クレス・スタンノートの苦労 2
《Ⅱ》
この国の名はグランスワール王国。
そして私の肩書きは『グランスワール王国騎士団・近衛騎士団長クレス・スタンノート』。
いささか仰々しい肩書きが今の私には付いたものだが、実際のところ今も昔も変わった事は無い。
名目上、グランスワール王国が仕える国の名ではあるが、私の役割は『姫君の騎士』、それ以上でもそれ以下でもないからだ。
そう、私の目の前に居る女性を護る事が我が定めであり、私は国に仕える訳ではなく、ただ一人の女性に仕えている。
「あら? クレス、何か考え事?」
最近になってやっと年相応に落ち着きを備えてきた我が主――リージュ・ル=グランスワール・ファン=アルト王女殿下は、小首を傾げて声を掛けてきた。
「いえ、何でもありませんアルト王女殿下」
そう答えると、アルト様はそれ以上追及することもなく小さく頷き、目の前の器に盛られた焼菓子を一つ口へと運んだ。
ここはグランスワール王国の王城の一画、一部の者しか立ち入る事を許されぬサンテラス。天気の良い昼過ぎのティータイムは、決まってこの場所で過ごすことになっていた。
そして現在、この場所には私とアルト王女殿下の二人だけである。
知性を称えた翡翠色の双眸に、美しく豪奢な金糸の髪。陶磁器のような肌は透き通るように白く、そして美しい。
既に三十半ばを過ぎ、子供を一人産んだ身でありながら、凡そ十年以上も年を取っていないかのように若々しい。そんな彼女はまるで若い娘のように、どこか悪戯めいた表情を私に向けた。
「クレス、二人っきりのときは、私の事は<アルト>で良いわよ」
艶やかな唇に美しい弧を描き、そう謳うように言葉にした。
「慎んで遠慮させて頂きます、アルト王女殿下」
そう言葉を返すと、「あっそ、相変わらず連れないわね」と文句を言いながら唇をとがらせた。そしてツーンと顔を背け、あーだこーだと私に対する嫌味を、わざわざギリギリ聴こえる音量で呟いてくる。
二人の時だとどこか幼くなる主君の反応には慣れたもので、今では気にも留めなくなってしまった。
当時十歳であったアルト王女殿下に私が仕え始めたのは、今から約二十年以上も前の事。
十と二つの年齢であった私は異例ながら、最年少で<騎士>の称号を授与された。
そして幼いながらも騎士となり、今までアルト様の我儘に振り回されてきた身とすれば、今さら嫌味の一つや二つなどそよ風同然といえよう。
嫌味事を吐き出すにも飽きたのか、アルト様は外の景色へ意識を移した。それに吊られ、自然と私も視線を動かす。
束の間の平和。現在、グランスワール王国を脅かす敵国は存在しない。
そう、<敵国>は。
一ヵ月ほど前の事、我らが住む大陸に<魔王>の使者を名乗る者が訪れた結果、世界の情勢は国同士、人間同士の争いなどしている場合では無くなった。
魔王、つまりは魔界と云う<異世界>を統べる王である。その使者が言うには、<魔王>は現在、グランスワール王国から見て南に位置する険しき山脈に居を構えているとの事だ。
突然の来訪に、突然な事態。あまりにも急速な展開を迎えた我が国、そして他国との情勢は混乱を極めた。
何故か?
その理由は、どこか貴族や伯爵のような雰囲気を纏った魔王の使者を名乗る、魔族の言葉にある。
『魔王様はこの世界へと遊び相手を探しに参りました。侵略や略奪等に興味はありません。ただこの世界へ訪問した旨をお伝えに上がりました』
蒼白い肌をした魔族の青年はそれだけを伝え、背に生やした蝙蝠のような翼を羽ばたかせ城を後にした。
その言葉は様々な物議を醸し、世界は混乱の一途を辿る。結局のところ、魔王の真偽が読めなかったのだ。
『遊び相手を探しに来た』――私には冗談にしか聞こえず、真に受ける者はいないであろう。
あえて言うならば、その魔王の名の通り己が欲望と愉悦を満たさんが為の相手を探しに来たと捉えられる。
『侵略や略奪等に興味はありません』――お伽噺や伝承に聞く魔王ならば、それは間違いなく嘘であり、罠としか思えない。ならば何に興味があると言うのか。推測するにありとあらゆる物の破壊、そしてこの世に生きとし生けるものの殺害にしか興味がないという事であろうか。
『ただこの世界へ訪問した旨をお伝えに来た』――以上二点を踏まえ、相手はこちらの混乱を狙い、その隙にこの世界を侵略か、または破壊し尽くすつもりなのだと容易に想像が付いた。
そして使者が訪れて三ヶ月が経過した現在、いまだ魔王は何のアクションも起こしていない。
この一ヶ月の間で幾つもの大国、小国は和平を結んだ。そして魔王の侵略に対する防衛陣を形成するが為、昼夜を問わず多くの人、物資が動き、たった二週間で魔王が居を構えたとされる南の山脈の裾へと陣を形成したが、何とも肩透かしを喰らった気分である。
我がグランスワール王国が中心となって、いままで争っていた国同士が一丸となって魔王に対抗しようとしていたのだが、正直なんと言って良いやら…………。
魔王が訪れてから、この世界は<平和>になってしまった。
勿論、いまだ魔王に対する防衛陣は張られたままで、各国は警戒体制を弛めてはいない。いつ攻められても良いように、軍事整備はいまだ進められてはいる。
だが流石に三ヶ月も緊張の糸を張り続ける事も出来ず、ただ惰性に任せた日々を送っていた。最近では『本当に魔王は、遊び相手を探しに来ただけなんじゃないか?』などとまことしやかに噂が流れ出す始末。
仕舞いには和平を結んだ国同士での流通も盛んになり、民の生活は以前よりも豊かだ。更には魔王出現により悪くなっていた治安も、最近は何も起きない日の方が多い。
その原因は全て、今だ見ぬ<魔王>にあった。
私も先日までは慌ただしく動き回っていたのだが、現在は正直暇を持て余し気味であった。
勿論、空いた時間は己の鍛練や情報の収集などに当ててはいるが、最近はそれだけで良いのかと焦りを覚えてしまう。それは恐らく、アルト様も同じなのであろう。
他国との和平締結が短期間で完了したのは、アルト様の手腕によるものが大きい。それは勿論、魔王に対抗すると云う大きな要因があってこそだが。
ふと、こちらへと近付いてくる足音が耳に触れる。大小二つ、更にははしゃぐような幼い少女の声が伴っていた。
そちらへと視線を向ければ、華奢なその身を赤のドレスに包んだフォルテ様の姿があった。その背後には、執事長を務めるオラン・シュラザートが付き従っている。
「御母様ー!! クレスー!!」
フォルテ様はこちらへと足早に近付きながら、光弾ける笑顔をともなって手を振ってくる。一瞬、転びはしないかと心配になったが、後ろに執事長のオランが居るならば杞憂に終わるであろう。
アルト様は笑みを溢しながら小さく手を振り、私は頭を深く下げる。
「御母様っ!!」
微かに息を切らせながら、フォルテ様はアルト様に抱きついた。
「あらあら、お勉強は終わったの?」
「飽きちゃったからきゅーけー!!」
その返しにアルト様はクスクスと楽しそうに笑みを溢す。
「フォルテはおてんばね」
つい『貴女が言うな』、と口を挟みそうになったが自制する。
「お疲れ様です、クレス騎士団長」
御二人から視線を剥がし横を向くと、執事長のオランが柔和な笑みを浮かべて立っていた。
年齢は五十を越え、代々グランスワール王国に仕えてきた由緒正しき血筋の者。平民上がりの私にも分け隔て無い態度をとる、人望の厚い存在だ。
「いえ、オラン執事長こそお疲れのご様子で」
私は常に綺麗に撫で付けてある、白髪混じりのオールバックがほつれているのを見ながら、執事長の苦労を労う。
武芸一般に秀で、幾多の知識と教養を身に着けている完璧超人の執事長ですら、フォルテ様には手を焼いているようだ。
私の視線に気付いたのか、恥ずかし気に髪の毛を整え、「失礼」と咳払いとともに居住まいを正す。
年齢的には私の十以上も歳上ではあったが、互いの間柄は<戦友>のそれに近い。
互いに二十年以上もアルト様のお側に仕えた身。その苦労は互いが互いを認め合う程。あまり大きな声では言えないが、二人で酒を酌み交わす時には苦労話をつまみとする程だ。
現在は執事長の身でありながら、フォルテ様専属の教育係をも同時に勤めている。おてんばの血筋をもしっかりと受け継いだフォルテ様のお相手は、流石の執事長も苦労をしているのだろう。
最近は年相応……なのか定かでは無いが、それなりに落ち着きを身に付けてきたアルト様の相手をする私より、その苦労は多大なものであると察する事が出来た。
他人の不幸を笑うつもりは無いが、せめて酒の一杯でも今度奢ってやろうと考えていた際、不意に声が掛かる。
「ねえ、クレスゥ」
ギクリと、心臓が嫌な音を立てた。不味い、不味い、不味い。
何が不味いかと言うと、アルト様がクレスの後に間延びした『ゥ』を付けた事だ。こう私を呼ぶときは、決まって厄介事が降り掛かる。
背中に嫌な汗が流れ、事情を知っている執事長は憐れむように私を見る。
待て、辞めろ、なんだその眼はっ!! まだ絶対に厄介事と決まった訳では無いのだぞ!?
執事長はストレスが溜まると人が悪くなり、こうして他人の不幸を笑う時がある……普通では気付かない程度ではあるが。
執事長に酒は奢らないと心に決め、二人に向き直る。
「はい…………何でしょうか、アルト王女殿下」
視線を向けた先でアルト様はフォルテ様の頭を撫でつつ、私の焦った顔を眺めながら微笑みを浮かべていた。私を見詰めるその視線には、つい不安を禁じ得ない。
「クレスは最近暇そうよね、それでちょっとお願いがあるのだけど良いかしら?」
詰んだな。ダメだ、悪い未来しか予想できん。
「お言葉ですが、流石に私も暇では有りません。部下の訓練や指導などもあります。それに私自身まだまだ未熟な身であり、鍛練をしなくてはなりません」
「あら、そうなの?」
意外と好感触だな……これは成功するかもしれん。この機を逃すわけにはいかない。私はさらに畳みかける。
「それに未だ魔王との戦端は開かれていないとはいえ、無断ならない状況です。もともとは近衛騎士団長であるため前線から戻ってきたとは言え、私のもとには未だ幾つもの報告が届けられており、その情報の精査もしなくてはいけません」
こうまで言えば、流石のアルト様も強くは出られないであろう。わたしは内心にて勝利を確信しつつ、アルト様の様子を窺った。
だがそこには、いまだ私を不安に誘う微笑みが浮かべられていた。
「ふ~ん、そう。でも――」
とても不思議そうに小首を傾げ、どこか楽し気に言葉を繋げてゆく。
「クレス、貴方自身の鍛練ならいつでも出来るでしょうし、指導も代役を立てれば問題ないわよね?」
「それはっ……ですが、しかし…」
その通りだが、嫌な予感しかしないので何とでも断りたい。
だが無常にも、私の反撃を許さぬようにアルト様は口撃を加えてゆく。
「それに貴方の元へと届けられている報告は勿論のこと私の元にも届けられているわ。魔王討伐軍の最高責任者である私に届けられていないはずが無いでしょ? それに、その報告だって取るに足らない内容のものばかりじゃない」
その言葉に苦虫を噛み潰したかのように顔を歪める。必死に頭の中で言い訳とこの状況から挽回できるかを考えている内に、話は良くない方向へと進んでいってしまう。
先の話は終わったとばかりにアルト様はポンッと両手を合わせ、手を合わせたまま上目遣いに私を見上げてくる。そして発せられた言葉は、なんとも不思議なものであった。
「貴方に頼みたいのは、フォルテの特別な教育係なの」
思わずフォルテ様の教育係を担う執事長と、互いの顔を見合わせてしまう。流石の執事長も予想外だったのか、頭に疑問符を浮かべていた。
「アルト王女殿下、特別な教育係とは一体何でしょうか? フォルテ様の教育係は執事長が勤めておりますし、私のような騎士が出る幕は無いかと思いますが……」
そう進言したのだが、アルト様は笑みを崩すことは無かった。
「いいえ、これは貴方にしか頼めないことよ。実は貴方に我が国の村や、新たに交流が始まった他国の街の調査に赴いて欲しいの。勿論、一般人を装ってね」
意外とまともな話であったらしく、無言で頷き返す。
「表面ではまだ問題は無いみたいだけれど、やはり水面下の事となれば何があるか分からないわ。何より魔王が動かない今、他国の動向も気になるところだしね」
確かに今回の和平の鍵は魔王にあり、その魔王に対抗するために各国は手を結びあったのだ。
もし仮に肝心の魔王が国や民の脅威にならないと分かれば、他国がどのような動きをするかは定かでは無い。
いや、もしかすれば此度の平和は崩れ去り、再び大陸全土を巻き込んだ戦いが始まるやも知れない。
「分かりましたアルト王女殿下……ですが、それのどこにフォルテ様の教育係と関係するのでしょうか?」
その私の問いに対し、アルト様はニッコリと笑みを浮かべて口を開いた。
「関係はあるわ。その調査にはフォルテを同行させますので」
「いや、それは…………」
不味いでしょう。
「あら、貴方が付いていれば問題無いわよね?」
「いやっ、ですが万が一と云うのも有ります!」
「ええ、そうね。だから貴方に頼みたいのよ、グランスワール王国騎士団長・クレス・スタンノート」
優しさを備えながら、同時に逆らう事を許さない威厳に満ちた声音。その声に思わず表情を引き締め、意識を張り詰めてしまう。
そんな私を澄んだ翡翠色の瞳で見詰めていたアルト王女殿下は、視線をフォルテ様へと移す。
「この子はまだ外の世界を知らないわ。今回の件は産まれてからこの城の中でしか暮らしてこなかった、フォルテの見聞を広める良い機会でもあるの…………まだ、この世界が平和な内に」
淋しげに、そして悲しげに言葉が紡がれた。
確かに一理在る。アルト様は常々、人の上に立つものはその支えとなっている民の事を知るべきだと言葉にしていた。
民無くして国は無く、国無くして王は無い。国の土台とは民であり、民あってこその国なのだと。
将来人の上に立つフォルテ様に今まで知識でしか知ることの無かった民の存在を、その身で知る良い機会なのだろう。
そしてこの平和がいつまでも続くとは限らないのも事実だ。もしも魔王との戦いが始まれば世界は危機に瀕する可能性が高く、そして……この世界には、平和を望まない者も居る。
「アルト王女殿下。不肖、このクレス・スタンノート、その大任を受けさせて頂きます」
膝を折り頭を垂れ、手を胸に当て誓いを立てる。我が騎士道と、姫の騎士である己自身に。
「ええ、宜しくねクレス」
柔らかく、そして嬉しそうな声が降ってくる。
そして顔を上げた際、正面からフォルテ様が抱きついてきた。
「クレスッ、ありがとねっ!!」
いままで黙っていた事の成り行きを見守っていたフォルテ様は喜色満面に、喜びを全身で表している。
普通であれば何があるか分からない外の世界に恐怖を抱きそうなものだが、流石はアルト様の子だと云うところか。その好奇心も人一倍強いようだ。
こうして、フォルテ様を伴っての旅が始まりを告げたのであった。