5:音がして、音がする。
「私を殺しに来たんでしょ?」などという台詞を少女の口から言わせることが出来る人物がこの世にいたとすれば、それは恐らくサスペンス・ホラー作品の悪役を担う演者か、名の知れた連続殺人事件の指名手配犯か、或いは俺だろう。
前から二つは殺すという行為に置いて躊躇が無い分、その返事はイエスかノーかの二者択一だが、俺のように端から殺す気が無い者にとっては紛うこと無く答えはノーとなる。
「違うよ。どうしてそんな……」
「違う? そう……か」
突拍子も無い、冗談じみたことのようにも聞こえるが、少女の顔には憂うような笑が浮かんでおり、それがやけに本気のような感じがしてならなかった。返す言葉が見つからなかった俺はとりあえず一笑に付してその場を取り繕う。
「いやはや、長年私を封じ込めていた結界を頭突きで破るほどの猛者というのだから、てっきりここを突き止めて殺しに来たのかと」
「猛者なんかじゃないよ。俺は普通、いや、なんなら普通より多少劣っているくらいだ。結界は……まぐれだよ。本当に」
「ほう」
「……と、ところで、あなたはこんな薄暗い洞窟の奥に結界を張って一体何をしてるの?」
「私は、ここで、何を?」
聞くと、少女は黙りこくった。やがてたどたどしく今に至るまでを整理するように話し始めたのだが、結局のところ、ここで何をしているのか、どうしてここに居るのか、挙句の果てには自分が一体何処から来たのかすら覚えていないらしく、聞けば聞くほどこの少女の謎は深まるばかりだった。
「結界も私が張った訳では無い。誰かがここに私を連れ込んで、結界を張り、私を閉じ込めてしまった。しかし、その誰かが未だに思い出せずにいる」
とはいえ少女は断片的に記憶を残しているようだった――断片。不死にして全知全能の断片。少女は自らをそう称していたのを俺は思い出す。読んで字の如くを鵜呑みにしてしまえば、少女は不死であり、全知全能の断片――推測するに、この世のあらゆる能力を持った存在の不完全体である。
このように少女は自らの存在意義を漠然とした形で理解しており、言語を人並みに操り、ここに閉じ込められた結末を知っている。それにも関わらず、そうなってしまった経緯を少女は覚えていない。まるで記憶を消されてしまったかのようにさえ見て窺えた。
すると今度は、少女が尋ねてきた。
「ハルマ、お前はどうなのだ。私を殺しに来たのでは無いと言うのなら、お前こそ一体ここへ何をするべく訪れた」
「それは――」
一言で言い切れそうにも無かったので、俺はここに来るまでの経緯を全て話した。少女の声に誘われて試験会場から走り去ったこと、辿り着いた山でこの洞窟を見つけたこと、そして雨宿りをするつもりが、好奇心に従ってここまで来てしまったこと。
少女は顔色ひとつ変えず、頷いたり相槌などを打つことも無く、じっと俺の瞳の奥底を覗いて話に聞き入っていた。
話し終えると少女は首を傾げた。
「残念だが、私はお前を呼んだりはしていない。つい先程、結界が割れる音で数百年の眠りから久しく目覚めたところだからな」
まあ――そうだろう。そんな感じはしていた。というか、見ず知らずの男に「君の声に誘われてやってきたんだ」とか言われようものなら脳天から爪の先まで鳥肌が立ちそうなものだが、俺はそんな気味の悪いことを口走ってしまっていた。
「すまない、事情は薄らとしか理解し兼ねるが、要するにお前は特に果たすべく目的も無くここへ辿り着いたと。そういうことだな?」
「まぁ、そういうことかな」
確かにそれで間違ってはいない。ただの暇人のような聞こえがしてやや虫が好かないが。
「ならここを去るがいい」
「え、な、なんで?」
「そしてここに訪れたことを忘れて欲しい。ここで見たものも、そして私のことも。どうか忘れて欲しい」
「なんで……あなたが俺に正体を明かしてくれたんじゃないか。今から忘れてくれだなんて、そんなこと……」
「てっきりお前が私を殺しに来たものかと勘違いしていた。どうせ殺されてしまうのならば潔く秘密を明かしてしまえと、そのようなつもりでいたのだ。しかしそうではなかった。私は多くを覚えてはいないが、この場所が他人に知られてはならないということは覚えている。それが何の関係も無いお前に知られてしまった、となれば、私はお前を殺めねばならない。が、それは本来ならばの話だ。私は不思議とお前に縁を感じている。私はお前を殺めたくはない。頼む、ここは一つ黙って去って欲しい。お前の為でもあるのだ」
唐突に発せられた少女の含みを持たせたような物言いに唖然とし、納得のいかなかった俺は無言で虚空を見つめ続けた。虚空に穴が空きそうなほどに。
されど、納得がいかないというのも可笑しな話ではある。俺がここに留まる必要なんて無いのだから。人の領域に土足で踏み入り、退去せず留まろうとする男に、納得がいかないのはむしろ少女の側だろう。
そう分かってはいながらも、ここを去れば自分も、少女も、再び独りになってしまうと思うと、心の葛藤があるのだった。
「あなたの言っていることは分かる……けど、あともう少しでいいから、ここにいさせてくれないかな。ほら、まだ雨も止んでないかもしれないし」
「雨ならもう止んだだろう」
何とか理由をつけて留まろうとするが、少女は突き放すように遇う。
「それじゃ……あなたはまた独りになるじゃないか」
「ハルマ、お前は人を殺めたいと思うか」
「……」
それは「これ以上言うことを聞かなければ殺す」にも代わる言葉――言わば、最終宣告と受け取れた。
敢えて間接的な物言いをするのは俺を気遣ってのことなのだろう。いや、間接的な物言いを俺がさせた、というのが正しいか。
俺はここで出会って初めに感じた殺気と同等の雰囲気を感じ、少女に背を向けずに後退るようにして、入ってきた一直線の道に向かった。
惜別の情は後退る踵の掠れる音のインターバルに表れている。自然と歩速が遅くなってしまっているのだ。我ながらとても分かりやすい。名残惜しさに胸の内側が締め付けられて、少女の美しい姿が月光の帯に包まれて次第に薄れていくのは何とも物寂しい光景だ。
あともう一言喋りたかった。けれど、あともう一言喋ったら今度こそ殺されてしまうのだろう。俺は口を噤んで耐え、ついに少女に背を向けて、可能な限り静寂を保つようにして歩いた。その時、
「ぐぎゅるるる……」
野犬が首を絞められたような、湿り気のある鈍い音がした。これは――お腹の鳴る音だ。
実際は耳を澄まして聴こえるかどうかの微かな音なのだろうが、この洞窟ではそんな微かな音さえ逃さず反響し、たちまち大きな音へと変えてしまう。静寂が裏目に出てしまったというわけだ。
俺は思わず立ち止まり、自分のお腹を押さえる。しかし待った。これは俺じゃない。音の鳴る方向は背後からだ。とすれば、もう、一人しかいないだろう。
やってくれたな……!
お腹を鳴らしたのは少女だった。そう、この音の正体は、少女のお腹の鳴る音だったのである。
気にしたら負けだ。気にしたら負けだ。
俺は何も聞かなかったことにして、再び足を前へと運び始めた。早くここを去ろうと、自然と運足のペースが上がる。足音も大きく響く。
そこで俺は気付いた。足音がおかしいのである。というのも、とんとんとん、という足音の裏をとるように、ぺちぺちぺち、という足音が重複してくるのだ。その足音は次第に大きくなり、鮮明になり、速くなっていった。間違いない、これは追跡されている。何者でもない――少女に。
「ちょっ、ちょっと待ってって! おかしいおかしいおかしい!!」
堪らず噤んでいた口も開く。人間は迫ってくるものに弱い。物理的なものもそうだが、恐怖、快楽、或いは時間や期限といったものも該当する。今は少女及び恐怖に追われているというわけだ。しかしこれが少女もとい殺気立った「不死にして全知全能の断片」とか言う未知の存在が暗闇の中を着々と迫ってきているのだから、それはもう並大抵のものではない。
逃げられないと悟った俺はその場に立った状態で片膝と額を密着させて縮こまるようになり、頭を両手で抱え、せめてもの防御体勢で構えた。実に情けない男の姿がそこにはあった。目を瞑り、息を止め、聴覚が研ぎ澄まされた瞬間、雨垂れが岩を打つような、あの耳に残る鮮烈な足音が聴こえてくる。
ぺちぺちぺち――足音はもうすぐそこまで来ている。
ぺちぺちぺち――そして俺の真後ろまで到達した。
そして――ぺちぺちぺち。
切り裂かれるか、焼かれるか。はたまた魂を抜かれるか。足音が最も大きくなった時、身体が自壊するのではないかと思うほどに強ばっていて、最高潮に高まった恐怖は、生殺与奪の権を握られたことを自覚するのにはあまりにも充分なものだった。
しかし、その後どうなったかという問いに関しては、前述したものとはいずれにも当てはまらない、というのが実情だった。
少女の足音は俺のすぐ横を行き、やがて俺の前方へと通過して行ったのである。
「……えっ?」
全身の力が抜けて、フル稼働していた心臓が尋常でない速度で拍動しているのが分かった。
良かった。殺されなかった。生きている。
そんな安心感を覚えたが、そんなことは二の次であって、俺がまず最初に覚えたのは圧倒的な肩透かし感だった。普通は俺を殺す流れだろうと、追われた本人が突っ込んでしまいたくなるくらいである。
現状が全く理解出来ない。目の前を少女が歩いているのを見たら、尚更理解が出来なくなった。それから俺はとりあえず少女の背中を追って、少女との距離を一定に保てるようその歩速を適度に調整し続けた。かつて「ここを去れ」と俺をあの空間から追い払った少女が、今度は俺に追われているこの状況は、まさしく異様そのものだった。
戸惑う俺を余所にめくるめく時は流れ、気がつけば再びあの滝の轟音が聴こえ始めていた。向こう側に見える洞窟の入り口(こちらから見た出口)が白く光って、一縷の糸の断面のように見える。それが途切れ途切れになるのは、少女が揺れて動くのが遮っているためだろう。
そして滝のもとまでようやく辿り着くと、少女は滝の方を向いた状態で、何かするわけでもなく、ただ向こうをじっと見つめて止まっていた。
「ええと、どうかしたの?」
「ハルマ」
「いやっ!! 殺すのは無しだぞ!? 俺はちゃんと帰ろうとしたし――」
少女はこちらに顔だけを向けた。
「私は腹が減ってしまった」
そう言って、少女は完全にこちらに身体を向けて、黒いベールのような服の上からお腹のあたりを袖に隠れた手で二三回、ぐるりぐるりと円を描いた。
「な、なんだ……それなら何か食べれば……あ、そう言われてみるとそうだ。あんな奥深くに閉じ込められていて、食事はどうしてたんだ?」
「基本的に眠っていた故、空腹というものは無かった。しかし一度目覚めるとどうにも腹が減るらしい。ぎゅるるるる」
「なんか悪いことしたな……」
なるほど。少女がここまで歩いてきた理由が理解出来た。てっきりお腹の鳴る音を聞かれたばかりに、立腹して殺しにやって来たのかと思ったが、どうやら単に食料調達をしに来ただけのようだ。
「こうなったら外界に赴いて食料調達をする他ないが……しかしハルマよ、見たまえこの有り様を」
すると少女は両手を袖から出し、ゆらりと身体の前に掲げると、滝を目掛けて勢い良く両手を叩き合わせた。その時に発せられた鋭い打撃音は滝の轟音の音量を遥かに凌駕し、次の瞬間、分厚い滝の壁の中央に、牛数頭が一度に通れるほどの大きな風穴が空き、周りの滝は凍って流れが止まってしまった。
「うわぁ……」
恐らく魔法の範疇なのだろうが、規格外の強大さに言葉を失った。あれが自分に向けられていた未来も存在していたのかと思うと失禁しそうになる。
少女が風穴の向こうを指さした。そこに広がる光景に、俺は思わず息を飲む。
あんなに堂々と屹立していた立派な木々が無惨にもなぎ倒され、生い茂る草花は汚泥に塗れ、辺り一面が流木や腐った魚の死骸、人間の廃棄物で埋め尽くされていたのだ。
「あれからきっと天候が悪化して嵐が起こったんだ」
「これでは食料調達も出来そうにない。魚の死骸を食らうという手もあるが」
「女の子に魚の死骸なんて食べさせられないよ。腐ってるし、逆に食べないほうがいい」
「女の子とな……」
「ん?」
「いや、気に止めてくれるな」
元々ここらで腹の肥やしになるような木の実などは無さそうだったし、それに嵐が起こったとなれば尚更、食料調達は困難なものになるだろう。
「まあ、不死である故、空腹は苦痛だがどうということはない。再び眠りにつくことにしよう」
「え、どうして? 閉じ込められていたんだろ? もう自由じゃないか。自分から閉じ込められに行く必要なんて無いはずだ……そうだ、もし行く宛てがないなら家に来るといいよ。ボロ屋だけど、洞窟の中よりはずっと良い」
言うと、少女は首を横に振って答えた。
「それはできない」
「でも……」
その先に続ける言葉が見つからなかった。こうもきっぱりと断られてしまったら、少女の言い分をどうにも否定できないからである。そこで、俺は一歩引いて冷静になり、今一度自分と見つめ合うことにした。もしかすると少女は独りを望んでいるのかもしれない。だとすれば、それを独りになりたくないがためにどこまでも食い下がって一方的な感情の押し付けをしている自分はいかに愚かなことだっただろうか。
一緒にいたい、一緒に来て欲しい。少女に対して「あなたを独りにしたくない」という口実で、思えばそうやって相手にひたすら求めているだけで、きっといい迷惑だったはずだ。
俺には申し訳ないという気持ちと同時に、今度は少女に何かをして与えたいという気持ちが込み上げていた。
――俺が与えられるもの。
「それではな、ハルマ」
「待って!」
大したものなんて持ち合わせていないけれど、俺は一つ思い出したことがあり、再び洞窟の奥へと歩み始めた少女を咄嗟に呼び止めると、ずっと肩に掛けていた鞄を地面に下ろして、その中を漁った。
「これ、こんなのしか無いけど。どうかな……要らないか……」
「それは?」
取り出したのは――パンの欠片だった。朝、国家魔薬試験に出発する支度の際に、誤って鞄に直に入れてしまっていたパンの欠片。それを手の平に乗せて少女の前へと差し出す。
すっかり湿気を吸ってより小さく萎み、見るからに不味そうになったそれは、まるで轟音の消えた滝裏の寂しさを際立たせているかのようだった。
額に滲む冷や汗。
心做しか空気が冷え込んでいるのは、凍った滝によって立ち込める冷気のせいだと。
――そう信じたいところである。