余談1:青ヶ島と八丈島
前頁「東町1」の後書きが長くなりそうなので 別枠で投稿します
余談が多くてすみません。
■~■■の部分は、本文から派生したおまけ的な、私の個人的な意見なので 読み飛ばしてもかまいません
・東京から358キロ、八丈島から70キロほど離れた離島青ヶ島
https://www.vill.aogashima.tokyo.jp/access/ (公式サイト)
典型的な火山島であるため、絶壁に取り囲まれ港らしい港を作ることがむつかしかった。
なにしろ 海に突き出した火山の噴火口に人々が住み、外輪山がそのまま海との境界線になっているのだから。
その光景(空撮映像)は、NHKアーカイブで堪能できる
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0002160635_00000
海底からの地形図・地質構造図などは
https://www1.kaiho.mlit.go.jp/kaiikiDB/kaiyo13-2.htm
海上保安庁 海洋情報部 海域火山データベース が信頼できると思う。
今の島の地形に関する案内としては、和田亜希子さんの投稿「火山が作り上げた独特な地形の青ヶ島~立体模型でまずは予習」が分かりやすかった。
https://taiken.in/island/2015/553/
・青ヶ島村というのは、火山の噴火口に住んでいるに等しい。
火山活動がなければ、阿蘇のカルデラ同様 のどかな田園光景になるのだが、
ひとたび 火山活動が活発化すると全島避難以外、助かる道はない。
しかし 一番近い島が八丈島。こちらも離島である。
◇
・八丈島は、7000年ほど前には、人が住んでいたが、ずっと住み続けていたわけではない。
湯浜遺跡・倉輪遺跡がある
遺跡の規模、神津島産の黒曜石の矢じり、本土から持ち込まれた縄文式土器、丸木船を作ったと思われる石器の出土から、人々は島伝いに移ってきて居住したのち、居なくなったと思われている。
http://www.town.hachijo.tokyo.jp/gaiyo/history.html
・八丈島 火の潟遺跡では、製塩炉と思われる焼土遺構が出土した。
https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-24520864/24520864seika.pdf
中部地方内陸地域における古代・中世の堅塩・焼塩の生産と流通に関する研究
H27年5月 平野修 帝京大学・文化財研究部講師
(火の潟遺跡については、八丈町教育委員会 1991、01の発掘調査報告書あり)
◇
・一方青ヶ島は、中世になって遭難記録として史料に登場するまでは 記録がない。
しかし 中世には絹織物の産地として八丈島が名乗りをあげるのにあわせるかのように
青ヶ島でも養蚕が始まったようである。
噴火が始まるまでの青ヶ島は、農業生産と養蚕により 住民数が限られていても安定した生活ぶりであったようだ。
なお、八丈島と青ヶ島は税は米ではなく、絹織物でおさめており、
青ヶ島で作った絹糸を八丈島で染色・機織りして納めていたらしい。(ウィキ 他)
さらに 青ヶ島では 鰹節を通貨として扱っていたと言われる(※3)
◇
この画像は、https://34468.mitemin.net/i736224/
”日本の三大紬「黄八丈」”の写真と説明を組み合わせた
このページには 黄八丈の制作場面を にぎやかな音楽を場面に紹介しているが、場面転換が目まぐるしく 上記の説明をしっかりと読んでから見ないと理解しがたい。
(ちなみに 「黄八丈・画像」で検索して出てくる画像の90%以上が この動画からのスクショだったw)
尚 織機の説明は
「宮古の地機について 仲間伸恵(宮古織物研究会員)」
https://www.city.miyakojima.lg.jp/soshiki/kyouiku/syougaigakusyu/hakubutsukan/files/nakama.pdf を 読んで 注釈に利用した。
仲間氏の論文では、八重山で地機を織る女性の絵(八重山蔵元絵師画稿集より)が添付されている。
その絵をみたら、明治になって 機織りが一斉に高機に変わった理由がわかる。
座った姿勢で 腰を振って 腰に括り付けた経糸の貼り具合を調節するなんて
めちゃ苦痛ですよ。
逆に高機は、40年くらい前の手織りブームの時に、女性達の手芸クラブや特別支援校の生活体験学習に取り入れられたが、あれは楽ちん、根気さえあれば、初心者でも実用に耐えるものができあがる。
今は高機を改良した卓上式織機が 子供のホビー用品として出回っていがるが、あれと地織は、ぱっと見が似ているが、実体はまったく違うので 早合点しないでくださいね。
仲間氏の論文には 八重山の地織の豊富な写真が具体的な解説付きで載っています。
日本の伝統的な手織りに興味のある方は ぜひご一読ください。
◇
・八丈島は、江戸時代には、政治犯を主とした流刑地でもあった。
(昔の政治犯は教養豊でまじめに庶民の生活改善願う改革派が多かったので 島の暮らしの改善に役立つ知識や技術をもたらした者も多い)
刑期があけて本土に戻る流人が半数を占めていたことなどと考え合わせると、江戸時代の非人政策:『換金性の高い生産物のある所への労働力の補給』的要素があったのかもしれない。
(参考:http://abikosisiken.main.jp/kaihou/kaihou151.htm)
なお、八丈島の流人たちは、武士の流刑地であった五箇山の流人どうよう、流人たちには食料が提供される一方、その生活は自由であった。
(元ネタのアドレスを失いました。たしか東京の公文書館資料でした)
だから「八丈実記」なんて膨大な記録(半分日記の見聞録)を書く流人も出てくるのだ。
けっして強制労働があったわけではない。
今後の第五列悪意宣伝(捏造歴史の流布)に利用されては困るので この点はしっかりと強調しておきたい。
(八丈実記の中の挿絵は、https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0701syoko_kara03.htm)
八丈島の流刑に関する文献を読んでいると、「穏やか」と言われていた八丈島の流人たちが のちに騒動を起こすようにもなったらしき記述がチラホラ出てくるが
もしかしたら、これにれは、八丈島の場合は、もともと武士などの流刑地であったのが、
『寛政8年 (1796) には、大島、利島、神津島、御蔵島の4島が流刑地を免除され、これ以
降は三宅島・八丈島・新島のみが流刑地』(※)になったのも関係しているのだろうか?
(※) https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0609r_report05_01.pdf
東京公文書館調査研究年報2019年第5号 八丈島流人アーカイブズの概要調査報告ー都有形文化財「八丈民生資料」の伝来と構造ー 東京都公文書館 史料編纂担当 工藤航平 より
あるいは、江戸の情勢が不穏になった江戸後期になってから無宿の流人が増えた可能性はなかろうか?
この点に関して考察を進めるには、流人明細帳などの一次資料を集計するときに、流人の身分・犯罪理由について年度ごとにまとめて 社会や制度の変動と突き合わせて分析しなくてはならないと思う。
(かつおきんや氏は 金沢の武士の配流地であった五箇山に、なぜ突然 天保9年に検知願いを出した農民(村役人)たちの家族がまとめて送られたのか?という理由について、火薬の原料(硝煙)需要が急に高まったためという説を立てている。(「五箇山暮らし」牧書店 のち偕成社に版権が移動、尚 かつお氏はこの仮説を公表するまでにかなりの年月をかけて調査を進めておられた。)
・今はまだ私の仮説である、「八丈島への流人は 黄八丈生産のための人手を補うため」見立てが正しければ、八丈島に残されていた流人たちの明治半ばの一斉帰還は、官営紡績工場が稼働して輸出産業としての目処がたったからという理由付けもできるのだが、どうだろうか?
ならばそれは 江戸時代までは、日本国内での商品流通を基盤とした日本国内の産業構造であったが、明治維新とは、日本が「輸出型産業構造」に転換するために必要だった政治・制度転換だったとという見立ての証左ともなりうる。
■
・なお、議員どもは、「公文書の保存年限を決めて曝書しましょう!それが合理化!」と悪法を流布し片っ端から貴重な資料を消し去っている。
本来 歴史研究に欠かせない重要な資料として保存目的で「公文書」として保管してきたものまで
このあおりを食って 曝書され、悪意に満ちた日本誹謗目的の歴史の書き換えが強引に進んでいる
そんなことをされたら、例えば 八丈島や青ヶ島の人達も、「流人の島だった、俺達は犯罪者の子孫と思われたくない」と心も捻じ曲げられ、先祖たちが柔軟に、自然環境と調和し・社会制度の変化に対応しながら生きて来た歴史をも忘れ、乱開発・よそ者が描くその場限りの「村おこし事業」によって自分達の生活基盤を食い荒らされ植民地化されてしまうだけである。
イタリア・フランスやドイツなどでは、教会が資料保存庫として、こまごまとした書付を何百年も保存し現代に至っているから、今も 新たな視点でそれらの資料を精査して 当時の民衆の生活ぶりだけでなく自治の変遷をも確認し、権力者が流布した歴史概念の見直しが度々行われ、それがまた 今の日常生活における現代人を苦しめる「通念」の見直しに役立てることもできたのである。
戦後日本においても、日本各地で「郷土資料」を基にして、明治政府が押し付けた価値観を是正して、現代日本の民主主義の確立にむけた「郷土の誇り=市民の誇りを取り戻そう」と言った感じの取り組みが集中的に行われた。ノンポリの学究集団である。
その営みに協力して、各地の「地の人」たちが 土蔵に天井裏に何百年も保管してきた記録を提供し、それらが教育委員会所轄の公文書として 役所に引き取られて行った。
にもかかわらず、地の人たちが1000年近く大切に守り継いできた資料を、ただの地方公務員それも高卒採用の初級公務員たちが勝手に 提供者に無断で曝書しまくり、かつての研究報告書(たいていは非売品・編纂に大学の研究者も地元の教師たちも地元の伝承者も協力してまとめ上げた報告書)までゴミ捨て場に運び込んで消し去っている。だからこそ、研究者や「地の人」の末裔は憤慨しているのである。
(まともな公務員なら そうした資料の破棄を打診されても のらりくらりと逃げを打って自己保身をはかりつつ 貴重な資料の曝書には手を出さない。無知強欲な屑公務員たちが己の点数稼ぎに曝書を率先して行っているのである。それが、地方公務員の非常勤~上級公務員に至る質の差であるとともに組織構造のゆがみにより、外部からの示唆による不正と汚職がはびこる現状でもある)
各地の図書館司書だったり歴史資料館の担当だった者たちもその動きに反対して ただの事務所に強制移動させられたり退職に追い込まれたり。
地方議員達も 平気で資料室・資料館の維持費(場所代)がもったいないと 収納庫をつぶし、
人気取りイベントの場所にくらがえしてしまい、メディアはそれをよいしょしてはやし立て、
土建屋(議員と密着)は建て替え工事で、昨今ではイベント屋が企画・コンサルタント料を取ってウハウハ。
(今の日本 新しい施設・イベントができるときには、必ず 既存の施設・催しをつぶしているのだということの裏の意味(負の側面)をもっと 真剣に考えてほしい!
”なんかおもしろそう どうでもいいけど新しい方が刺激があっていいんじゃない”では困るのである
せめて ”そのことによって 誰が一番儲けてるの?私たちの税金を使って得するのはだれ? 私が出したお金=税金を一度足を運ぶかどうかの娯楽に使っていいの? わざわざxxをつぶしてまで今やる必要があるの? ”と考えてください、お願いします!m(__)m)
一方 HNKは大河ドラマなどの作成の参考資料にするために そうした資料探しに精力を注いだり、各地の郷土史家や地元の産業の担い手を「時代考証家」として協力をあおいでいたが、「NHKの偏向報道是正」(政権にとって不都合な情報をニュースにされたくない)議員達が「NHKの解体」を叫んで 強引にNHKの組織をかえてしまい、それへの批判を避けるために「NHKの受信料徴収反対・NHKつまらない」と大衆をあおり、今やNHKの大河ドラマはジャニーズなど若手の学芸会となってしまった。
しかも NHKはドラマ1本を作るための時代考証の為にと、各地の地の人の倉をあさって歴史資料を集めて回ったのだが、ドラマ制作後に集めた資料をどのように処分したかを一切公表しない、しかも歴史的検証を懸命に行なって作ったドラマの大半を「貴重なフィルムの再利用」の為に消してしまうから、彼らの歴史的検証もその場限りのものとなってしまった。
戦前・戦中の荒波の中、大日本帝国の主義に反対して地元の歴史を守りぬくためにひっそりと資料を保存してきた地元の人の心と努力を踏みにじった点においては、NHKの番組制作に携わった者達も罪を負っているのである。
「全国放送のドラマに反映されれば、地元で語り継がれたが地元の人しか知らない歴史が、今後、日本全国に広がって後世に残すことができる」と、地元の資料提供者達を口説いて協力させ、期待させて裏切ったのである。 実際には 貴重な資料を持ち去り消し去ってしまっただけのNHK
(庶民が命がけで、特高を筆頭とする官憲に抗して守り抜いた歴史資料を勝手に処分したことについてはどう責任をとるのか?おためごかしに持ち去って 自分達の番組制作に利用したらあとはゴミ扱いとはひどいじゃないか!!
昨今の屑大河ドラマは言うに及ばず、それ以前の時代考証を重視したドラマ制作時においても 実は いろいろ問題を引き起こしていたNHK。
日本のメディアが率先して積極的に、己の国の歴史と文化を搾取して金儲けに利用してポイしているから、いつのまにか他国出身者たちによる捏造歴史にぬりかえられ、ディスられまくることになったのである。
捏造日本史に対する反証材料となるはずだった「資料・遺物」を 「郷土の歴史の調査のために」という名目で捜し歩いて徴収した挙句に、その時に記録したことをも含めてすべてを 焼却し跡形もなく消し去った日本の公務員とメディア職員の罪は重い)
◇
・ただ、東京都では「公文書館」、関東の一部地方では「博物館」でそうした資料を今も保存しているようなので 担当者達の今後の奮戦を祈るばかりであるし、日本各地の地元の人は まだ手もとに残っている自分達の先祖の歴史・記録を大切にして頂きたいと心から願う。
「誇り」というのは、築くには時間がかり維持するのはしんどく、失うのは一瞬。そして一度手放した「誇り=尊厳」は戻ってこないのである。
「誇り(記録)」を失えば あとは外来者にいいようになじられ踏みにじられ収奪対象にされるだけなのだから。
中国人はこれを「精神支柱」と呼んで決して己のものを手放すことなく、
その一方で 敵が持つ文書も建物も時には衣装すら痕跡残さず破壊し続け、
ハングル文字の連中はせっせと攻略対象を支配するための歴史書き換えに励みつつ、侵略対象国の歴史的遺物・文化を自分たちの所有物だと叫んで利用している。
「征服する(相手を支配する)には、相手の心のよりどころのなる「物」を全て消し去るのが一番」というあの手法は、見事に成功していると思います、中国4000年の歴史をたどれば。
なぜ それに 日本のメディアも議会も協力して積極的・強権発動してまで曝書を進めたのかねぇ?
■ ■
画像出典
https://hirotatsumugi.jp/blog/11647
本場結城紬を専門に扱う問屋廣田紬株式会社のブログ「問屋の仕事場から」
・「伝統工芸品」とは、その地域から産出される素材を元に、伝統的な技法と匠の技をもって作られているだけでなく、
「伝統工芸品産業の振興に関する法律」で定められた基準に満たしたものだ。
(日本伝統文化振興機構 https://www.jtco.or.jp/tradition_craft/?id=1)
さらに東京都の場合「都内に置いて協同組合を設立できる程度の規模(4企業以上あること)などの規定を加えて」東京都伝統工芸品産業振興協議会がそれを認めたとき 知事から「伝統工芸品」に指定されるとなっている。
https://www.jtco.or.jp/tradition_craft/?id=4
・この「協同組合」云々の規模の話から、以前 ベルフラワーで触れたことのある、八丁味噌騒動の中心となった「組合」定義の問題点がより明確に分かった。
つまり「伝統的工芸品には複数の生産者の存在が必要なんだから、マルヤとカクキューしか製造していない八丁味噌には「伝統」を認めることができない、わしら新興集団大量生産粗悪品ミソ生産者がつるんで、愛知県の伝統産業として知事に指定させて マルヤとカクキューには「八丁味噌」を名乗らせるな(その伝統的呼称を奪おう)」という一連の悪辣な騒ぎの根本は、「協同組合の規模の定義」にあったということ。
最近では 「新八丁味噌」なんてまがい物がスーパーに出回っていますが あれはパチモンです。
そして カクキューさんの商品は一時期 スーパー、デパ地下の商品だなから追い出されましたが
最近 元通りの商品名「八丁味噌」のまま、店頭に戻りつつあるのでヤレヤレです。
一時、カクキューさんは、八丁味噌は その真価を認めているフランスへの輸出だけして、もう日本国内では販売しないとまで言ってましたもんね。数にモノを言わせる連中に名前を奪われるくらいならばと。
知事の持つ権限(許認可権)というのは、生活・文化・伝統維持の根源にもかかわるので、
選挙の時には 所属政党やキャッチフレーズだけでなく
「そいつが何をしようとしているのか?」を細かくチェックして投票しなければいけない時代になったと痛感させられるできごとでありました。
(だからイギリスでは 立候補者の政策を細かく討議するための 住民が立候補者に質問するための、「立候補者を囲んでのその選挙区の有権者討論会」や「立候補者が有権者に自分が掲げる公約について説明して回るための家庭訪問」が重視されているのです。
アメリカの人気学園モノドラマにも時々そうしたシーンが出てきますがw)
・それはともかく、黄八丈の場合は、「黄八丈織物協同組合」が認定したものが「本場黄八丈」としての証紙を持っている。
また 組合に属せず、独自に伝統的工芸品の技法で製造された優秀な品もあれば、
「きはち」風の製品もピンキリで~ といった 織物のランクとその見分け方について わかりやすいく説明しているのが、
上記のhttps://hirotatsumugi.jp/blog/11647 ページでした。
子供用浴衣(化繊)や半纏によくある柄↓が
八丈島の絹織物「黄八丈」を各地で模倣した末に定着した「キハチ風」柄だったとは びっくりです!
ただの昔ながらの織物由来の柄だと思ってました。
◇ ◇
・次頁で述べる、青ヶ島の噴火とその後をまとめているときに、強く感じたことを、さきにここへ書いておく。
①行政区分としては、青ヶ島は 八丈島に付属する島として扱われていたようだが、
これは単純に、江戸からの役人が来るには遠すぎるからとりあえずでそうなったのだろうか?
むしろ、青ヶ島の歴史そのものが、八丈島で黄八丈や鰹節を生産するのに必要な生糸の生産地 として適した土地を求めて、八丈島の人達が青ヶ島まで開拓に行き定着したこと(仮説)に始まっていることを反映しているのでは?とも思った。青ヶ島の噴火前後の歴史を調べていて。
②江戸時代 年貢の減免を受けるには、代官所に検地願いを出して、検知(見に来ること)してもらって
それから 減免の割合が決定された。
(検地そのものが なかなか来ないし 来ても年貢が減免されないどころか 願い出た名主が投獄されることも日本各地ではあった、というがこれがフツーの状態だったのでは??)
・青ヶ島は 災害があると、その都度 八丈島に連絡すると、必ず八丈島から検地が来るだけでなく、
大抵救援物資を持ってくるところが、日本国内の他の地域では まったくあり得ない事象だと思う。
これは 八丈島の特殊性(江戸時代になって、島奉行や代官が送られてきたがいずれも短命、最後は 八丈島の在の人が 代官代理を務めることになったこと)とも関係しているのではないだろうか?
享保11年(1726年)以後の八丈島は「支配者である武士は存在しない」「島民らの自治組織によって行政が執られ」ることになった。※
※(東京都公文書調査研究年報 2019年第5号 八丈島流人アーカイブズの概要調査報告
―都有形文化財「八丈民政資料」の伝来と構造― 東京都公文書館 史料編さん担当工藤 航平 p4
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0609r_report05_01.pdf)