島年代記』)

 1670~1680年「池より細砂涌いて流れ出づる」(『南方海島志』)


 この頃は 外輪山にある住居から 池之沢と呼ばれる大小池を囲む旧火口内部の島民の衣食には十分な肥沃な農耕地に降りていく生活だった。(※3)

挿絵(By みてみん)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/vsj/2016/0/2016_151/_pdf

小林 幹・津久井 雅志


① 1780年

 6月18~23日 6日間休みなく地震

 27日 池の丸橋に火穴、おびただしい湯が沸き始める

 28日~火穴の数が増して 池の周りに浸水がはじまる 

 7月15日 水位が大池(6m)小池(10m)上昇して大池小池が一続きになる、

      池の水は熱湯で触れられない

  ⇒ 大木は立ち枯れ、樹木・作物も木綿も全滅・井戸が使えない

  ⇒養蚕困難・食料が7月分しかないと八丈島の町役人に訴える


   (マグマが浅いところまで上昇)『青ヶ島諸覚』


 8月8日 八丈島から 御用米をもって救援・検分が来る

  (帰路、悪風により8月19日渡航船は房総半島の安房に漂着)


② 1781年

 4月初までに池の湯水が引く

⇒ 10・11日 地震

⇒11日昼前火山灰噴出で真っ暗に

   夜、湯水を多くの場所から一気に噴出,池にたまった湯水が塩水になったがすぐ引く、

⇒土壌流出で岩塊が残って 畑が耕作不能地になった

 地面一体が熱くなり、作物全滅(山焼け)


③ 1782年 :(※1)に人口425人とあるが出典不明 (※3)の「安永3年(1774年)の人口327人に比べて多すぎないか?


 4月 八丈島より山焼けの検地あり 

 5月24日以後80数日雨降らず、イモ・明日葉以外は枯れる

 3回目の噴出 ※1によれば降砂

  鰹節・塩辛・少々の麦の蓄えに海藻を加えて食つなぐ


④ 1783 年

 池の沢周辺の平地が回復してきたので栽培をぼちぼちはじめ、温泉も湧いていたので(おそらく2軒の)小屋をたて、噴火の夜には14名泊まっていたが、熱い砂に埋まって死亡(遺体も発見できず)


4月10日 地震8回⇒午前4時~11日午前6時 噴火 集落の61軒消失 集落付近に火石(火山岩塊・火山礫・スコリア)30cm積もる

  11日午前6時~24時 砂・泥土(細粒物質)降る 『青ヶ島諸覚』


 島の農作物や草木は火穴から最も遠い西北の一部にわずかにのこるばかりで全滅

 噴火と同時に牛を放したが、牛は逃げまどって崖から飛び降りて大半死んだ、生き残りは30頭余り


 集落と池之沢の道が山焼けで遮断された


(推定事項:湖底が海面近くにあった・大池・小池が埋め立てられ,丸山火砕丘の原形が形成

  複数個の火口や割れ目、池の沢南部でも爆発的噴火を起こしたのかもしれない 溶岩流出)


雲霧のかかる日が多く、八丈島では青ヶ島の噴火に気づかなかった。

1か月以上たって青ヶ島からの報告を受け 検分に行く、


6月 風雨が続き、外輪山斜面で泥流発生 『青ヶ島御船中日記』


八丈島からの検分の一行は帰路、房総半島上総国に流される

幕府からの救援物資をもって青ヶ島に戻れたのは翌年1974年の春⇒復興すすむ


⑤ 1785 年(天明五年)噴火再開,スコリア降下.八丈島へ全島民(203 名)避難


(ここから※3の資料をまとめるので旧暦になります。すみません)

3月10日午前~激しい噴火で昼も暗くなる8日間

 急に溶岩と白煙⇒溶岩と黒煙

⇒火石が飛び泥土が降り、大音響とともに大地が振動⇒泥土の代わりに砂振り(スコリアのことか?)

⇒いったんやむも再開⇒18日ごろから29日に島を出るまで猛烈に火石と砂振り 水不足に悩む


3月末青ヶ島から49人が乗って八丈島に救出依頼に来る


4月10日 八丈島より食料を積んで検分の為青ヶ島へ

    夜、青ヶ島は山焼けの火で空も島山も真昼のごとく炎が照らす

     

  11日 物資を渡し 島民45人を載せて漕ぎだすが沖に出るまで灰砂が降りかかる

島は一面の火で、人々が浜に下り、潮に浸り岩にとりすがり たとえようもなく哀れだった


  27日 八丈島からの助け船3艘、108人を載せて八丈島へ

     (船は小さし人は多し、これ以上はどうしても救えなかった)



 八丈島の役所では 年貢の免除とお救い米しか出せなかった。(そもそも飢饉の真っ最中!)


・1786年 八丈島三根村の百姓高村三右衛門は、金500両の私財を官府に託し、

年利1割2分の60両の内50両を穀物に変えて青ヶ島の百姓に公平に分配

余剰は 青ヶ島の復興費用に充てる (これで 青ヶ島からの避難民の10年分の食糧確保)

 

・1789年 12人で青ヶ島にわたり帰還して役所に意見書を出す⇒役所より「起返(おこしかえし)」の資金出る


・1793年 19人穀物・農具を積んで渡航、小屋掛けして12人残る

      ⇒種穀不足・5人が八丈島に戻ろうとして海上で行方不明に


 1794年 2艘仕立てで食糧運ぶも島についてからしけで船を失う⇒13人が八丈島に戻る

  

 その後4回出港する悪天で失敗。房総半島や紀州熊野まで流された

 1797年 9人が八丈島に帰還

 

 1799年 33人出航するも紀州に流され、その後江戸経由で八丈島にもどる


 1801年 青ヶ島に居た7人が八丈島に帰還

   青ヶ島は16年間無人となる


 1821年 高村の基金が年利8分に下げられ青ケ島民への給付が40両となる


 1817年 避難民も代替わりし、177人になる(一方八丈島全体の人口は増加)

     再度 還住願いを出す。八丈の地役人高橋長左衛門為全の協力により

      名主次郎太夫は 177人を組織化して順次帰島させる、  

       青ヶ島の貨幣でもあったカツオ節の統制管理などにより民心を束ね、船の遭難をなくした


      供養の名目で 青ヶ島の野鼠対策として焼き畑決行



⑥ 1824 年(文政七年)全島民帰島 本格的な復興再開発

⑦ 1835 年(天保六年)検地,


(※1)青ヶ島火山 1780‐85 年天明噴火の推移 小林 幹1,2・津久井 雅志1 1千葉大大学院 2現警視庁

   https://www.jstage.jst.go.jp/article/vsj/2016/0/2016_151/_pdf からの引用に、


(※2)青ヶ島火山及び伊豆諸島南方海底火山地質図 産業技術総合研究所 地質調査総合センターhttps://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/aogashima/text/exp07-2.html


(※3)https://www.jstage.jst.go.jp/article/tousho/4/1/4_28/_pdf

を見ながら加筆・修正)

   

・(※1)から引用した図を見れば、1780年に水位が上昇した大池・小池(青が島の水源)が、そのまま新しい噴火口となり、1783年には噴出物の堆積した丸山ができたことが一目でわかる。



◇ ◇ 八丈島への全島避難を物語る人々の偏向記述について ◇ ◇



・(※3)は 青ヶ島の記述は詳しいので 参考にしたが、故意に悪意を持って八丈島の人間を貶め

 青ヶ島からの避難民が迫害されたと臭わせることに躍起になっているように感じて不快だった。


 標題に「天明の別れと青ヶ島のモーゼ」とつけるとこからして、読者誘導を図る悪意を感じる

(出エジプト記のモーゼは ファラオによるユダヤ人迫害物語の立役者といういかがわしさである)筆者は都立広尾病院 消化器内科(島しょ医療研究会世話人)小山茂 


・ほかにも ネット上に「還住」という言葉を使って、青ヶ島の避難民のことを語る投稿の多くに

『八丈島では迫害されていた的記述が目立つ』のが 非常にに気になったので、ここであえて異議を申し立てる。


・そもそも 青ヶ島島民が八丈島で暮らす為の生活資金を出したのは、八丈島の百姓である

 しかも金500両の信託は10年で切れる

 それを1786年~1796年までの20年間も年50両分の食糧と10両分の帰還費用として 青ヶ島民に与え

 青ヶ島民の帰島のめどのついた1821年から完全帰還の1824年まで年40両の支援を続けているのだから そこに文句をつけるのは ただの「クレクレ」根性でしかないのではないか?


 八丈島三根村の百姓高村三右衛門が、青ヶ島からの避難民の為に用立てた金500両に利息分100両も付け加えて青ヶ島島民に支給したあとも

 期限切れ後も24年間も八丈島の役所(といいつつこれは八丈島からの持ち出し)から青ヶ島避難民に支給した総額は760両、


 八丈島島民は 飢饉のさなかも年貢を納め続けているのに、ただ養われていただけの青ヶ島民は文句ばかりではないか。


・悪く考えるなら、これまで青ヶ島から八丈島行の連絡船はいつも無事、そして1793年以後青ヶ島行の船がことごとく漂流しているのは、青ヶ島島民が支援金を使って購入した船荷を積みすぎたり 故意に操船をないがしろにして船を流していたのではないか?、


 そして 支援金の原資を使い果たした結果、八丈島島民が毎年役所に収めた金から給付金を得るようになったので八丈島に居ずらくなり、これまで八丈島在住の青ヶ島島民がおこなって鰹節の密売などをとりすまる風紀粛清が始まったから1817年以後 青ヶ島へ戻る船も遭難ゼロになったのではないか?と言えなくはないか??


 八丈島の人間が青ヶ島島民を迫害していたなどという想像でモノを言うなら

 青ヶ島島民の帰還船に 八丈島に流されていた罪人たちが潜り込んでいた(青ヶ島島民が金に眼がくらんで逃亡ほう助をしていた)と言う憶測を突き付けられても 文句は言えないだろう!と言いたい。


・さらに何十人も全員無事で紀州まで流されて行くなんて ちょっとあり得ない。

 それこそ「一度目の紀州への遭難」の事例を参考に、今度は意図的にズル(逃散)をしようとしたのではないか?」と疑われてもしかたがないのでは?


 紀州への一度目の遭難も、悲惨な結果には終わっているが、出発時の状況が不自然すぎるのである。


そもそも1793年に青ヶ島に渡航し、青ヶ島での暮らしの厳しさゆえに1897年には全員八丈島にもどってきているにもかかわらず、

1796年、幼女2歳も含む一族揃って家財道具まで取り揃えて出航するっておかしすぎるだろう!

 それこそ 当時は潤沢に使えた高村基金を使って、欲に眼がくらみ、

 本来の目的(噴火後の荒れ地開拓)に必要な食料や種類の購入費用を流用して 己の私財を肥やすために不用品を買い込み船に積み込み、その重量で遭難したんじゃないか?

 復興開拓費用を私ごとに使って、今後、自分達一家が青ヶ島で優位に立とう、あわよくば・・ともくろんだのか?

と 汚職・横領疑惑しか湧かない話だ。

 もちろん『復帰の意欲が強すぎて気が大きくなった結果だ』といえなくもないが、

長年青ヶ島周辺の海の厳しさ、噴火後の青ヶ島の現状を知る者としては、ありえない行動(出発準備)であったことに変わりはないのだから、やはり 裏があったと思われてもしかたなかろう。


 一方、紀州まで流された青ヶ島島民を、きっちりと八丈島まで連れ戻す紀州尾張藩も江戸幕府も 『逃散許さじ』とかなりの気合が入っているなと思う。

なにしろ医師まで派遣して遭難者の状況確認を行っているのだから。

ただの現地からの報告だけではすまされない、よほど疑うだけの理由があったのではないだろうか?



・一次資料の存在を明記しない残酷物語の流布は 誹謗・中傷・悪意宣伝にほかならない。


 悪意に基づく憶測の拡散は、上記のごとく悪意の倍返しを込めて反論を招くだけだと 心していただきたい。

(八丈島島民を貶めた記述が皆無なら、当時の各種の記録を読んで 被災後の青ヶ島の人達がアホなのかズルいのかと思っても、それをここで口にしないだけのわきまえが私にはあります。やっぱり被災者は気の毒だから)



・現実は もともと協力関係にあった離島の住民どうし、飢饉のさなかにおいても ともに頑張りぬいて生き抜いた、

青ヶ島の人々が、避難先の八丈島に定住することなく40年かけて全員青ヶ島に戻ったのは、

当時の幕府の掟により、青ヶ島島民は 八丈島に定着することが許されず青ヶ島に帰還せざるを得ない立場だったというだけのことではないだろうか?


 それを、青ヶ島島民が八丈島に残ることなく帰島したのは、迫害されていたからだという(臭わせる)人間は、浅はかすぎる。思い込みで歴史を語るな! と言いたい。


・避難状況に関する創作的残酷物語ほど流布しやすいものはない。

(その状況をリアルに考えれば 実行不能とわかるはずなのに)


溶岩が流れ、焼けた噴石が飛び交い、噴煙で真っ暗な中、平時でも着岸のむつかしい青ヶ島に

八丈島の人達が船3隻を出して、青ヶ島島民を救出したというのは、

救出者にとっても命がけの作業であった、

1分1秒が全滅と隣り合わせの危機的状況での作業であったと何故考えないのか!? と言いたい。


・あまりにもむかついたので、当時、生き残ることが困難だったのは 日本中どころか世界中の人が皆そうだったのよ! 青ヶ島の人達だけではなかったの! と言いたくて、

『江戸時代の飢饉と世界的規模の気候変動』についてまとめたものを、

いずれ、余談として投稿したい。


◇ 


(※3)を読んでいて もう一つ 強く疑問に感じたことがある。


小山氏は、当時の八丈島と青ヶ島の往来は、成功率50%の危険な旅であったと述べている。

この点についての疑問であり、そこから湧いた疑念である。


・(※3)の資料を見ると、青ヶ島から八丈島への報告のための船は無事に行き来し

 八丈島から青ヶ島へ検分に来る船も 行きは無事で、八丈島に戻る時だけ房総半島に流されて行る。


 さらに 八丈島から青ヶ島への帰還船も、資金潤沢だった時だけ遭難しているのも怪しいと感じた。


・八丈島は、鰹節と絹製品・塩などの換金作物の生産地であり、中世には島の領有権をめぐって武士たちが海戦を繰り広げるほど産業地としてうまみのあった土地である。

 言い換えるなら 本土との安全交通が確立していたのではないか?

  (しけで遭難するのは 日本各地の漁民は 皆同じ)


 江戸時代に江戸からの流刑地となってからは、おそらく人の出入りが監視されるようになったのであろうが、もともと船で 本土と往来することに慣れていた八丈島島民ならば、青ヶ島への検分に行った帰りに漂着しましたという口実で一度房総半島まで行って、有力者との政治的コネクションを維持したり、島の生産物を換金する(八丈島が監視されているのなら青ヶ島の生産物を換金する)くらいのことができたのではなかろうか?


 この点については、八丈島を発着する船の遭難記録を分析して、それが特定の条件でのみ遭難率が高いか否かを確認する意味はあると思う。

もし 特定の条件でのみ 本土に漂着することが多いと判明すれば、以下のような推論が成り立つのではないだろうか??


・もともと 日本では 言葉が和語と漢語の複層構造を持つように、

人々の往来も、制度上の統制とは別に、「地の人」ネットワークともいう別系統のつながりにより商業・農業・採掘~工業の発展をなしとげてきたのであるから、(この点についての説明は長くなるので今回は省略する)

八丈島・青ヶ島組も、絹・鰹節という特産品を武器に本州との横のパイプ(中世から続くつながり)を持っていたとしてもおかしくないと思う。


・八丈島経由で本土に具申するたびに、年貢減免がかなう、お救い米が出る・援助許可がおりるというのも違和感を感じる。


本土では 飢饉で屍を食う状況に陥っても年貢減免がかなわなかった土地がほとんどであったにもかかわらず!


お救い米を出してほしいと要望しただけで、(はりつけ)(=死刑)にされた人々もいたのに(「安政五年七月十一日」かつおきんや作ほか 各地の記録)


なので、八丈島&青ヶ島と中央のパイプがよっぽど強かったのではないかと感じてしまった。


 それこそ「離島」の強みを生かした 生活術をもっていたのでは?


・本州の各地域ならば、江戸も中期、それも飢饉のただなかで、百姓が金500両もポンと出せるというのは、なんらかの歴史的横のつながり(資金源)があればこそだと思うのだが。

それができた八丈島、出してもらえた青ヶ島って?


・だいたい非常食や通貨代わりに使えるほどの量の鰹節をつくれるくらい カツオ漁が営める人達が

 そんな簡単に遭難するか?と言いたい。


 離島で船を造るのが どんだけ大変だと思う?遭難率50%では 漁師をやってられんわ!


 まして 毎年金10両以上も費やして 10年以上も合計二けたに達する連続遭難しかないというのは不自然すぎる

 そして 渡航費用が尽きたら、急に 風紀をただして 復帰に努力して10年で帰還しおえるって

 それまでの30年は なにをしてたの?

 お金がたくさんもらえてた間のあの船の流されようはなに?

 一部例外を除けば、ただ房総半島に流れて行ってた(自己申告)だけじゃない!と言いたい。


  しかも 人命にかかわる漂流をしたときには 江戸から紀州まで医師を派遣してもらって!

(もっともあれは、逃散を許さず、人別改めは厳しいぞという幕府側の意思表示だったのかもしれないが、それでも 役人ではなく 医師を派遣しているところがねぇ・・・)




TVドラマの時代ものを見ていると「飢饉=権力者が悪い」というテンプレができあがってはや30年

そして「気候変動=人類の危機期」とばかりにメディア・ネット記者・編集は煽り立てるが、

地球の歴史としてみれば、気候なんて常に変動しているのである。


そして 農業生産・食料確保が厳しくなるほど気温が下がったり、巨大氷床がなくなるほど温暖になることも 常に繰り返されてきた。

その気候変動とともに 文明が栄えたり 人々が集団移動したりで歴史が作られてきた。


・そのあたりについて データを突き合せた作品として

「気候文明史 世界を変えた8万年の攻防」田家康 日経新聞出版社 2010年2月19日 第一刷


この本では、歴史的事象を関連付けて述べているだけでなく

「過去の気候変動をどう調べるか、気象観測・古文書・樹木の年輪・湖沼と海底の堆積物・氷床コア」

「気候変動はなぜ起きるか、

  地表面等の変化(大陸移動・造山運動・深層海流)

  地球軌道のパラメーターの変化・太陽活動の変化・火山活動・温室効果ガス」


と基本的な要因についても網羅しているので、”昨今の政治的圧力団体・気象変動を口実にした利権屋どもの策謀に対抗するための基本的な理論武装ツール、さすが日経!”と当時の私はいたく喜んだのであるが

(以下略 要は全然役立ててもらえなかったですねぇ~

 むしろ いつのまにやら国家公務員一種試験問題から 統計・資料分析などの項目が減らされたような気がする)


この本と、

「クラカトアの大噴火 世界の歴史を動かした火山」サイモン・ウィンチェスター 柴田裕之訳

早川書房2004年1月31日

で年代を参照しつつ、日本の飢饉年表を見比べつつ 考えたい。


(なお類似書に「西暦535年大噴火 ディヴィッド・キース畔 上司訳」文芸出版 2000年2月20日第一刷

 があるが、これは 煽情的に出来事を羅列したにすぎない。いかにも文屋っぽいでき)



・天下大変 資料に見る江戸時代の災害 国立公文書館

  https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/tenkataihen/history.html によると

江戸時代の飢饉は


寛永の飢饉1641~1642

 1662京都大地震 1665越後地震 1666諸国風水害


諸国飢饉1674~1675


出雲の飢饉1680

奥羽・北陸の飢饉1695

奥羽・蝦夷地の飢饉

 1703元禄地震 1704浅間山噴火 1707宝永地震・富士山噴火 


享保の飢饉1732~1733

 1751越後高田自身 1771琉球八重山地震

 1777~1779三原山大噴火  1779桜島大噴火


天明の飢饉1783~1788

 1783浅間焼け


と続く。ここに青ヶ島の噴火1780~1785の記述がないのが、離島の悲しさ


江戸幕府にとっては、1786江戸の大水害、1788京都大火 1792島原大変の方が大問題なのである

(ちなみに 天下大変の次の地学系記述は1822有珠山大噴火までない)


・それでも 八丈島からは、青ヶ島の噴煙を見て救助に向かっている。


飢饉のさなかであっても 青ヶ島の村民の約3分の2を救助して八丈島に連れ帰っている。


救助船が3隻であったのは、青ヶ島の地形的要因から、それ以上の船を派遣しても人々の乗船を待つ間の船の待機場所がないとか 八丈島そのものが それ以上の船を出せなかったなどという 物理的要因もあったのではないか?


・当時八丈島には「支配者である武士は存在しない」「島民らのの自治組織によって行政が執られた」


(東京都公文書調査研究年報 2019年第5号 八丈島流人アーカイブズの概要調査報告

―都有形文化財「八丈民政資料」の伝来と構造― 東京都公文書館 史料編さん担当工藤 航平 p4

https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0609r_report05_01.pdf)


のであるから、青ヶ島の人々を八丈島に受け入れたのも、島民の総意であったと考えられる。


まして 前述(※3)のように 八丈島の百姓が私財500両を投じて、全員帰島がかなうまでの24年間にわたり総額1360両もの支援を八丈島役場から、青ヶ島避難民とその人たちから八丈島で生まれた者全員に対して継続して、食糧確保と帰還費用確保のための援助を行っている。


だから 最近のネット投稿でしばしばみられる、八丈島の人々が青ヶ島からの避難民をいじめたと言った記述は きわめて不適切ではないかと思う。

(人間2人以上いれば もめごとゼロなんてありえないんだから)


あわせて、青ヶ島の島民全員を船に載せられなかったことについての、八丈島から救助に来た人達の葛藤をもっと思いやった記述を、投稿者たちには考えていただきたいと思う。


尚、「八丈実記」も東京都公文館に保存されている。  


長くなったので 続きは次頁にまわします


今回 いろいろと調べていて思ったのは


八丈島で暮らす方々も、青ヶ島で暮らす方々も、「離島」という 一見不利に思える条件をも


八丈島ならでは、青ヶ島ならではの強みにかえて自然環境を活用し、

火山の大噴火という天災をも、たくましく 不屈の精神で生き抜いてこられたこと

そして そこには 両島の強い協力関係があったのではないかということである。


だからこそ それを通りいっぺんの「いじめ」なんて枠組みに押し込めて部外者が語ることへの

不満を このページでは、強く出してしまったが

それは けっして 当時 青ヶ島に住んでいた方々や八丈島に住んでいた方々を非難するものではない。


むしろ 大災害を乗り越え 新たに生活を切り開いた両島の当時の方々への尊敬の念を強くもってのことであるとここに書き添えておきます。


(仮説を述べることのむつかしさ 危うさをも 感じております)

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