エピソード 2
あれから、私は会社を辞めた。
せっかく就職できたのに辞めるなんて、自分でも馬鹿な事をしたと思っている。
それでも、あんな事があった場所で仕事を続ける事はできなかったので仕方がない。
今はアパート近くの喫茶店でバイトをしながら生計を立てている。
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バイトの帰り道、八重君が住んでいたアパートの近くを通りかかった。
ちょうど引っ越しの最中らしい。
話し声に耳を傾けると、どうやら八重君の部屋の様だ。
咄嗟に声をかけてしまった。
「あの、八重、八重大翔君のご家族の方ですか?」
振り向いたのは八重君によく似た男性だった。
「大翔は俺の弟だけど…。誰?」
疑う様な声音で聞き返された。
「突然、すみません。大翔さんと同じ会社で働いていて、同じ新入社員で…」
しどろもどろになりながらそこまで言うと、お兄さんは突然パッと笑顔になったなった。
「もしかして八重ちゃん⁉︎」
名前を呼ばれたことにびっくりした。
「あの、はい。桜澤 八重と申します。」
「そっか、ごめんね。野次馬で聞いてきたのかと思って…。大翔から聞いて名前は知ってたんだ。俺は大翔の兄で、翔太です。…大翔と仲良くしてくれてありがとうね。」
そう言うと寂しそうに笑った。
今日は引越しがあるので、後日ゆっくり話がしたいと言われ、連絡先を交換した。
翔太さんはその日のうちに連絡をくれ、週末に会うことになった。
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翔太さんは実家へ連れて行ってくれた。
と、言っても、彼らの両親は何年か前に他界しているそうで、今は翔太さんが1人で暮らしているらしい。
大翔さんが何故先輩にあんな事をしたのか、翔太さんはそれを知りたがった。
私も、知りたかった。
お互いに的が外れた事に落胆した。
それにしても、と翔太さんが言った。
「大翔はあまり敵を作るタイプじゃないんだ。入社して1ヶ月もしないうちにあんな事をする程って、相手の男とどんな揉め事を起こしたのか…。社内で何か噂とかなかった?」
私もたった3日だけしか見てこなかったけれど、大翔君があんな事をするなんて信じられなかった。
お兄さんである翔太さんが言うのだから、やはり何かがおかしい。
…とはいえ、私も入社1ヶ月もせずに退職しているので、2人の噂を聞いた事がなかった。
その日はお昼をご馳走になって、日が暮れる前には帰った。
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その足で、指導係をしてくれていた先輩に連絡をしてみると、先輩はたまたま近くにいる様で会える事になった。
「お世話になったのに、突然の退職でご迷惑をお掛けしました」
開口一番に謝った。
三科さん。
入社から指導係として何かと気にかけてくれていた先輩だ。
あんな事があったと言えども、貴重な時間を割いて頂いていたので申し訳ない気持ちが強かったのは本心。
三科さんは笑いながら、気にしないで。と言ってくれた。
それよりも連絡をくれて嬉しい、と。
あんな事件があって、私の他にも退職した人が何人かいたらしい。
しばらく他愛のない話をして、どうやって本題を切り出そうかと思っていると、三科さんから話してくれた。
「それにしてもびっくりよね。八重君て篠原さんて接点なさそうだったのにねぇ。あの日は早出の日で1番に出勤してたんだ。そのうち篠原さんが出勤してきて、それから直ぐに八重君が入ってきたの。他部署だから何か用事かな?と思って声をかけようとしたら、篠原さんがこっちこっちーって呼んで、あぁ、篠原さんに用があったのね、って。そのまま2人は隣の小会議室へ入って行ったの。」
三科さんはそこまで話すと一息つく様にアイスティーを飲んだ。
篠原さんというのは、例の刺された男性の名前だ。
「それでね、そのうちに怒鳴り声?みたいなのが聞こえてきて、最初に小会議室から出てきたのは篠原さんだった。それを追いかける様に八重君が出てきて…。」
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「篠原さん!ちゃんと説明してください。納得できない。やましい事がないなら…『知らないって言ってるだろ!お前の事なんか俺が知るわけないだろ!いい加減にしろ‼︎』
そうこうしているうちに、声につられて人が集まってきたらしい。
「食い下がる八重君を篠原さんが突き飛ばしたのが発端だったのかな?八重君が篠原さんの胸ぐら掴んで殴りかかったのよ!それで、課長が止めに入ろうとしたんだけど、八重君が来るな!なんて叫んだもんだから躊躇しちゃって。そうしたら篠原さんが言ったの。小さな声だったからちゃんとは聞き取れなかったけど、でも、なんか…。証拠なんかない、とかなんとか…。それと、あんな奴ら別にいいだろ?だったかな。それを聞いた八重君がもう一度言ってみろ!って言って、机の上にあったカッターを手に取ったの。篠原さんは慌てて冗談だよ。って八重君を落ち着かせようとしたけど、逆効果だったみたいで、そのまま襲い掛かったのよね。で、あとはあの通り。」
救急車を呼んだのは三科さんだったらしい。