1:忘れる
「――――!!」
意識が定かではない時、口だけが別の生き物のように動き出し、何の脈絡も無い事柄を随分と流暢に語り始めて、その最中に気を取り戻し、当の本人すら何を話していたか覚えていない。ただ、何かを口走っていた感覚だけが唇に残っている。
「は……? 何言ってんのお前」
「え……いや…………何か変なこと言ってたっけ、俺」
俺はまさに今、そんな経験をしたところである。
「どうしたんだよ」
「完全に寝惚けてた。俺、何か言ってた?」
「寝惚けてたって……そんな訳ないだろ。さっきまで『今日は国家魔薬試験の日だから遅刻しないように朝食はさっさと済まそう』って話をしてたじゃねぇか」
「そうだった……で?」
「虚ろな目をして突然ぶつぶつ呟き始めたんだろうが」
「そう……だったのか?」
確かに俺は寝惚けていた訳では無かった。しっかりと椅子に腰を掛けており、竜の瞳のような木目が浮き出た腐敗しかけのボロ机にはパンとスープが並べられている。
食事の支度は俺がしたはずだった。手軽な料理とはいえ、そんなに寝惚けながら作れるようなものでも無いだろう。おまけに既に食べ進められていて、見ると、自分の右手には丁度一口サイズに千切られたパンの欠片が握られていたのだった。
「なぁ、さっきまで食事をしてただなんて到底思えなくて……俺は本当にこうしてパンを食べてたのか?」
俺は歯型の残ったパンの欠片を皿に戻して言った。これが矛盾でしかない言動であることは自分が一番分かっているのだが、それでもなお腑に落ちなかったのだ。
「はぁー……そうだって。どうした、お前おかしいぞ。緊張してんのか?」
「いや、そうじゃなくて……」
言いかけて、そのタイミングで正気に戻ったというか、つっかえていた違和感が水に溶けるように消えて無くなったような感じがして、そして愚かにも食欲が湧いてきたことで、全てを忘れてしまったかのように、おもむろに青菜の浮いたスープを啜り始めたのだった。咀嚼されて粉々になった口の中のパンをスープが喉奥へと流し去っていく。
「ご馳走様」
俺はハルマ・オズワルド。そして今しがた挙動不審な俺を怪訝な目で見ていたこの男がリュウ・ブラッドだ。二人同じ屋根の下、寝食を共にして、魔薬師を目指している。
魔薬師とは何かを説明しなければならない。それにあたって、この世界のことも兼ねて大まかに説明する必要がある。
この世は「死の花」と呼ばれる漆黒の花弁を持った花に侵されている。ところ構わず咲くこの死の花から飛散する花粉を体内に取り込んでしまうと、人間を含め、生物はたちまち理性を喪った化け物と化してしまうのだ。
しかし、全てがそうなってしまう訳では無い。数ある人種の中で、ごく一部の人種のみ、死の花の影響を受けることがなかった。その中で最も特異なのが「アバル人」だ。このアバル人という人種は、死の花の悪影響を受けないどころか、死の花を己の糧として昇華し、人智を超越した力を一時的に身に宿すことができたのである。
要するに魔薬師とは、この死の花から作られた「魔薬」を服用することで化け物と化した者と対峙すると共に、死の花の調査と根絶を最終目標として命懸けで活動するアバル人のことである。
こう言ってしまえばアバル人(魔薬師)は他人種よりも優れているように思われてしまうだろうが、しかし、世はその性質を不純なものであると看做し、恐れ、阻み、忌み嫌ったというのが実情である。
例えば、死の花は地に降り立った悪魔によって植えられたものであると考えられていたことから、アバル人には悪魔の血が流れているに違いないと、「死をもたらす者」に違いないと、そう囃し立てられたという。全くをもって青天の霹靂なのだが、まあ、他人種にとって害毒でしかない得体の知れない物を糧としてしまう辺り、悪魔の所業のように思われても致し方ないことなのかもしれない。
昆虫を好んで食べる人種がこの世界には存在するが、俺が彼らを気味が悪いと思うのと同じことなのだろう。
とにかく、アバル人という人種は斯くして劣等人種として格付けされてしまったのである。
当然、アバル人は通常職に就くことが困難である。アバル人のほとんどは魔薬師になるか、低所得の貧しい商人になるか、無職になるかの三択を半ば強いられる。
ここまで細々と説明をしていればおおよそ察しはついてくるものだろうが、魔薬師を目指すということは、つまるところ俺もリュウもアバル人という訳だ。目指すというより、魔薬師になるべくして生まれてきたと言っても過言では無い。
そして今日、俺とリュウは魔薬師の入門試験である「国家魔薬試験」を受けに行くことになっている。二年に一度行われるこの試験に合格することで正式に魔薬師としての資格を国から認定されるのだ。
まあ、資格がどうのとか律儀に設けられてはいるものの、中には資格不保持の「野良魔薬師」と呼ばれる者たちも多く存在している。これと比較しても職としての合法性や安定性にしか差違がなく、魔薬師自体は名乗りさえすれば誰でもなれるのだが、これを趣味などでは無く、生業とする以上、つまり、魔薬師として食べていく上では、その資格というものが必要不可欠なのである。
「おい、またボケっとしてるぞ。もう時間だ。早く支度して広場へ向かうぞ」
「お、おう」
頭が働かない。リュウに肩を叩かれ支度を開始するも、気付くと俺は麻で編まれた薄汚い肩がけ鞄に食べ残したパンを直接放り込んでいた。
「あっ」
「どうした?」
何をしているんだ俺は。
はっとなってパンを取り出そうとするが――鞄からパンを出しているところを見られれば、また頭がおかしくなったのかと、リュウに余計な心配を掛けるかもしれない。
俺は渋々パンを鞄に戻した。これ以上の心配を掛けてはならない。
「待たせて悪い、準備完了。行こう、リュウ」
程なくして国家魔薬試験の会場であるバド広場に向けて出発したのであった。
その矢先、着ていた服が後ろ前であることをリュウに指摘されるというオチが待ち受けていた訳だが。