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作者: るて



【ブルーモーメント】


夜が明けた。わたしはベローシファカになっていた。


以前


もしも明日わたしが突然ベローシファカになっていたらどうする? 


と尋ねたらパートナーは

ちょっと待っていればもとに戻るかもしれないしあんたがベローシファカであってもロクセラーナであっても気にしない。

と答えた。


そのときわたしは笑っただろうか。


部屋のなかに木陰が見えるようにとオーダーしたデザインカーテンが揺れていたことは覚えている。

パートナーが、いつも森にいるような気分で過ごしたいと願ったから、そのカーテンを選んだ。


「あんたはやさしさを振りかざす。やさしさで拘束する。暴力より悪い」


一昨日

パートナーはそう言い捨てて出ていった。きっと戻ってはこないとわたしは確信した。

わたしには優しさのほかに何も個性がない。その優しさが暴力より悪いというのであれば、なすすべがない。

パートナーに、あらたな幸せが訪れますように。と思ってはいる。

それでも


遠のいてゆく記憶は

冷たくしすぎていつまでも溶けないアイスクリームに似てる。

その冷たさを心に転がしながらわたしは眠った。夜明け前に目覚めて、ああ珈琲を飲まなければと思った。

ブルーモーメントのひとときベッドから眺めた窓の外の空に曙光の兆しはなく、わたしは横たわったまま考えた。


珈琲を飲まないまま二十四時間が過ぎていく。


契約はその約定を果たす。


次に目覚めたらわたしはベローシファカになっているだろう。かまわない。


少し自棄。なるようになればいい。

優しさなんて。

そう思いながら眠りのなかへ、うす闇の静けさへと、無理やり自分を押し込んだ。



そうしてベローシファカに

わたしはなった。


【それはともかくとして珈琲を探さないと】


ベローシファカは珈琲を買えるのだろうか。

ベローシファカのための服はない。このまま出かけるしかない。

財布はあるがキャッシュはない。あるのはカードだけだ。

(本人だと言って、信用されるとも思えない)

(そもそも言葉が話せない)


どこかで誰かから珈琲を譲ってもらわなければ。

珈琲さえ飲めたら。

人間に戻れるはず。


あの契約の提案を受けたとき、わたしは同意して誓約した。

覇気や勇気や闘争心はなくしてもいい。それらの代わりにありったけの優しさで私を構成してほしい。

願いはかなった。


契約条件は珈琲を毎日飲むこと。銘柄は問わない。インスタントでもドリップでも、缶入りでも紙パックでもいい。とにかく珈琲と名前のついた飲料を飲むこと。

たったそれだけだった。


契約を交わしたとき、こんなに簡単なことでいいのだろうかと、思った。

その簡単すぎる契約を反故にした理由はおそらく自分に、その契約内容そのものにあったのだと思う。


優しさでパートナーを苦しませてしまう日がくるとは。

わたしには予測できなかった。


契約には必須条件として、誓約破りの際には何かになることを選ばなければならない、という一文があった。

わたしが選んだのは、ベローシファカになること。

その前日に、野生のいきもののドキュメンタリーを観て、いいなあベローシファカ。と思ったから。

そして

当然の帰結としてわたしはベローシファカだ。



【空気と空の差異について】


ドアが重い。重かった。


外へ出てから考えた。ベローシファカでいる限りわたしはこのドアを開けて室内に入ることはできない。

認証は虹彩。ベローシファカになったわたしの瞳をドアは拒むだろう。


とりあえず野生動物として、それらしくふるまうことにしてエレベーターホールに向かう。

ホールにはひとがいた。同じ階の住人。挨拶程度はしたことがあるひとだ。

住人は私を見ると(見下ろすと)すこしだけ怪訝そうにしたけれども、騒いだり怖れたり迫害したりはしなかった。


住人とわたしとでエレベーターに乗る。住人は3フロアほど下の階でエレベーターから出ていった。出て行く間際に、その下の階の停止スイッチをすべて押していってくれた。


おそらくは

(ベローシファカがどの階で降りてもいいように。)


エントランス階まで降りてわたしはエレベーターから降りた。


さて

野生動物は街中で珈琲を買うことができるだろうか?

難しいな。と思う。


ホールを出て舗道に立つ。行き交う人々がわずかな関心を向けてくるけれども、ベローシファカだからといってとりたてて注目されるようなこともない。

しばらく跳ねる(ベローシファカだから)。

跳ねながら移動する(ベローシファカだから)。


景色がいつもと違って見える。

ひとびとはわたしを観て微笑む。横飛び連続して移動して行く生きもの(わたし=ベローシファカ)に彼らは笑みを送ってくる。それは不思議な感覚だった。たとえば蒼天を見あげるときは色を意識するけれども空気を意識することは(ひとによるけれども)少ない。

野生動物だなとひとびとはわたしを見て思う。ベローシファカであると看破するひとも(動物好きであれば)いるかもしれない。けれども珈琲を飲まなかったために変身した人間であるということまでは。

なので今わたしは空と空気と空の上の何かのあいだに存在する差異…と似通った生きものなのだろう。


人間ではない生きものがおそらく生きているあいだに考えないこと……自分がなにものなのかという命題……はこのようにしてわたしから乖離した。


それよりも喫緊の問題として

珈琲を飲まなければという目的のために家から出てきたけれども、出先で珈琲を飲んだら即座に人間に戻るのだろうか。


衣類。

と私は考える。公序良俗に反する状態でひとびとを驚かせることになりはしないだろうか。


というようなことで心を揺らしたりしながらツーブロックほど移動した。

街から広域ルートへの分岐ポイント前まで来て立ち止まる。

行きつけのカフェがある(行きつけだったカフェがある)(このさきずっと過去形なのかもしれないということに気付いてすこし動揺する)


とにかく

カフェがある。

カフェの前で跳ねるのをやめて、硝子ドア越しに店内を見た。


なじみの店主、マスターがベローシファカに気付いたようだ。怪訝そうにしているけれども店主が動物好きだということは知っている。店の名前はロクセラーナ。まあベローシファカとは遠い遠い遠い親戚のようなものではある。

しばらくそうして眺めていたら、店主がドアに向かって歩いてきた。


ドアを開けて店主はわたしを見た。軽く首を傾げての思案顔。


特定保護動物だったかな。と店主は呟いた。

どこかに連絡したほうがいいのかな。とさらに呟く。


わたしは店主を見上げている。

店主の背後からカフェにいたと思われる客が近づいてきて、じゃ、またね。というように軽く微笑んで歩き去った。


なんとはなしにその客を眺めていると

乗ってく?

とそのひとは歩きながら振り返って私に向かって尋ね、

乗り心地はいいほうだと思うよ。どう?

人なつこい笑顔になった。

そのひとが指さしたのは、それはそれは大きなトレーラートラックだ。長距離輸送トレーラーのドライバーらしい。


大丈夫、荷台じゃなくてちゃんと助手席に乗せるから。とドライバーは笑いながらおいでおいでというように指で招く。


戸惑いつつカフェの店主に視線を向けると


乗せてもらったら?

という顔で頷いた。


それで私はトレーラートラックに向かって跳ねることにした。



【地平と消失点について】


さっきの店が最後の配達先だったんだ。

とドライバーは言った。


で、これから長いこと別れてくらしている子どもに会いに行くんだ。


ドライバーが呟いた街の名前をわたしも知っている。今走っているルートの次の次の分岐で東に逸れてすぐのところだ。


いい子でね。ときどき手紙をくれる。


(助手席と運転席のあいだには綺麗にラッピングされたプレゼントと思われる包みがある)


会うのは半年ぶりなんだ。

この仕事をしているとどうしても不在がちになるからね。本当は毎日一緒にいて、笑い合ったり遊んであげたりサッカーの相手をしてあげたり。ときには恋愛相談に乗ったりしてあげたいところだけれど。

ああ、パートナーとはね。もう。

わかるよね?

とドライバーは笑った。


とりたてて屈託などはなさげだった。

(二人がけのカウチに並んで座る関係にはない、という意味なのだろう)


その席から見える? 保護エリアに入るよ。

とドライバーがわたしのほうを見て微笑んだ。


トレーラーの左右には見渡す限りの草原。

植生を維持するために広大な土地をトラストが引き受けて管理している。


ここの景色はわたしも好きだ。

伸び上がって窓から外を眺める。


蒼からしだいに藍へと濃度を増す空を背景にして草々のほかには何もない光景が地平まで続いていた。静かな風が草の群れを撫でていく。葉先は風のなかで踊る。繰り返す波の葉、そよぐ草、風と草が織りなすやさしいハーモニーがそこにある。


野を野に返す。

それは先人たちの想いだった。


想いを受け止めて野を埋める草たち花たち種たち。

草原は今も少しずつ広がっているとトラストの年次報告には書かれていたと思い出す。


かつては草花だけではなく高木がこの地にもあったという。樹下に咲くさまざまな花やそこで暮らす小さな生きものたちをひとびとが愛でた時代もあった。その景色がいつ蘇るのかわたしにはわからないが。

この地平のさきに、いまだ見えない刻の果てに、なにかしらの希望があるということは素敵なことだと思う。


ふいに。


トレーラーが減速した。振り返るとドライバーがハンドルの一部にあるスイッチに指を当てたのが見えた。


「うん、そう。何か?」

とドライバーは言った。運転席に組み込まれた通信端末に向かってドライバーが返事をしたらしい。


「うん。うん? それは何故?」

ドライバーの表情に軽い緊張。


「え、でも前回の話し合いで今日の面会は確約だったはずだよね」

端末からごく小さな声で、そうですが、と相手側から返事があった。


『お子さんの希望でどうしても昨日からということで、オータムイベントに行かざるを得ないと、そう説明がありましたので』

「子どもが望んだこと? その連絡が来たのっていつ?」

ドライバーがやや尖った声で問い直している。


『一時間ほど前です。ええ正直なところわたしも驚いています、突然の連絡でしたからね。ですが次回の面会の日時や面会場所のセッティングはできますよ。来月のあなたの誕生日前後に予定を入れたらどうでしょうか。先方もきっと喜ぶでしょう』


嘘なのだろうなあ……わたしでさえ思った。


サマーキャンプならまだしも、オータムイベントとなるとさっぱりわからない。そんなものがあるということすら知らなかった。


おそらくは


ドライバーと子どもを面会させたくないという意図が、ドライバーの元パートナーの側にあったのだろう。コーディネーターが相手側の希望や相談に応える形で、今回の面会を中止する方策を考え出した。


ドライバーは数秒、沈黙していた。


それから、短く、わかった。とだけ言い、通話を終えた。


軽いためいきがひとつ。

またか。と呟いてためいき。


落胆に対して私から言える言葉が見つからない(見つかっても言葉を話せない)


ああもう。とドライバーは苦笑いした。


夏にはサマーキャンプを口実に面会をキャンセルしてきてね。

で、来月になれば別のイベントがあって面会中止になって、再来月になればどこかに旅行に行って中止になって来年になればサッカーの試合があって面会中止になるんだよね。

まったくいまどきの子どもは忙しいよね。


笑みがわずかに歪んだ。


わたしは手を伸ばし、ドライバーの腕にそっと触れた。

ドライバーは無言のまま前方を眺めていて、三度ほど素早く目を瞬かせた。

それからまたゆっくりと減速していって、数秒後にトレーラーは停車した。


あんたは優しいな。


とドライバーは言った。


ありがとう。

続けて呟いた。


わたしのほうを見てはいなかった。ドライバーはフロントガラスの向こうに広がる蒼昏を、藍に染め変わる草原と、細葉のさきを泳がせる風のさまを見つめていたし、そしておそらく目も手も腕も……動かせないくらいには傷ついていたのだろう。


わたしはゆっくりと手を引っ込めた。

そうして数分が過ぎ、また小さなため息がひとつ。


引き返すよ。

ドライバーの声は平静さを取り戻しているようではあった。内心はわからない。


この先へはもう行かないことになったんだ。明後日には別の仕事があるから引き返すね。それと、カフェに戻ってあんたをマスターのところに返してあげないとね。あのあたりで保護してくれる団体があるかどうかはわからないけれど。マスターの交友関係を当たればたぶん……あんたの落ち着き先も見つかるよ。


ドライバーがハンドルをするすると回し、トレーラーは路側いっぱいに寄った。車体が草原ぎりぎりのところをかすめながら何度か切りかえし、方向転換してやがて走り出した。


引き返さざるをえない道。

幾度かそういうときがある。それは知っていた。


今、自分が言葉を発することができない生きものであるということを幸いと考えて良いのか、もどかしいと思うべきなのか。

わからない。


さっきまで果てのない広がりと思っていた草原の中の一本道なのに。今は濃い闇に閉ざされて他に進むべき方向を選べない閉塞と思えた。


ドライバーもわたしも無言のまま(わたしはどのみち無言でいるしかないのだが)

トレーラーはルートの分岐点のあのカフェへの駐車場へと入った。



ドライバーは運転席から降りて助手席側のドアを開け、わたしをひょいと持ち上げて車から降ろし、そのまますたすたと数歩歩いて、何故かカフェと離れた無人の売店前へと連れていった。


無人売店内は無人だった。商品を選ぶ、取り出す、商品を持って店から出るときにスキャンがあって自動支払いとなるので、ここに長居する客はいない。


ドライバーはわたしを抱いたままショーケースの扉を開き、ミネラルウォーターを一本、それとミルク入りの珈琲飲料を一本選んで、店から出た。

「何を食べさせていいのか、何を飲んだらいけないのかわからないけれど、水は大丈夫だよね?」

店の外のベンチの上にわたしをおろし、ミネラルウォーターを差し出してドライバーは微笑んだ。


ドライバーの肩の向こうにややいびつな美しい月が見える。


駐車場の灯りがドライバーの輪郭を照らしている。


差し出されたミネラルウォーターを受け取り、ありがとう、というつもりでドライバーの目をじっと見つめる。


水ではなく珈琲をと、人間であったわたしならきっと言っただろう。いや、ベローシファカであるとしても、ミネラルウォーターを返すというそぶりでさしだし、珈琲飲料が欲しいというようにジェスチャーすることはできたかもしれない。


けれど今


わたしはそれをしてはいけない。という気がしていた。


ドライバーに起きたいくつかの不遇なこととその後のこと……それらはベローシファカとして受け止めておきたい。ヒトではない。わたしが人間であるとドライバーに悟られてはいけない。それはきっと悲しみや憤り、やるせなさを増幅させるだけだ。


じゃあね。とドライバーは手を振り、軽く微笑んでから歩き去った。トレーラーに乗り込み、窓を開けてまた手を振った。


わたしはミネラルウォーターのボトルを抱いて、トレーラーが走り去って見えなくなるのを見送った。



【岐路と帰路の輪郭】


帰ってきたんだね。と声が聞こえて、振り返った。

カフェのマスターがベンチの後ろに立っていた。


手にしたミネラルウォーターのボトルを、わたしは持ち上げて見せた。


「ちょっとおいで」

マスターは無人の売店のドアを開けて、わたしを手招きする。


店内に入ると、マスターは床に膝をついた。

「契約破りしたんだね?」

唐突に言われて驚いた。


「どうしてわかったんだ、って思ってるね?」


そのとおり。


「わたしも一度、契約破りをして、それで元にもどったことがあるのでね。ああ、わたしが何になっていたかとか、それは聞かないで。君のようにわかりやすい生きものではなかったし、ひとによっては怖がるモノだったかもしれないから」


わかりにくい生きものってなんだろう?


「どれが必要なのかな。指さしてくれたら。今なら助けてあげられる」


珈琲。


ああ今。人間に戻れるチャンスなんだ。マスターが契約破りの経験者で、しかも約定を解除したこともあるのだとしたら。


ここでわたしがベローシファカをやめて人間に戻ったとして、そのとき起きるであろうさまざまな(衣類問題他)トラブルも回避できる。


けれどもわたしはそのとき


何故だろう十秒ほど返事を躊躇った。


そして十秒後、わたしはベローシファカがもともと持っていた能力の一端を知った。野生の勘というのだろうか。


駐車場にゆっくりと、トレーラーが入ってくるのが見える。

運転席にドライバーの顔が見えた。

ああ。

ドライバーの顔はくしゃくしゃに歪み、泣いている。


わたしはトレーラーを指さした。

カフェのマスターが駐車場に視線を向け、ああ、なるほどね。と微笑んだ。


「わたしを必要だと君が思うときがきたら、いつでもおいで。今はさようならと言っておこう」

そう言ってマスターは無人売店のドアを開けてくれた(自動ドアだけど)。


ミネラルウォーターのボトルを抱き締めているのでバランスがとれない。

けれどもわたしは跳んだ。跳んで跳んで向きを変えてまた跳んでまっすぐに、まっすぐにドライバーのところへ。






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