異世界メモリアル【4周目 第14話】
トラは寒中水泳大会を欠席した。
病欠とだけ教えてもらったが、十中八九俺の風邪が伝染ったのだろう。
出ていれば優勝は間違いなかったわけで、俺の成績が凡庸に終わったことも含めて臍を噛む。
大会直後、不甲斐なさを抱えたまま報告を兼ねてお見舞いに向かった。
十分にストーブで温まるのも気が引けて、まだ冷えている身体をダウンコートに包んで。
場所は知っていた。
無謀にもここの御大将をぶん殴りに来たことがあるからだ。
大きく古い日本家屋。
一昨日降っていた雪がまだところどころに残っている。
ヤクザの家と言われたらぴったり来るような、黒い瓦屋根の古いお屋敷。
寅野道場と書かれた看板の掲げられた、やたら大仰な門に備え付けられたブザーを鳴らす。
俺を出迎えてくれたのは彼女の家族ではなく、門下生だった。
寅野真姫に会いに来た。
それを告げると映画のエキストラのように、いや、道着を着たアンドロイドのようにまるで感情の無い表情の大男が、一言も喋らずにゆっくりと歩いていく。
じゃりじゃりと庭の石を踏みながら、嫌な予感だけが増していく。
なぜ、建物に入らない。
なぜ、ずっと庭を歩いている。
薄く氷の張った中庭の池が、風をより冷たいものにしていた。
背中を丸めてポケットに手を入れていた俺は、案内係が顎をしゃくったその先を、その光景を見て、膝から崩れ落ちた。
白い襦袢だけを着た彼女は、池の中で小さな滝に打たれていたのだ。
俺はあまりの衝撃に立ち上がることすら出来ず、砂利の上を這いつくばって進む。
どうみても寅野真姫だ。だが、とても寅野真姫には見えない。
顔は真っ青で、普段の元気は見る影も無い。
どれほど冷たいプールでも笑顔で泳いでいた彼女が、唇を紫に染め上げて、荒い息で俯いていた。
なんなんだ?
これは一体、なんなんだ?
寒中水泳を病欠した女の子が、なぜ滝に打たれることになる?
――アホか!
俺は砂利の地面に額を叩きつけた。
疑問を解消する前に、現状をどうにかしろよ、俺!
薄い氷を割りながら池に足を踏み入れると、あまりの冷たさに靴を履いていても痛みが走る。
どうにか彼女に近寄って、腕をとって肩にかける。
滝の水が俺の頭に落ちる。これが拷問ならすぐに口を割ってしまうだろうと思えるほど、脳まで凍てつく。
肩を貸して立ち上がっても、なんの抵抗もなかったが、歩いてくれることもないようなので、そのままおんぶをして池から脱出した。
早く彼女の身体を温める方法はないか。
案内をした門下生は姿を消していた。もとより何かを彼に頼もうとも思わないが。
周りを見渡すが、お屋敷の中に味方がいるわけもない。
芝生の上に移動し、おぶっていた彼女を横たえて、衣服を剥いだ。
目を瞑って、はぁはぁと息をするだけで精一杯という様子だ。
自分も全て衣服を脱ぎ、その下着を使って、冷え切った小さな身体に付いている水を丁寧に拭いた。
まだ体温の残るダウンで包み込むと、少し表情が和らいで見えた。
濡れた下着は捨て、シャツとズボンを直に着て、彼女をおぶった。
一刻も早く温かいところへ連れていきたい。
その一心で冷たい靴を履いた足を動かしている俺を止める声があった。
「おい、俺の娘を何処へ連れて行くつもりだ」
あぁ、やっぱりコイツだ。
コイツのせいだ。本能で理解できる。
今すぐぶん殴りたいが、そんなくだらないことをしているほど暇じゃない。
「水泳大会は出ると言い張ったが、とても実力を発揮できる状態じゃなかったから休ませたんだ。寅野一門の恥になるからな」
どうでもいい。
こいつは本当にどうでもいいことを言っている。
「なぜこんなことを?」
一言しか、一言しか声が出ない。
俺も余計なことを言ってしまいそうだったから。
「ああ、そいつは今、修行中なんだ。少し寒いからって風邪を引くようなヤワな身体じゃあ、可哀想だから鍛えてやっているんだ、邪魔しないでくれないか」
冷静に聞いていられない。
怒りで頭がどうにかなりそうだ。
目を閉じて、深く息を吸って、息をゆっくり吐く。
真姫ちゃんを暖かいところへ連れて行く。そのことだけを優先して考えろ、情動に振り回されるんじゃない。
どうやら、彼は本気で言っているらしかった。
寒風で頭を冷やしながら、必死で考える。
ふぅと一息ついて、芝居を打つ。
「トラは俺と勉強の約束をしています。彼女はとても学校の成績が悪い。可哀想だから俺が面倒をみてやることになっているんです、邪魔をしないでいただけませんか」
なるべく語気を弱めたつもりだが、逆にキレてるように聞こえたかもしれない。
しかし、腕組みをした巨漢はニヤリと笑った。
「ほう。確かに勉強も大事だ。そして約束はもっと大事だ。ならば邪魔はできんな」
そう言うと道場の方へ去っていった。
うまくいった、のか?
門を出ると、丁度タクシーが停まっていた。
道場にタクシーでやってくる人間もいるのだろう。
俺は運がいい。
家に着いて舞衣に事情を話すと、自分のパジャマを貸して着替えさせ、温かなココアを用意してくれた。
舞衣と二人で俺のベッドの上に連れて行くと、虚ろな目で口を開こうとするが、いいから休めとだけ言い聞かせる。
ゆっくりとココアを半分ほど飲んでから、目を閉じるとやがて小さな寝息が聞こえてきた。
その様子を見てようやく安心し、自分の身体も冷たいことに気づいた。
「ロト、お風呂沸いたから」
「ああ、ありがとう、いただくよ」
なんとか笑みを作ると、微笑んで返してくれた。
本当によく出来た妹だ。
何も聞かずに、よくこれだけ尽くしてくれる。
温浴効果の高い入浴剤の入った湯船に浸かると、まさに生き返るようだった。
今は彼女のことも、彼女の父親のことも考えるのが辛かった。
だから、ただひたすら、湯船のお湯を顔にかけて、その温かさに。
そして妹に、感謝することしか出来なかった。




