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第81話 どちらでもない喫茶店で

 広場のすぐそばに、小さな喫茶店があった。


 木の扉を開けると、真鍮のベルが小さく鳴る。


 冷え切っていた頬を、コーヒーの香りがゆっくりと包んだ。


 窓際の席にはイルミネーションが映り込み、ガラス越しの街は、まるで水の底で光っているようだった。


 二人は向かい合って座る。


 けれど、どちらもすぐには話し始めなかった。


 沈黙が気まずいのではない。


 言葉にしてしまえば壊れてしまいそうな時間が、この世にはある。


 店員が湯気の立つコーヒーとミルクティーを置いていく。


 先に口を開いたのは、ピアノを弾いていた少女だった。


 「……どうして、わたしに声をかけてくれたんですか」


 向かいの少女は少し困ったように笑う。


 「分からないんです。」


 一度、言葉を切る。


 窓の外の光が、その横顔を淡く照らしていた。


 「でも、ずっと探していた人に、やっと会えた気がしたんです。」


 その言葉は、不思議なくらい静かだった。


 思いつきではない。


 作り話でもない。


 もっと深い場所から、そっと掬い上げられたような声だった。


 ピアノを弾いていた少女は、小さく息を飲む。


 「そんなことって、あるんでしょうか。」


 「あるから、今日なんだと思います。」


 また沈黙が落ちる。


 店内にはレコードの小さなジャズが流れている。


 スプーンがカップに触れる音。


 ページをめくる音。


 誰かの笑い声。


 そのどれもが、この席だけには届かない遠い世界の出来事のようだった。


 やがて、白杖が椅子に立て掛けられていることに気づき、ピアノを弾いていた少女は尋ねる。


 「見えづらいんですか。」


 少女は頷いた。


 「少しだけ。」


 その返事には、悲しみも諦めもなかった。


 長い時間をかけて、自分の人生と静かに握手を交わした人だけが持つ穏やかさがあった。


 「でも。」


 少女は窓の外を見る。


 「冬の光だけは、好きなんです。」


 「どうして?」


 「ぼやけるから。」


 そう言って笑う。


 「輪郭がなくなると、世界が優しく見えるんです。」


 その一言に、向かいの少女は何も返せなかった。


 美しいと思った。


 世界は、はっきり見えることだけが豊かさではないのだと、初めて知った。


 しばらくして、少女が尋ねる。


 「さっき弾いていた曲、好きなんですか。」


 「はい。」


 少し照れたように微笑む。


 「冬になると、どうしても弾きたくなるんです。」


 「私も聴きたくなります。」


 その言葉に、二人は同時に笑った。


 たったそれだけだった。


 好きな曲が同じ。


 ただ、それだけ。


 けれど人生には、それだけで十分な出会いがある。


 時計の針は、静かに夜を進めていく。


 店を出るころには、街の灯りはさらに深く輝いていた。


 店先で二人は立ち止まる。


 名前を伝え合う。


 「わたしは、栞。」


 「私は、深雪。」


 それだけだった。


 電話番号も聞かない。


 約束もしない。


 「またね」とも言わない。


 けれど別れ際、栞はふと空を見上げた。


 「雪、降りませんね。」


 深雪も同じ空を見上げる。


 「はい。」


 少し笑ってから、静かに続けた。


 「でも、今日は降らなくてよかった。」


 「どうして?」


 「もし雪が降っていたら、今日のことを、雪のせいで特別だったと思ってしまうから。」


 栞は少し驚き、それから柔らかく笑った。


 「じゃあ今日は、この街が特別だったんですね。」


 深雪は首を横に振る。


 「街じゃありません。」


 ほんの一拍、間を置いて。


 「会えた人が、特別だったんです。」


 冬の風が静かに吹き抜けた。


 白い息が交わり、すぐに夜へ溶けていく。


 その夜、二人は別々の道を歩き始める。


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 作者です。

 81話という長い作品を読んでいただき、心から感謝いたします。

 私にとって、この作品は初めて最後まで書きあげられたもので、いわば『初期衝動』の塊のような作品です。

 皆さんの琴線に少しでも触れることができたのであれば、これ以上の喜びはありません。

 この作品はここでいったん区切りをつけますが、哲人・栞・深雪がそれぞれ28歳になった『スポンジ2』が始まります。

 少しでも興味がありましたら、お時間のある時にお読みいただけると幸せです。

 改めて、『スポンジ』を読んでいただきありがとうございました。

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