到来を告げる北の風 3
基本的にはクレス・スタンノートの一人称視点で進行していますが、戦闘に関しては三人称視点にて書いております。
《Ⅲ》
* * *
グランスワール王国、初代国王グランスワール・ファン=ゲオル。
今から四百年以上も前、彼は小さな国や部族の集まりであったラインラント平野を統一し、一つの国家を築き上げた。決して簡単なことではない、だが彼は長い永い路の果て、多くの仲間、知己、友を得て、そしてそれは多くの犠牲の果てに、国家という夢を成しえた。
国王ゲオルは平野の中央に城を据え、一代にして隣国の存在に怯える事の無い、強固な国家とすることに成功した。
伝説的な王にして英雄の王、そんな彼を一言で顕すならば――『精霊に愛されし者』と、うたわれている。
ラインラント平野の全体から見て中央部の西寄りに、名も無き小さな森が存在した。
疎らに立つ若木は瑞々しく、頭上を雲のように覆う葉は鮮やかな緑色をしている。
森の中から見上げれば、微かに傾いた陽光が木漏れ陽となり、あるいは梢が墨で塗り潰したような影となる。
立ち込める自然の匂い。吹き抜ける風にざわめく木の葉歌が鼓膜を揺らし、自然に囲まれていることを意識させる。
そんな森の中に、二つの人の姿があった。
片方は帷子の上に簡素な革の鎧を身に付けた青年であった。赤茶色の髪の下には青白い不健康そうな肌を覗かせ、体調が優れないのか汗をダラダラと流している。
その者は森の傍にある村の衛兵を勤めており、名をユアンといった。そんなユアンの赤黄色の瞳は、すぐ傍の同じ瞳の色を持つ男性へと向けられている。
高い鼻梁と凛々しい眉の精悍な顔立ち。固く切り結んだ口許は、その者の厳格でストイックな意思を窺わせた。
そしてどことなく穏やかな、更には憂いを秘めた眼差しは、男ならではの色香を強く匂わせる。視線一つで女心を融かしてしまいそうな美丈夫であり、よく鍛えられたその長身は他者を圧する威風に満ちていた。
歳は四十に近いが一切の衰えを感じさせず、むしろ歳月を積み重ねる度、その身を研ぎ澄ませてゆく印象を抱かせた。
彼こそがグランスワール王国が誇る英雄にして、大陸最強の騎士として名高い、クレス・スタンノートである。
ギチリ、と空気が軋む音がした。
信じがたい程の――強者の威圧。それは幾多の死線を潜り抜け、無数の命を奪ってきた歴戦の勇者の証と言えよう。
ユアンは唐突に強烈な渇きに襲われ、一度だけ小さく喉を鳴らした。
偉大なる英雄の全身から静かに放たれる威圧感を肌に感じ、ピリピリとした切迫感が強まってゆく。
英雄の視線の先。木々の間を抜け、見据えた先には小石程度の小さな点が見えた。距離は百メートルを越え、彼は端正な目元を細め、その点を鋭く睨み付けている。
先程のなめし皮を力一杯絞ったような音の原因、それは彼の手元で引き絞られたストリングが上げた悲鳴であった。
一本の弓矢をつがえて引かれた弓弦は、美しい三角を描き、同時に肌を焦がすような緊迫感を発していた。
「すまないな」
男から謝罪の言葉が紡がれ、閃光の如き刹那、二本の指が矢を離す。
ビンッ――と空気が震え、矢が空気を切り裂き駆け走る。木々の合間に異質な風切り音が鳴り響き、一拍遅れて鈍い音が伝わってきた。
視線の先で動くのを止めた影を見据えたままに、英雄と呼ばれし男は静かに傍らの若者へと語り掛ける。
「行こう」
ただそれだけ言うと、射殺した獲物に向かい弓を片手に歩き出す。ユアンはハッとして、即座に頷き彼の後に続く。
近付くにつれ、その鼻と舌は周囲に漂う空気比率の変化を嗅ぎ分ける。
日溜まりの中の緑に紛れた、錆びた鉄の匂い。零れ落ちたる命の蜜。一匹の四足歩行の獣――灰色の毛皮をもった狼は、首に突き立った一本の弓矢で絶命し、その血液を大地へと垂れ流していた。
クレスはその傍へと屈み、眇められた瞳で狼の死体の全身を観察する。
「見てみたまえ」
そう、ユアンに語り掛ける。青年は周囲に漂う血の匂いに顔を青白くしたまま、どうにもおぼつかない足取りで近づいてゆく。
クレスは狼の死骸、その腹の辺りを指差しながら口を開いた。
「肋が浮き出ている。それに脚は細く、明らかに痩せ細り過ぎだ」
確かに、とユアンは頷く。
「村の農夫達の話では、ここ最近で獣の被害が増したという事だが……おかしいとは思わないかね?」
「おかしい……とは……?」
ユアンは青白く顔のままに、恐る恐ると云った様子で聞き返す。クレスは青年を責める訳でもなく淡々と答える。
「森に食べ物が無くなった……だから狼達は畑を襲ったのだろう。そして畑から食糧を奪い腹を満たしていた筈の狼は、何故――ここまで痩せ細っている?」
「それは…………」
ユアンは呻くような声を発した。
「森から食べ物が消える事など、普通は有り得ない。今までは森の中で生活していた獣が、村の食糧を奪い……しかしそれでも餓死寸前まで追い込まれている」
「その……この森に、何か異変が……?」
動揺と、焦りを滲ませた質問に対し、クレスは暫し黙考したあとに口を開く。
「いや、まだそうと決まった訳では無い。この一匹だけが群れから離れ、飢えていただけなのかも知れないからな」
その帰ってきた答えに、若者はホッとした表情を見せ――
「だが、本来群れで行動する筈の狼が一匹でいた……偶然かも知れんが、この森に何かあったと考えておいた方が良い」
続けられた英雄の言葉に、表情をひきつらせた。
クレスは立ち上がるとグルリと周囲を見渡し、おもむろに右手を掲げた。
そして、パチンッ――と静かな湖面を打ちつけたような、玉石を打ち合わせたような、そんな玲瓏たる音色が響き渡る。
それはまるで獣避けとして鳴らされる鐘の響きのように、遠く近く、高く低く、森の中へと浸透してゆく。
「フム……あちらか」
クレスは斜め前方へ視線を留め、そう呟く。そしてユアンは本日二度目のその光景に、飽きることなく息を呑む。
【精霊術】、体内や大地、または周囲に漂う精霊の力、通称<マナ>を活用し行使される術を総称して<精霊術>と呼ぶ。
たった今、クレスは発動させた精霊術は<反響定位>と呼ばれるものだ。それは体内のマナを外へと放ち、周囲一帯のマナの濃度や分布を探る術である。
クレスはそれを森に棲息する獣、その体内に宿るマナを探る為に使用している。だが、この術はあくまで初歩中の初歩と呼べる術式であり、さして驚くようなものでは無い。
自然には大なり小なりマナが満ちており、また体内にもマナは存在する。生まれてから直ぐに身近に存在するマナ、そのマナを活用する精霊術は、例えいくら才能が無いものでも、努力さえすれば初歩程度の術は行使出来てしまう。
ユアンが驚いたのは、本来獣に限らず他の生き物の位置を探る事が出来る筈が無い<反響定位>の術式にて、離れた獣の位置を探っていると云う事だ。
しかも、正確に、である。
精霊術には本来、索敵に用いられる術式が存在した。
しかし何故かクレスはその術式を使用せずに、わざわざ初歩の精霊術にて獣の位置を探っている。だがその理由は、彼が吟遊詩人達によって広く語られている存在であるならば納得がゆく。
それはこの英雄と呼ばれしは騎士には、精霊術の才能が備わっておらず、皆無に等しいと云う衝撃の事実であった。
だがそれでも彼は大陸最強の騎士と呼ばれ、ありとあらゆる試合、そして全ての戦で負けた事がない。剣も、槍も、馬も――誰よりも巧みに操り、戦場では数多くの敵を打ち倒してきた。
才無き者、幼くして騎士となった少年は周囲からそう揶揄されながら、まさに血を吐くような努力を重ね、いつしか英雄と呼ばれ今に至る。
長き、永き、気の遠くなるような時間を、彼はまるで己自身を殺しかねない鍛練を重ね続けた。日々汗を流し、血や死に濡れた研鑽の果てに、クレス・スタンノートと云う英雄が生まれたのだ。
彼がそうまでして強くなろうと、強くあろうとした理由――それは、たった一人の女性を護り抜く為だと、広く語られている。