雑草ランニング
「そうだ。走りにいこう」
弟からの返答はなかった。
「走りにいこう」
弟はベッドでスマホを弄りながら気怠げな表情を作った。
「一人で走ってこいよ」
弟はどうでもいいというように寝返りをうった。
言葉と態度が外へ出るのも煩わしいと語っていた。
「でも夜だから涼しいぞ。昼間に運動するよりはマシだろう」
弟は唐突に笑った。俺の言葉がおかしかったのではなく面白画像が友人から送られてきたためだろう。
まったく聞いてねえ。
「まあいいさ。ただしこれだけは忠告しておこう。走りに行かなかった、その選択を後で後悔することになるぜ」
「やって後悔するよりもやらずに後悔する方がいいよ」
俺は潔く弟を誘うのを諦めて、暗い中公園へと向かった。
ランニングに最適な、お目当の公園は、家から走って一分もかからない近距離にある。
時刻は午後8時を少し過ぎたころ。日はすっかり沈んでしまったが、住宅から漏れ出る明かりと街灯がアスファルトを照らしている。
公園とはいうが、子供向けの遊具があるわけではない。
俺は入り口の坂を駆け下りて、公園に降り立った。
小学生の頃は、毎年この公園で持久走大会が行われていた。体育が苦手な自分は、毎度下の中くらいの順位でゴールしてぜーはーと息をついていた。その持久走大会が現在もこの公園で実施されているとは思い難いが。
川に架けられた橋を渡りながら、橋の横にそびえ立つ柳をよくよく観察した。幽霊はいなかった。
「放射線量が高い区域があります ◯町」
柳の脇には一枚の看板が立てられていた。
俺が一度この町を離れたときには立っていなかった看板だ。川の周囲にはロープが張られ、人の侵入を拒んでいる。
夏休みにはこの川でザリガニ釣りをしたものだった。割り箸とタコ糸で作った釣竿にスルメイカを結びつけて岩陰に垂らせば、岩の隙間からザリガニがひょっこりと顔を覗かせる。
一緒に来ていた友達とでバケツをザリガニで一杯にして笑っていたあの日。
しかし、この川でザリガニ釣りをすることはもうないだろう。
年齢的にも、状況的にも。
公園にはアスファルトの道が、草むらを大きく囲んで敷かれている。
折角なのだし、持久走大会と同じルートで走ろうか。
準備体操をしながらそう思った。
道路を照らしてくれていた光は、公園までは届かない。小学校が丸々一つ入ってしまうくらい大きな公園の中には、一本たりとも街灯は設置されていない。
梅雨の明けぬ現在、空は灰色の雲で覆われている。
薄暗い道だが、視界が完全に暗闇に囚われているわけでもない。
夜に目を慣らして俺は走りだした。
持久走大会では原っぱの周りをまずは三周していたはずだ。
やがて昼間の雨でできたであろう大きな水溜りが行く手を阻む。
助走をつけて飛び越えるには幅が広すぎる。脇の草むらを通っていこうか。
しかし草は膝に届かんとする長さで、地面がどうなっているのかわからない。
警戒しながら草むらへ片足を下ろしていく。
ぐちゃり。
大人しく足を戻して、何かいい方法がないか考えるが、そんな方法は存在しなかったので、俺は水溜りを駆け抜けた。
無論靴下まで濡れたが、まるで気にならない。
それより伸び放題の草むらが気にかかった。本来ならば芝生のように短く狩られているのはずなのだ。公園がろくに整備されていないのか、はたまた雑草たちが夏へ向けて急激に成長しているのか。
そうしてその後二回、水溜りに足を突っ込み、ウォーミングアップを終えて坂を登っていく。
そして土手に足を踏みいれた。土手にも雑草はぼうぼうに生い茂っていて俺はげんなりした。
聞くところによると、この公園は城の跡を利用して作られたらしい。
つまり俺は城の防壁の上を走っているわけだ。城を建てた人物も、いつ建てられたのかもまるで知らないのだが、そう考えるとなんだかワクワクする。
走るたびに雑草が足に絡みついて、水滴が足に張り付く。足を取られながらも、俺は着実にゴールへ突き進む。
左手には市民プール以上の面積をもつ沼が見て取れた。まれに釣り人らしき人たちがいる。ヌシ級のナマズでも釣れるのだろうか。
沼の周囲には桜が植えられている。すでに花びらは散ってしまったが、また来年の春に人々を楽しませてくれるだろう。
耳をすませばウシガエルの重厚な鳴き声が聞き取れる。様々な動物の鳴き声が俺の走りのBGMとなる。
駅前の喧騒とはまた違う、落ち着いた騒がしさが気に入っている。
公園側の土手の斜面には何十本もの木が植えられている。木の隣には植林をした人物の名前が書かれた立て札があり、年月の経過を感じさせた。
ゴール地点は公園へ降りる階段の設置されているところだった。
雑草を振り切った俺は階段に座って一息つくことにした。
階段からは、先程三周した原っぱが見下ろせる。
走るのが楽しいと思ったのはいつぶりだろうか。走ることなんて、時間に遅れそうなときと体育の授業しかなかったから走る楽しさを長らく忘れていた。
俺の背後には住宅街の光を遮り、本当の暗闇に包まれた森がある。
俺には暗闇に挑む勇気も体力もなかったから、素直に帰宅の途についた。
街灯に照らされつつ元来た道を歩いていくと、ふと、鼻の先が濡れた。
ポツ、ポツ、と空が俺を濡らし始めた。アスファルトの灰色も黒く色づいていく。
火照った体がゆっくりと冷えていくとともに、汗が洗い流されていく。
電柱に張られた、蜘蛛の巣に引っかかった水滴が、優しい光に貫かれてガラス玉みたいに光った。
俺は雨が止むまで、その場に立ち尽くしていた。蜘蛛の巣がまるで刹那の芸術品のようだったから。
どこかの雑草から、水滴がポタリと落ちた。