第74話『薄霧たなびくしらびそ高原』
しらびそ高原。
日本列島の中央構造線上に位置する山岳尾根の一帯であり、関東近県では天体観測の好スポットとしても知られている。
そんな━━静寂と薄い霧に包まれた日没直後のしらびそ高原ロッジ前に、獰猛なエキゾーストノートを響かせて、椿の駆るランサーは到着した。
たちまちナビシートと後席右側のドアが開いて、2人の男が飛び出してくる。
『ろろろろろろろろろろろろろろろろろ』
「ろろろろろろろろろろろろろろろろろ」
「うわあ……吐いてる。せっかくの自然が台無し」
「まあ無理もないと思うけど」
草地にむかってかがみ込んでいる湯河原とキミズ叔父を、半眼で見つめるコウとキノエ。
そんな彼らの背後でドアが開く音がした。
『いやあ、走った走ったー!! たまんねえなあ、おい!!』
運転席から現れたのはドライバーの椿である。
その頬はまるで美女と一戦交えてきた直後のようにつやつやで、途方もない幸福感にあふれているように見えた。
「あ、あの、どうも、運転ありがとうございました」
『おう、後ろの兄ちゃんか! どうだ、楽しかっただろ?』
新飯田駅での不愛想さはどこへやら。
遠慮がちに礼を言うコウに対して、椿はさわやかさMAXといった笑顔で応じる。
『たまには人を満載して走るのも乙なもんだ。
後ろに3人も乗ってると、こう……登りってこともあって、後輪にトランクションがかかるかかる!』
「は、はあ……」
「おじさん、運転あらーい。最初は楽しかったけど、最後はつまんなかった。今度はもっとジェントルに走って」
『お、おじさん!? 俺はまだ28なんだが!?』
「あたしの倍以上、生きてるじゃん。それ完全におじさん。
ね~、コー兄もそう思うよね?」
「……いや、僕も20代なんだけど」
自分たちこそ若者、という表情で目をきらきらさせるキノエ。
コウが呆れたように言い返すと、妹はやたらとよく育った胸を張りながら自信満々に言い放つ。
「同じ20代でも、前半と後半で天と地ほどの差があります!」
「そうか。よくわかった。それじゃあ、あと数年したら僕のことは忘れてくれるんだな」
「やーん!
うそうそ。そのときはあたしも年取ってるし、ますますコー兄とお似合い!
ほら、おかしなことないでしょ?」
『……走り屋やってる俺が言うのもなんだが、お前ら変わってるのな』
「どうも……」
あまり深く立ち入るつもりはないが、その分、誤解は誤解のままで持って帰ります。そんな顔の椿に訂正の言葉を投げかけられる気力もなく、コウは一礼する。
「何にしても運転ありがとうございました。
おかげさまでものすごく早くつきました」
『いいってことさ。
お上公認でここらを好き勝手に飛ばせるなんて、一生もんだからな……ギヴ・アンド・テイクってやつだよ』
ひらひらと手を振る椿の表情は、なんだかんだで若さが見受けられる。
(僕と大して変わらないよな……)
もちろん、10代のキノエからすれば、まとめて年寄りなのかもしれないが、コウにとっては年齢の近い同姓に過ぎない。
「本当に、どうも」
『おう!
俺にはよくわからんが、これから仕事があるんだろ? がんばれよ!』
もう一度、椿にむかって頭を下げるとコウは、キミズ叔父たちの元に向かう。
年齢なりの内臓を盛大にシェイクされまくった叔父と、そして単にこうした運転に慣れていないであろう湯河原は、ぐったりとしながらも吐き出すものを出し終えて、口元を拭いているところだった。
(まだ19時20分だ……本当に早い)
『The・フォン』の時刻表示にコウは驚愕する。
確かにナビゲーションや地図システムの表示する時間は、余裕を見込んでいるかもしれないが、半分以下の所用時間である。
恐らく今回以上に早く到着するためには、空を飛ぶしかないだろう。
「ねーねー、叔父さん。
時間はたっぷりあるみたいだけど、これからどうするの?」
「お、おお……そ、そうだな。ふう、えらい目にあったぜ。
何しろここはα連合国ご指定の場所だからな。家捜しくらいやっときたいところだが……そのための人員も集められなかったしなあ」
恨めしげにキミズ叔父は薄い霧の中に沈んだ下界を見る。
夜の闇と森林に遮られて見えないものの、中部地方からは政府与党の関係者が大挙して、この場所へ向かっているはずだ。
(まあ、あんな道を普通に走ったら無理だよな……)
コウは思う。
とても間に合わない。間に合うはずもない。それこそ、空でも飛んでくるしかないだろう。
『ヘリさえ使えれば……本当に申し訳ありません』
「いや、あんたの責任じゃないさ」
まだ酔いが残っているのか、青い顔でメガネのスーツ姿━━つまり湯河原が頭を下げる。
『ああ、名刺をお渡しするのもまだでしたね。
党の長野第三支部で副支部長をつとめています湯河原です。本日は遙々お越しいただきありがとうございます』
「キミズだ。
こっちは甥っ子のコウで、あっちのかわいいのが姪っ子のキノエ。いろいろあって、2人とも同席させるつもりだ。
気になると思うが、詮索せんでくれ」
『承知しました』
「はいはいはーい、しつもんでーす」
しゃきりと挙手した右腕をぶらんぶらんと揺らして、そして胸元の双豊もぷるんぷるんと揺らして、キノエが問いかける。
コウはまたいつものマイペースか、とため息をつき、キミズ叔父は淡々としていた。
湯河原は面食らったように一瞬頬を染める。
「あっ、おじさんがエッチな目でみた!」
『そっ、そんなつもりはないっ!!
それに私はあの椿と同じでまだ28だ。おじさんは止めてほしい』
「え~、ほんとかな~。ねーねー、コー兄はどう思う?
嫉妬した? 俺だけのあたしだと思ってくれた? いやったー!!」
「まったく全然思ってないし、嫉妬もしてない。
……あのな、ちょっと余裕が出来たとはいえ、時間がないのは変わらないんだから、脱線するのはやめろ」
「ぶーぶー。大事な質問だったのに」
性的な視線で見たか否か。28歳か否か。嫉妬したか否か。
どちらが本当でも嘘でも、イエスでもノーでも、コウにとっては恐ろしくどうでもよいことだった。
「それでね、おじさん」
『私はまだ28だ』
「こだわるなあ……まあいいや。なんでヘリ使えなかったの?
あっちの空き地って、ヘリポートだよね」
そう言いながら、キノエはすっかり闇の中に沈んでいる一点を指さした。
コウをはじめ男たちには単なる暗闇にしか見えないのだが、キノエにはそこに何があるか見えるらしい。
『確かにここにはヘリポートがあるが……よく見えるな』
「や、今は見えないよ? でもさっきクルマのライトでちらっと」
「めざとい」
「しくしく、コー兄が悪いことしたみたいに言う。
あたし、ショック。ここから身を投げてしぬっ!」
「あ~……キノエちゃん、そっちは単なる傾斜地だからごろごろ転がるだけだぞ」
『……ともあれだ。キノエさん、だったか。
確かにこのしらびそ高原にはヘリポートがある。ただ、それは医療や災害に対応するための非常用なんだ。
たとえばそこで急病人が出た場合だな』
ずれかけたメガネを直しながら、湯河原は目の前にそびえるしらびそ高原ロッジを見た。
『だから━━』
と、視線を戻そうとするその時。
ランサーの傍らで椿が「俺はもういいのか」とでも言いたげな顔をしててる。
『………………』
湯河原は無言で軽く片手をあげた。「用件は済んだ、ありがとう」とでも言っているかのようだった。
(……あれだけで伝わるんだな)
『ダチ』という古い言葉で椿が湯河原を呼んでいたことを、コウは思い出す。
実際はダチどころか、それはそれは深く長いつきあいなのかもしれない。