最後のちいさな乗客
午後十時前。今日最後のコースを走りながら、バスの運転手はつぶやいた。
「やれやれ。今日もよく走ったな。」
あと十五分で終点に到着する。バスに残っているお客さんも、もうまばらだ。この時間は会社帰りのサラリーマンや、友達と遊んだ帰りの学生などしかいない。
そして、終点の二つ前の停留所で、最後のお客さんが降りた。これであとは終点まで走って、やっと自分も家に帰れるとほっとしたのもつかの間、バックミラーに小さな男の子の姿を見つけた。一番後ろの座席の端っこにちょこんと座っている。
五歳くらいだろうか。小さかったので今まで見えなかったようだ。青いリュックサックを抱えて、くりくりとしたかわいらしい目でまっくらな外の景色を見ている。
彼は、男の子に声をかけた。
「坊や、一人?お母さんは?」
すると、男の子は顔をまっすぐこちらに向けて、澄んだ声でこう答えた。
「一人だよ。ぼくね、今から天国へ行くの。」
「え?」
彼は、あまりにも突拍子のない答えに戸惑った。男の子は、にっこり笑ってこう続けた。
「おじさんが連れて行ってくれるんだよね。」
彼は、全く理解できなかった。子どもの冗談だと思ったが、ふと、今自分が走っている道がいつもの終点までの道とまるで違うことに気がついた。
まっくらな道が、長々と続いている。周りに信号も、他の車も、明かりのついた家々も、ない。何もない。ただまっくらで広い道がまっすぐ続くだけだ。道を間違えたのか。そうだとしてもこんな道、長年走ってきたこの街にはどこにもないのに。
彼は、早くなった心臓の鼓動を感じながら、それでも走っていた。なぜか、止まってはいけないと思った。この一直線の道をただ走り続けなければならない、そんな気がした。このバスはどこへ行くのか。あの子の言ったとおり、天国へ?
彼は、できるだけ動揺を隠して、男の子に再び話しかけた。
「坊や、おじさんのバスは、終点に行かなきゃならないんだよ。その前に坊やのおうちに送ってあげるから、道教えてよ。」
すると、男の子の顔から笑みが消えた。そしてすこし、沈んだ声で言った。
「ぼくね、本当はお母さんのところに帰りたいけど、神様が呼んでるから天国に行かなきゃならないの。もうすぐだよ。あの、光ってるところだもん。」
彼は、ますますわからなかった。目の前の道も幻だと思いたかった。でも、この子が言っていることは、なぜかうそだと思えないのだ。そうこうするうちに、バスは男の子の言う、光っているところへ向かっていく。
彼は、思い切って聞いてみた。
「坊やは、どうして、このバスで天国に行くの?」
男の子は、すこしうつむいた。泣いているのか。しまった、聞いちゃいけなかったのかと彼は思った。
しかし、男の子はその小さな顔をまっすぐあげて、笑った。大きな目に涙が光っている。バックミラーに映る、その笑顔はなぜか神々しかった。
「ぼくね、病院にずっといたんだ。たいくつだったよ。大好きなバスにもずっと乗れないもん。バスは、お母さんといつも乗ってたよ。楽しかったな。お父さんがね、バスの模型を買ってくれたんだ。かっこいいでしょ。」
男の子は、リュックサックから小さなおもちゃのバスを取り出して自慢げに見せた。彼はなぜ、この子がこのバスに乗っているのかわかった気がした。
おもちゃのバスを愛おしそうに見つめるこの子は、天国へ行く前に、母親といつも乗っていたバスにもう一度乗りたかったのだろう。
彼は、ブレーキを踏んでもいないのに、バスが減速し始めたのを感じた。目の前はまばゆい光でいっぱいだ。
バスは勝手に、静かに止まった。前のドアが開き、男の子は、あどけない足取りでドアの方に向かってきて、彼に笑いかけた。
「おじさん、ありがとう。楽しかったよ。」
彼は、いつしか終点についていた。時刻は午後十時七分。予定到着時刻ぴったりだ。彼はしばらく呆然としていた。今までの出来事は夢だったのか。いや、そうとは思えない。あの笑顔がくっきりとまぶたに浮かぶのだから。夢だとは思わない。
最後のちいさな乗客のこと、彼はいつまでも忘れることはないだろう。