1話 朝
「一ッ!ニッ!!三ッ!!!」
前日の夜まで降っていた雨か止んだことで、朝日に照らされた街の湿気が肌にまとわりつく。
それが運動中なら尚更のことだ。
畳張りの道場には、ざっと20人を超える屈強な男たちが鍛練に励んでいた。
健全な魂は健全な肉体に宿る。
道場の理念を体現するように男達は己の肉体を追い込んでいた。
「そこまでぃ!!」
道場の中でも一際目立つ老年の男が神棚の下に鎮座し、声を張り上げる。
「乱取りの用意!!」
「「「押忍!!!」」」
男の声に呼応して、道着姿の男たちが互いに向かい合い組手を始める。
「哲司、相手頼むわ」
屈強な男たちに混じり比較的顔つきのの幼い男が二人いた。
「剣崎か」
「おう」
剣崎と呼ばれた男は金髪の長髪を後ろ髪で結っており、その顔立ちからは外国の血を感じさせる。
それに対して哲司と呼ばれた男。
黒髪の短髪で無骨な男は組手を始めた。
柔道の基本は相手の護りを崩し、自分の有利な型を作り、そして技を掛ける。
そのため相手の道着をいかに早く掴み護りを崩すか。
しかしその点において哲司に隙は無い。
剣崎が幾度も手を伸ばし道着に掴みかかるが、彼の手は弾かれ、流され空を切る。
道場の畳の感覚を踏みしめ、向かい合いながらお互いに相手の隙を伺っていた。
その様子は外部から見ると互角に見えよう。
しかし剣崎は気づいていた。
哲司は一向に掴んでこない。
こちらが何十回と繰り出した手を凌ぎ切るのみで手は出してこない。
そのことが剣崎を苛つかせる。
攻撃を繰り出すたびにこちらはどんどん疲弊しているのに対して、ただ凌ぐだけの哲司は全く疲れた表情を見せない。
湿気のせいか汗が吹き出してくる。
道着の内側もじんわり湿っていた。
剣崎は顎までたれてきた汗を一瞬拭い、瞬きをした。
瞬間。
剣崎の世界はひっくり返っていた。
「うお⁉」
背中に伝わる衝撃に、反射的に行った受け身が間に合う。
道着と腕を掴んだ手を哲司が放し、剣崎は力なく横たわった。
相変わらず早い。早すぎる。
この道場に入り、十年余り。
毎朝のように哲司とは組手を交わしているが、こいつに投げられなかったことなど数える回数しかない。
「何をやってる哲司、恭也!早く立って続きをやらんか!!」
老年の道場主の怒号を聞き恭也は慌てて立ち上がり、また哲司と向かい合った。
それから何本投げられただろうか。
背中がひりついた頃には朝の鍛練は終了した。
「哲司!また学校でな!」
道着をまとめて剣崎はそそくさと道場を後にした。
「おう」
哲司が返事を返す頃には友の姿はもうなかった。
「哲司!」
大きな声で呼び止められる。
振り向くと老年の道場主が鬼の形相で立っていた。
「どうした、爺ちゃん」
「どうしたではない!さっきの乱取りは何だ!!」
そこからくどくどとダメ出しが入る。
もはや聞き慣れた朝のルーティンだ。
祖父の説教は長い。
「じいちゃん、今日から学校始まるからもう用意しないと」
すると祖父は呆れたような顔をしてため息をつく。
「哲司。お前はこの道場を継いでいくのだ。そんなくだらん学校なんていかんでも良いと言うとるのに…。大体外の奴らは碌でもない…」
祖父のくどくどとした小言を背中で聞きながら、哲司はシャワーを浴びに隣接する家に戻った。
家の玄関でサンダルを脱ぎ捨てリビングまでの廊下を歩く。廊下には透明なショーケースがあり、その中に所狭しとメダルやら盾やらが入っている。
もはや毎年のように配られる記念品のようで哲司は興味を失っていた。
しかしリビングに一番近いショーケース。
その中段にあるメダルに哲司の足が止まる。
全国高等学校柔道選手権大会
3月にあった日本の高校生の頂点を決める大会。
初出場の高校が、個人の部とはいえ優勝したという事実は瞬く間に世間を賑わせた。
もちろん柔道をかじったことのある人間なら紫碌道場の人間が優勝したというだけなので驚くことでもないのだが。
しかし哲司より遥かに大きく重たい三年の相手を投げ飛ばしたときの手応え、会場の空気は今でも鮮明に思い出せる。
ほのかに体の中心が熱を帯びる。
リビングでは祖母が台所に立ち料理をしている。
哲司の帰宅に気づくとシャワーを浴びるよう祖母は促した。
シャワーを浴び制服に着替える。
「てっちゃん、朝ごはん食べていきなさい」
リビングから祖母の呼ぶ声。
リビングの机には白米と味噌汁と鮭。卵焼きにきゅうりの酢漬けなど旅館の朝食のようなメニューだった。
テーブルで祖父は道着姿のまま新聞を読んでいる。
その向かいに座り「いただきます」と一言。
机の上にある丸い缶から味乗りを出し白ご飯にのせて頬張る。
「てっちゃん、今日から学校でしょ?新しい学年はどう?」
「ん、まだクラス表見てない」
「あら、楽しいクラスだといいわね」
その祖母の一言に祖父が新聞から顔を上げる。
「そんなくだないことにうつつを抜かす暇があったら、技の一つでも練習したほうが有意義だと思うがね」
全く嫌味な人だ。
祖母はどう反応していいかわからずオロオロとしている。
「大丈夫だよじいちゃん。俺はわかってるから」
そう言うと祖父はまた新聞に目を落とす。
飯を食べ終わり、身支度を整え玄関に向かう。
「ばあちゃん。弁当は?」
「はいはいこれね」
「ありがとう、行ってきます」
まだ粗熱のある弁当箱をカバンにしまい、玄関を出た。
ガラガラと横開き式のドアを閉め、家の門を出る。
門の回転式の鍵をかけようと向き直ると隣の家からも「いってきまーす!」と元気な声が聞こえた。
門に手をかけながらそちらに目をやると紫がかった髪の少女が家を出てくるところだった。
同じ学校の制服の上からパーカーを羽織りフードを深くかぶっていた。
少女は学校とは真反対の哲司の家の方向に歩き始める。
「夏美」
哲司は彼女の名前を呼ぶ。
彼女はフードから目を覗かせる。
線の細く透明感のある彼女、日向夏美は哲司の幼馴染だった。
しかし今の彼女は哲司の知っている彼女とは違う。
「何?」
幼馴染とは思えないほど冷たく突き放すような声は哲司のを後ずさりさせる。
そして「私、用事あるから」とそのまま歩いていってしまった。
高校生が平日に学校以外のどこに用事があるというのか。
しかし哲司には彼女を追いかける勇気も、彼女の注意を惹く術もなかった。