第75話『専門家であるということ、責任をとれるということ』
『……話を続けるが。
今回の会合は緊急も緊急だ。もちろん山岳事故が起こったわけでもなければ、病人がいるわけでもない。
つまりだ、キノエさん。とても現行法の枠内ではヘリを飛ばす許可など間に合わないのだよ』
「えー。でも、せっかくの国家権力じゃん。
こう、命令一つで住民を立ち退かせて、高速道路とか鉄道とかぱぱぱっと……抵抗する相手はどこから湧いてきた柄の悪いおじさんたちが殴り飛ばして……」
『……かつての中国みたいで生々しいな。
とにかく、この周辺一帯には自然保護のために強い規制がかけられているんだ。
よほどの理由と事前の調整許可がなければ、ヘリコプターなど飛ばせないんだよ』
説明に疲れたように湯河原は肩を落とす。
キノエは納得できていない顔だったが、それ以上の質問をするつもりもないようだった。
(そうか……ヘリポートひとつとっても、いろいろあるんだな……)
単なる同伴者と思いきや、コウから見ると湯河原は行政に対する認識と経験値がまるで違う。
(やっぱり何かを専門にやってる人は凄いな……)
などと━━感心する思いで、コウがふと視線を向けた先には、小さな標識があった。
「あ」
「どうしたの、コー兄?」
「い、いや何でもない」
慌ててコウは首を振り、それを見なかったことにする。
(あれって……)
それは一般的なクルマのフォルムに『E/HV』という記載がなされた標識。
つまり、『この道を走行できるのは、電気自動車もしくはハイブリッド車及び法令にて指定するエコカーに限る』の標識である。
(なるほど、ヘリも飛んで来られないわけだ……)
しらびそ高原のみならず、自然環境を観光資源としている地域では珍しくない標識であり、たとえば富士山へのアクセス道路にも立てられているものだ。
とはいえ、これに従うならば、ガソリンエンジンの三菱ランサーはここにいること自体が法律違反のはずである。
(とすると……ヘリは無理だけど、湯河原さん達の力であの規制なら何とか出来た、ってわけか……)
おそらくそこには専門家ならではの巧みな運用術があるに違いない。
コウはそう確信する。
(後にどこかで発覚したとしても言い訳が立つように……都合が悪ければ隠せるように……さもなくば、責任をとる誰かまで決まっている、ってところかな)
ひょっとしてひょっとするならば。
案外、あの椿という人物はいざという時にすべての罪を背負う覚悟があるのかもしれない。そんなことすら考える。
たとえ、それが道交法違反に過ぎず、懲役でも禁固でもなく、単なる反則金+免許の点数だったとしても、である。
「すごい……すごい覚悟だな、椿さん……湯河原さんも凄いよ……」
「叔父さん、コー兄がなんかめちゃくちゃ感動してるんだけど」
「……コウがあんなふうになるのは珍しいな」
『えー、申し訳ありませんが、そろそろ時間もないので、中へご案内します』
淡々とした湯河原の声に、コウは我に返った。
「す、すいません」
『……まあ、実際のところ、大した事情もないのです』
小走りに近づいて、湯河原の隣にコウは並ぶ。
すると、恐らく異例といって良いだろう若さである、長野第三支部の副支部長は呟いた。
『このしらびそ高原から30分ほど走ると、下栗の里があります。
ご存じですか、日本のチロルと言われている観光地なんですが』
「いえ、あいにくと……」
『そうですか。今度、是非いらしてください。
……もとい。そんな観光アピールはともかくとして。
下栗の里も高所にある観光地ですが、地元住民の便宜を図っていまでもガソリン車の使用が認められているんです。
富士山のように平地からシャトルバスでも運行できればいいんですがね。まあ、地元としては個々にクルマで直接来てほしいらしく……』
「はあ」
『そんな場所からこのしらびそ高原は一本道なんです。
ですので、結構、県外のガソリン車が迷い込むんですよ』
深く、重い排気音が響く。
首を巡らせた湯河原に続いて、コウもまたこの場を後にするランサーのテールランプを見た。
明らかに来た方向とは正反対へむかっている。
『あいつが走っていく先に下栗の里があります』
「本当に一本道なんですね」
『もちろん、今回は極秘といっても公用です。
党支部としても、もちろん政府与党としてもリスクがないわけではないい。
何事か明かせない用事のために、禁じられたガソリン車を暴走させた、などとメディアに書かれたら困りますからね』
「なるほど」
『まあ、その時はその時で、あいつが免停になって、さらに私が責任をとればいいわけですが』
さらりと言ってのける湯河原にコウは愕然とした。
責任をとる。そんな言葉があまり年の離れていない人間から、平然と飛び出すことが衝撃だった。
(……僕は、そんなふうになれるだろうか?)
そんな言葉はもっと年齢の高い、少なくとも40代とか50代の人間が発するものだと、川野コウは思いこんでいたのである。
(……ちょっとイメージできないな)
たとえば━━自分があと何年か後に、このような言葉を発する側の立場になる。
責任をとる側の人間になる。
むろん、そんな願望があるわけではない。
だが、もしそうなろうとしたら、どれほどの努力が必要とされるだろう。
どれほどの労苦を堪え忍ばねばならないだろう。
何より……どれほど学んで、経験しなければならないだろう。
『それではご案内します』
そんなコウの思いを知ることもなく、先頭に立った湯河原はしらびそ高原ロッジの入り口を進む。
ロッジ、といっても入り口は自動ドアだった。
そもそも、施設自体も五階建てのマンションほどもあり、観光施設としてかなり多くの客が出入りするのだろうと思わされる。
『失礼します。支配人はいらっしゃいますか。
連絡させていただいた政府の者ですが……」
『私が支配人の十国です。
いやあ……まさか本当においでになるとは、驚きました』
湯河原の言葉に十国と名乗った男性は、信じられないような顔で言った。
ロッジの入り口付近には観光地らしく売店や食堂があり、温泉の案内も目立つ位置に掲げられている。
こんな用事で来たのでもなければ、一風呂浴びるのもいいかもしれないとコウは思う。




