間章 2
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金糸の織り込まれた真紅の絨毯が敷かれた廊下を、一人の壮年の男性が歩いていた。
淀み無く、屹然と歩く様子はその者の高い地位と高潔さを伺わせる。
その者はグランスワール王国の王城に仕えし、百人近い使用人達のトップに位置する存在。執事長のオラン・シュラザートである。
そしてオランは一つの扉の前で歩みを止め、乱れた様子も無い襟元を整え戸を叩く。
コン、コン――と静かな音の並びは、ここ十何年以上も狂いもなく鳴らされ続けて来たものだ。
ただし、いつもの入室を促す声が返って来ることは無い。その事にオランは無数に刻まれた顔の皺を微かに歪め、堅く目を綴じる。
そして先のノックから十秒程の時が経ち、オランは再び戸を鳴らす。コン、コン――と先程と寸分の狂いもない音は、予定調和とでも言うように再び同じ結果をもたらした。
扉が沈黙を訴え、オランはその前に所在なさげに立ち尽くす。まるで悪戯好きの小妖精が音を掻き消し、オランを嘲笑っているかのようだ。そして沈黙に業を煮やしたのか、普段の彼からは想像できない暴挙に出る。
カチャリ――オランは微塵も迷いや後悔の無い様子で、入室の許可無く扉の中へと足を踏み入れた。
部屋の両壁を書架に埋め尽くされた執務室に入り、オランの瞳は一人の女性の姿を写す。
リージュ・ル=グランスワール・ファン=アルト王女殿下。豪奢な金糸の髪に、陶磁器のような白い肌。翡翠石に勝るとも劣らぬ双眸には、常ならば強い意思を称えた光が渦巻いていた。
だが今や、見るものを陶然とさせる美しさがどこか精彩を欠いている。
その原因は、三日前に届いた一通の書状にあった。彼女は執務机の上で組んだ両腕に、憂いを浮かべた顔を乗せては儚げに吐息をする。
彼女はオランが入室したことにすら気付かず、一心不乱に机の上へと視線を落とし続けていた。
「アルト様」
深く落ち着きのある声音が彼女の名を呼ぶ。だが、王女アルトはそちらへ視線を向けようともしない。
「なに……オラン」
仮にその王女から発せられた声音に名前を付けるとしたら、無気力であろう。何時もの彼女を知るものならば、その様子に目を剥き、病魔に憑かれたのかと勘違いをしてもおかしくは無い。
執事長のオランをしても珍しく、言葉を選びあぐね言い淀む。
そして失った言葉を探すかのように、オランは視線をさ迷わせた。
目に付いたのは執務机に山積みとなった書類の数々。ただそれらに手を着けた様子が無いのは一目瞭然である。
その書類のどれもが報告と確認資料であり、さして重要なものでは無かった。だが、それらに目を通すのが彼女の仕事だ。
オランはほんの微かに、表情を曇らせた。そして王女アルトはそれに気付かず、この三日で数十――いや、百回以上も読み返した机の上の書状を見詰め続ける。
まるで――そこに書かれた内容が、今この瞬間にでも変わっている事を祈るように。
憂いを秘めた絶世の美女。常の彼女ならば、その表現は似つかわしくは無い。
そう――彼かの英雄にして、大陸最強の騎士であるクレス・スタンノートが、彼女の側に居るときならば。
だが、クレスより長く彼女に仕えるオランからすれば、今この姿が王女アルトの本当の姿であった。
幼き日の<彼>との出会いが、幼き日の彼女を、その取り巻く世界を破壊し、一瞬にて別の色彩へと造り変えた。
「アルト様、そろそろ昼食のお時間です」
結局オランは、この部屋へと訪れた本当の理由を口にすることはしなかった。
『騎士クレス・スタンノートを婿養子とし、帝国の嫡子として迎え入れたい』
ヴォルカニカ帝国から書状が届き、今日で三日。今だ返事をしたためてすら無く、一切の音沙汰も無いのでは国の信用にも関わる。
だがそれでも、オランはその事については何も口出しはしなかった。その理由は、オランがこの二人を最も良く知る人物だと言う事に他ならない。
「要らないわ……食欲無いもの」
それはなんとも覇気の欠片もない、弱々しい声音であった。その声に対し、オランは硬質な声で返す。
「なりません」
その声に初めて、彼女は視線を上げる。
「アルト様がここ数日で口にしたのはパンの一切れにスープのみ。それでは御体を壊してしまいます」
普段よりも語気を強め、更には眉根を寄せて言葉を紡ぐ。オランは二人の事に対しては口出しはしない。だが、それ以外の事となれば話は別だ。
「それに、アルト様の最近のご様子には、他の使用人達も心配しています」
その言葉に彼女は瞳を伏せ、「でも……」と口ごもった。
そんな彼女の様子にオランは気付かれぬよう、そっと息を溢した。
(まるで手の掛かる娘が、もう一人出来た様ですな……)
そう心中で呟き、実の娘であるソニア・シュラザートの様子を思い浮かべる。ここ数日、ソニアもまた心ここに在らずと言った様子であったからだ。
オランは思考を打ち切るように、一度首を振る。
「それに、アルト様の今のご様子をクレス殿が知れば驚かれますよ?」
その言葉にピクリと細い肩が震える。
「そう…………そう、ね」
消え入るような呟きの後は、確かな響きで頷きが伴う。その様子にオランは、そっと安堵の溜め息を溢す。
オランはドアが閉まるのを執務室の中から見送る。そして部屋に一人残され、ぐるりと室内を見回した。
家具に使われた木材、それと紙とインクの匂いが部屋には満ちている。その中をオランは静かな足取りで、執務机の前へと歩を進めた。
パラリ――と、書類の山が捲られ、それらの内容を精査して行く。
(急を用すものは、どうやら無いようですね)
十数分後、オランは無言にて確認作業を終え再び息を吐く。
三日前から城内での書類の処理が滞っている。理由は言うまでもないだろう。
まだ表だった事態にはなってはいないが、それも恐らくは時間の問題だ。彼女の存在は言わば、替えの利かない歯車だ。
何人たりとも、その役割を変わる事など出来はしない。グランスワール王国と言う、大きな機巧を動かすには王女アルトの存在は必要不可欠なのだ。
そして十数年後、その機巧の代わりとなるのが――リージュ・ル=グランスワール・ファン=フォルテ第一王女候補である。
民はこの母娘に治世を望み、その身を、その心を、王座へと縛り付ける。それは三百年も続く血脈。グランスワールの血を、名を継ぐ者の定めと言える。
そして民は気付いて居るのだろうか――その基盤が今や、少しずつ綻び始めていることを。
オランは王女アルトの存在を、『ひび割れた王杯』と認識していた。美しく硝子細工の杯は、硝子が故に脆い。
ひび割れたグラスに水を注げばどうなるか、そんな事は注ぐ前から分かる。つまり、王女アルトの本質はそう言うものだ。
だが、その事を他の誰も知ることは無い。
何故か――それは偏に、クレス・スタンノートがその零れ落ちる水の<受け皿>になっていたからに過ぎない。
それのなんと脆く、危うい関係か。
その事に気付いているのは、この老執事ただ一人。本人達すら知らぬ、いや、近くに居ながら互いに目を逸らし続けてきた、この国の欠陥。
オランは一度、ブルリと身を震わす。理由は寒さにではない、この国の脆い基盤に抱く恐怖にだ。
国の崩壊の足音が微かに聴こえ、オランは机の上の一枚の書状へと視線を落とす。この一枚の紙切れが意図せずして、だが確かな足音を引き連れこの国を崩壊へと導いている。
言い知れぬ悪寒に、オランは口に溜まった唾を飲み込む。静粛が佇む部屋に、その嚥下の音は意外なほどに大きく響いた。
「クレス殿……」
呻くようにその名を呼ぶ。彼が不在のこの国に、確かな危機が迫ろうとしている。
そしてオランは、彼に護られし少女を思い浮かべた。フォルテはもしもの時の替えの部品だ。それも国の行く末を左右する程に重要な。
そんなフォルテの教育係を務めていたオランは気付いていた。フォルテはその母、王女アルトと瓜二つであると。
外見、そして――その『本質』までもが同じである事に。
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